絵師 高橋天山ブログ -16ページ目

絵師 高橋天山ブログ

日本画家が語る日本文化の素晴らしさ
菱田春草を語る

 四時山水は、大観芸術の見事な結晶で、たった一つ大観作品を選べ!と言う無理難問題を突きつけられたら、大いに迷った挙句この作品に私は指を屈します。

 じゃあ二番目は?
これも無理無理、他の作品に未練タラタラで、この“南冥の夜”かな??
と思うくらいにこの作品が好きです。

院展同人 高橋天山ブログ


ミッドウエーとか、ラバウルとか、フィリピンとか?、南の島での戦時下、緊張の中のほっとした夜の気が、てらいなく鮮やかに描き出されています。湿気まで感じるではありませんか。
近代美術館にあるのですが、足立にもあり、他にも同画題の似たような作品があると聞きます。

そして、3番目は?  これかなー。“紅葉”


院展同人 高橋天山ブログ


これも足立美術館の看板となっている作品で、屏風で大作で、ゴージャスそのもの。心行くまで日本の秋を満喫することが出来るのです。

少しお若い時の作品で、好きなのが “飛泉” の対幅。実に雄大。


院展同人 高橋天山ブログ


院展同人 高橋天山ブログ
 


院展同人 高橋天山ブログ

院展同人 高橋天山ブログ

院展同人 高橋天山ブログ

院展同人 高橋天山ブログ

院展同人 高橋天山ブログ

院展同人 高橋天山ブログ

「四時山水」   最後の絵巻・・・美しくも気高き日本の山水図。

 冒頭に大観先生の座右銘、<“趁無窮 ” むきゅうをおう>と書かれたこの絵巻物は、昭和22年円熟の極みに立った大観が、戦後の日本を憂い、渾身の全力を持って描ききった最高傑作であります。

 30メートルに及ぶ長大さはもとより、内容のおおらかで、気宇壮大、しかも微細に渡って細やかな神経が行き渡る、と言う矛盾する芸術の二極をも兼ね備えた、歴史的金字塔と言えるでしょう。

 悲惨な戦後の日本の在り様が、この作品を生んだのです。
 大観の嘆きと絶望と、歯を食いしばって耐え抜こうとする大和魂とが、この名作に結実しています。

 大観先生の書かれた日本美術院の綱領の冒頭に、
          
 “一切の藝術は無窮を趁ふの姿に他ならず 
  殊に絵画は感情を主とす世界最高の情緒を顕現するにあり”

 とあります。“無窮を趁ふ”むきゅうをおう。と読みますが、大観先生が岡倉天心先生より受け継ぎ、座右銘として、大切にされていた言葉であり,まさに、この一言に日本画の魅力は集約されているのです。

 大観先生ご愛用の硯

院展同人 高橋天山ブログ


 最晩年の落款

院展同人 高橋天山ブログ


 昭和24年、第34回院展出品 「被褐懐玉」(ひかつかいぎょく)

院展同人 高橋天山ブログ

『寒山(かんざん)と拾得(じっとく)はともに唐代の脱俗的な人物で、寒山は始豊県西方70里の寒巌幽窟に住んでいたため寒山と呼ばれ、カバの皮をかぶって大きな木靴をはいていたという。拾得は天台山国清寺の豊干(ぶかん)に拾い養われたので拾得と称し、国清寺の行者となった。
 2人は7世代にわたる仇敵同士の家に生まれたが、豊干は2人を悟りに導いたという。あい交わるようになった2人は国清寺に出入りし、その食事係となって、衆僧の残した残飯や野菜クズを拾い竹の筒にたくわえて食糧とし、乞食同然の生活をした。
 時には寺域のなかで奇声、叫声、罵声を発し、時に放歌高吟したり、また廊下を悠々と漫歩したりして、しばしば寺僧たちを困惑させ、寺僧が追いかけると手を打ち鳴らして呵々大笑しておもむろに立ち去ったといわれる。非僧非俗の風狂の徒であったが、仏教の哲理には深く通じていた。・・・・』
                           Wikipediaより

 戦後間もなく再開された院展に出品されたこの作品は、数ある寒山拾得図のなかでも異色の、そして出色の傑作であります。普通の寒拾図は、単なる“仏法説話の絵解き”、ですが、大観先生は、痴呆?扱いされている寒山と拾得を、“目覚めて、凛とした、端然覚醒した”聡明な二人と新解釈して、単なる“仏法絵解き”にとどまらず、目覚めた二人の姿を借りて、日本の執るべき道標を示し、未来へ向かって、日本の覚醒を望まれて、描いたのだと思われます。日本の伝統と文化とを熱く胸に秘めた二人なのです。

 そもそも、大観先生の作品には、宗教性は、ありません。釈迦を描いても仏さんとしての釈迦は、描いていません。宗教画などというものは、その含蓄のなさ故に、《臭み》を感じさせるものであって、一切そんなレベルの作品は描いていないのです。

 私の師匠、今野忠一先生のこの作品を通しての大観評が、全てを言い尽くしています。

 大観先生の数ある傑作の中でも、私が第一に指を屈したいのは、院展出品作の「寒山拾得」である。東洋画の真髄と大観先生の内面がこれほどよく表現された作品を他に知らない。大観先生の最も大きな業績は、近代日本画に、東洋絵画の精神を最高のレベルにおいて導入した事にあると思う。

 いわゆる風景画と、東洋絵画における山水画は、似て非なるものである。

 東洋絵画では、物質の形象を超えた気韻を表出することに主眼を置いている。山や、樹木には霊が宿り、それは神性の具現であるとの、山岳信仰にも通じる思想がある。

 私は、日本画が、今後生き残ってゆくためには、日本の風土によって培われた伝統を継承し、西洋の合理主義とは違った、独自の精神性を表現してゆかなければならないと考えている。顔料の相違だけで日本画と洋画が区別されるのではない。

 大観先生の画業から、心ある者は東洋及び日本の精神の奥深さを感知し、画家の心構えの要諦を悟ることが出来る。

 大観先生は、われわれ日本画家が絶えず立ちかえり、問いかけ、教えを請わねばならない原点ともいうべき画業を遺されたのだと思う。 今野忠一



  

 まずは、絶筆から。昭和32年の最後の作品です。 「不二」

 富士山のことを、【神心】と表すこそ相応しい、と言った大観先生の真情が、この重厚なる絶筆に良く遺されていると思います。


院展同人 高橋天山ブログ


 次に、最後の院展出品作品。昭和30年 「 風蕭々兮易水寒」

院展同人 高橋天山ブログ

 司馬遷は『史記』の中に「刺客列伝」を残していますが、中国では日本に倣って、自らを捨てて義を通すという英雄的な行為を理想としていたのです。日本の「忠臣蔵」と同じ意味合いの、ものであります。

 他国を制圧、蹂躙する秦国の王へ、燕国の王が刺客を送りました。
 刺客は国を出発する時に、見送ってくれた王様に詩を捧げました。

   風蕭蕭兮易水寒   かぜしょうしょう としてえきすいさむし
    壮士一去兮不復還  そうしひとさびさってふたたびかえらず

「風はびゅうびゅうと吹きすさび、(今まさに渡ろうとしている)易水は冷たい。私は今、秘命を帯びて旅立ち、二度とここに帰って来ることはありません。(なぜなら私は決死の覚悟で暗殺を行い、きっとその場で殺されるだろうから。)」

 易水とは燕国の国境河川で、壮士とは決死の覚悟の自分自身。
易水を舞台にしているのは、王様がわざわざ国境まで見送ってくれたから。(身分差からして有り得ない特別待遇)
 短い詩の中で、「私は死んでも使命を果たしますからご安心下さい。」と歌っているのです。

 秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻<(けいか)>は今一歩の所で失敗し、殺されてしまいます。荊軻と心を通じていた高漸離<(こうぜんり)>は荊軻の果たせなかったことを自分が果たそうとしますが、二度失敗して八つ裂きにされてしまいます。
 この物語は刺客列伝の中でも最も有名なもので、荊軻が作った「易水の別れ」というこの歌は勿論、大観先生の脳裏に深く刻まれていたのです。

 最晩年、写生に行くどころか外出する事もできず、この作品を最後に、一度たりとも出品を欠かさなかった院展にも以後、出品は出来ませんでした。

 この犬のモデルは、漢時代かと思える青銅製の置き物。大観のコレクションの逸品です。異様な枯れ柳の下、足を踏ん張って壮士を見送る犬を描いて、先生は、一体何を言いたかったのでしょうか。

そして、昭和27年作、「或る日の太平洋」

院展同人 高橋天山ブログ



 大観先生の作画方法は、日本画総論に述べられているように、

 “作家たらんとする者は、この喜怒哀楽にかかはる人事なり春夏秋冬を通じての自然なりを、広く、又深く究め、これらに対して充分の認識を得なければならぬ。充分の認識を得たる上にて、改めて内に省みて、何んの疑ひなき時、創作に向かへば、筆は初めて心のままに動き、名作を創造することは易々たるものである。”

 ですが、実際の作画においては、繰り返し納得の行くまで何枚も描いたのでした。この作品がその典型例で、実に20点以上。遺されている資料としても十数点、事実残ってます。
 それらは、下書きとか、大下図とかいった、中途半端なものではなく、本紙に、そのつど一期一会の覚悟をもって望んだ立派な本画であり、立派な傑作ぞろいなのです。

 こうではなかろうか?という試作に始まって、こうあるべきであると言う『クライ(位)』まで、試作を繰り返し、繰り返し、これでもか!と言う、猛烈な努力を重ねているのです。ひたむきな姿勢は、この作品に限ったことではありません。

 荒波と暗雲と、龍に飲み込まれてゆくような富士山を執拗に描き切ったのは、戦後の荒廃した、日本国への手向けだった? 警鐘だった? のかもしれません。


 お若い頃の大観先生は、かなりのイケメン。気骨あふれる好男子です。
 彩管報国を身上として、ご活躍の頃は不退転の決意がみなぎっている様。


院展同人 高橋天山ブログ

御晩年は、まさに好々爺。

院展同人 高橋天山ブログ

 後ろ右が、小林古径。中、安田靫彦。左、大観夫人。

院展同人 高橋天山ブログ

 大礼服で緊張の面持ちの大観。大礼服は、宮中の盛儀や饗宴(きょうえん)に列席する人たちが着用する最高の礼装のことデス。

院展同人 高橋天山ブログ

院展同人 高橋天山ブログ

昭和15年、皇紀二千六百年、海山十題を国家に献上した時の記念撮影。と、大観号と名付けられた爆撃機。


院展同人 高橋天山ブログ

  若かりし大観先生から、円熟の大観先生。肖像写真あれこれをどうぞ。

院展同人 高橋天山ブログ


明治40年、五浦の天心邸で。右端から大観、観山、天心、春草。



院展同人 高橋天山ブログ


明治33年、谷中の日本美術院での記念撮影、前列左から2人目が春草、4人目が大観。橋本雅邦をはさんで、中央は天心。



院展同人 高橋天山ブログ


明治38年、欧米旅行から帰った大観(前列左)と春草(前列右)


院展同人 高橋天山ブログ

明治39年、ウォーナー博士を囲んで。右が大観。前列右は春草。


院展同人 高橋天山ブログ

明治28年、天神服の東京美術学校助教授の頃 

 在りし日の大観先生を彷彿とさせるのは、残された作品群と、様々な逸話。上野池之端に現在もある、横山大観記念館。400坪の敷地と、アトリエを含む建物。設計も自ら行ったと言うお庭も、周りの高層ビルの中に埋もれながら、今尚、健在です。

 大観が、不世出の大天才であったことは間違いありませんが、微笑ましいのは・・やはり、日本酒にまつわるお話。

  「タルハツケドモ サケハナシ ショウガツデキヌ タイカン」


これは、昭和20年の暮に、広島県の高級酒醸造元、酔心山根本店の山根薫氏あてに出した、大観の電報です。

 二人は、初対面で意気投合し、一生分の酒を送ると約束し、大観も酔心以外は呑まないと誓い合って、以後、一日、二升三合の割合で贈り続けられて来た酒でした。

 大東亜戦争も熾烈になる頃、日本酒“酔心”の輸送もよほど困難となり、当時大観の元へ鉄道貨物として送られていたそうですが、樽酒ともなれば、どうしても目立ち、輸送途中で樽の中身が抜かれ、空樽だけが大観の元へ届いた事もしばしばあったのでした。

 友人であった五島慶太が、当時運輸大臣であった事から、大観は五島に直訴し、広島三原駅長から大観邸へ、局長荷物として酔心を送ると言う最終手段に出たそうです。が、着いてみれば、やはり、半分抜かれてしまったあと。

 そのことを大観が五島に文句をつけると、「全く着かなかった物が半分も着いたんだから、ありがたく思え」、と逆ネジを喰ったとか・・・・。

 国家権力まで使って・・・・、当時の混乱した輸送事情は、想像以上であったのです。

 さて、大戦後の混乱のさなか、昭和21年の正月を迎ようとする頃、この電報を受け取った酔心側は、薫社長の息子さんを使者にたて、大晦日の夜行で、片手に一升瓶6本ずつ、あわせて12本、背中のリュックには、広島の美味しい嗜好品を一杯につめて、超満員の夜汽車に乗車させました。夜通し立ち続けて元旦の早朝、熱海駅に到着。そのまま伊豆山大観の疎開宅へ。
 
 まさか!!予期せぬ酔心の到着に感激した大観は、息子さんにすぐさま、一筆揮毫し、破顔一笑。大喜びであったそうです。

 幸せな人ですね。 ホント、固い約束は、守られたのでした。

 いよいよ、最終章にはいります。大観先生65歳、円熟の極みに達して、次々と傑作を生み出してゆかれた年代でした。

★     ★     ★     ★     ★

  次に私は、名作を創造するにはどのような心掛けが必要であるか? について一言したい。 
 
 吾々作家が日本画を創作するに当たって、其表現すべき題材は、過去、現在、未来を通じて、喜怒哀楽の人事、若しくは春夏秋冬の自然に殆ど限られている。凡そ如何なる絵画の題材も、それを仔細に観察すれば、あらゆる絵画の題材は、この二つの原則に関はっている事に気付くであらう。

 故に、作家たらんとする者は、この喜怒哀楽にかかはる人事なり春夏秋冬を通じての自然なりを、広く、又深く究め、これらに対して充分の認識を得なければならぬ。

 充分の認識を得たる上にて、改めて内に省みて、何んの疑ひなき時、創作に向かへば、筆は初めて心のままに動き、名作を創造することは易々たるものである。

 然しながら、この内に省みて少しの疑ひなき境地に到るといふ事は、決して易々たるものではない、一点の疑ひあれば、筆は決して意のままに動くものではない、この内に省みて些かの疑ひなき境地に達することが、作家として大精進を必要とするところである。

 先に述べた含蓄ある表現と言ふ事も、所詮は、この疑ひなき境地に到達して、始めてこれを能くする事が出来るのである。


★       ★       ★       ★      ★

 さて、名作の描き方などと、後輩に語った、先輩が、嘗て、いたでしょうか。大観先生の目標は常に“はるかかなたの高み”であったからこそ、後輩に対する指導も、厳しく、次元の高いものになったのだろうと思われます。

 それにしても、王道は、簡単ではありません。


院展同人 高橋天山ブログ

昭和15年前後、日本画総論を書いたころの大観夫妻

  
 七、日本画に於ける含蓄

 最後に私は、日本画の表現に於ける含蓄といふ事について一言して置きたい。由来日本画に於いては、含蓄ある作品が尊重されて居る。この含蓄ある作品とは、表現された画面にゆとりのある事である。

 支那の老子の言葉であったと思ふが、『良貨は深く蔵めて虚しきが如く、君子は成徳ありて容貌愚なるが如し』といふのがある。

 良貨即ち高級な商人は、その売品を自慢らしく店先には並べず、陰の方に蔵して、一見虚しい様に見せる、君子も亦成徳あるものは、その徳を鼻にかけず、その容貌は愚者のようであるといふので、つまり人間には含蓄がなければならぬといふ意味を説いた言葉であるが、日本画の表現に於いても、同じく、この東洋的精神に則って、画面に現はるるものは、十の三四にして、然かもよく題意を表現する事を得るを最もよしとしなければならぬ。

 茲に初めて含蓄ある作品を得る事になるのであるが、近来接する多くの日本画には、この含蓄ある作品が極めて乏しい。

 これは、一般の作者が、その表現を試みるに当たって、自己の有するものを精一杯に画面に示さねばならぬやうに考へるからである。

 自己の有するものの、其悉くを示して、満足し又は誇張する許りでよく、或種の者に在っては、真に自己の有せざるものをも、恰も有するかの如く示す者すらある。

 十のものを十に表しても、そこには少しの余裕といふものはない筈である。況して、五のものを十に見せようとするに至って、そこに含蓄のある作品の生まれるべき筈はない。

 前にも述べた如く、含蓄ある作品を得んとするには、自己の有する十の三四を以って表現し、然もこの三四のものが、充分に其題意を表現し尽すやうにしなければならぬ。

 斯様な意味よりすれば、自己の胸中に十のものを蓄へるといふ事は決して容易な事ではない。ここに作家としての研究と修養の広く且つ深きを必要とするのである。


  ★       ★       ★       ★

 これは、難しい。たいていの場合、むりむり、精一杯、持てる力ぎりぎりまで、出し尽くしたって、まだまだ足りない、訳ですから。
 ポテンシャルを内在しておいて余力を十二分に残して、尚、“性霊”を遺憾なく表現し尽くさなくては本物ではありませんよ。・・・・と言われても、殆どの人が、バンザイ。
 まづ、お手上げですね。

 しかし、すぐに出来るできないは別にして、こうでなければならんと言う、大前提を懇切に解いてくださっているのです。

 芸術に際限はない、とよく言われますが、限りなく追求できるからこそ面白いので、日本の文化というものの、本質は、こんなにまで深いものであるということを、既に到達した先輩として、まだ発展途上の吾々に向けて、“こうであったら・・”“これが望ましい”と言う指針を解いて下さっている訳です。

 日本人がその日本人らしさをなくして行く過程が、先の大東亜戦争以後の歴史の実体ですが、日本文化の魁たる大観先生はその渦中に置かれ、日本文化に止まらず、日本そのものを牽引しなければならないという覚悟の下に、戦後を過ごされたのだと思います。

 滅びて行く日本国の姿をどのような思いで、見詰めておられたのか。この厳しくも鮮烈な文章は、戦前に書かれたのですが、戦後の荒廃してゆく日本を目の当たりにして、心底憂慮されていた事は間違いないでしょう。

 敗者を勝者が裁く、という理不尽から始まって、殆ど丸裸の日本に対して、経済戦争、情報戦争、悪意に満ちたあらゆる戦争が仕掛けられ、その全てに敗れつつあるその真因は、自己の中に。

 文明が亡ぶのは、外敵によるよりも、内なる腐敗から。とは、まさしく、現在の日本の現状を指しています。

 行き着くところ、日本文化の真価を日本人自身が忘れてしまった。

 ある者は、欧米化こそ未来なり、と洗脳され、ある者は、宗教こそ救いであると、現実を逃避し、ある者は、経済こそ正義なりと、権力を打ち立てた挙句、それを私化する。

 元々、事なかれ主義でお人よしの “善良なる日本人” は、なされるがまま。“言い張って居る方”へ、あれよあれよと流されてゆく。そして、

 こんなはずじゃなかったのに・・・・。 

『良貨は深く蔵めて虚しきが如く、君子は成徳ありて容貌愚なるが如し』と言う老子の言葉にしても、大観先生はじめ、“過去のシナを理想とした日本人”は、現在のシナ、が、過去のシナとは、全く人種も違えば、何もかも違ってしまっていることまでは、知り得ない時代だったから、例えとして、“師範に持ち出してきた”、までであって、ゲンコツを振りかざして、人の領土に土足で上がりこんでくる、シナ共産党を中国4千年の歴史とゴッチャにして、有難がっている様な、腰抜け日本人では、お話になりません。

 “含蓄”。 もう、死語にさえなりつつあるこの言葉の意味を改めて問い直す必要がありましょう。

 次回は、日本画総論の最終章です。

  六、基礎技術としての写生 
  
 日本画の技法の各部門については、夫々専門的に他の人々によって講述される筈であるが、私は最後に、以上述べ来った日本画の本質に関係して、制作の一つの基礎をなす写生について一言して置きたい。

 日本画に於ける写生は写義がなくて写意であって、単なる写形と心得てはならぬといふ事を強調したいのである。

 この写生といふ事を、単なる写形と心得る事は、やがて其日本画を制作する場合に於いて、日本画の本質と全く遠ざかるところの絵画を作り上げて終ふのみならず、事物の本然的な生命を感得し、そのものの性格、環境雰囲気等を表現する事を閑却するが故である。

写生とは決して、斯くの如き写形に止まる事を意味するものではなく、対象の形態を正確に認識再現する事は勿論であるが、その形象以外に、その物象の有する精神、生命を感得把握し、これを形象の再現の中に捉えてその物象の物神二面を完全に表現するにあらねばならなぬ。

 写生の真意は、表現せんとするものの、具象的な形態と真実に再現するのではない。その物象の性格と環境と雰囲気とを研究探明して其裏にひそむ物の性霊を表現するにある。

 例えば、一輪の花、一羽の鳥、一幹の竹の写生に於いても、その写し取られた、花なり、鳥なり、竹なりは、よし、その物本来の形態が正しく写真に写されずとも、春の感じなり、或いは涼味なり、哀愁なり、瞑想なりを暗示するだけの性格と、環境と、雰囲気とを充分に把握しなければならぬ。

 斯様な関係を諒得せずして、若しも徒に写形にのみこだはるならば、この写形をいかに巧に組み立てて制作するも、その制作は、単に物の外面的な形似を再現するに止まって、真の日本画を創造する事は出来ない。

 写生は自然の真髄を理解するの方法であり、又制作の重要な基礎条件の一つである事は謂ふまでもないが。然しながら、制作の最初より最後まで、その悉くを写生に頼るといふ制作態度には私は賛成しない。私の制作態度を端的に云へば、先ず何を描くかを考へ、その考へを紙なり絹なりに表現してゆく、この制作の過程の中で、何か認識不足のものを発見した時、私はその認識の不足な点を自然から教わって来る。つまり、自然を見てから画題を拵へず、自ずから画題を作って、その不備な個所を自然から教へられるといふ方法である。

 勿論かう云ふ制作の方法は、初学の者の容易に出来るものではないが、然し日本画を真に創造するには、此の態度を尊ばねばならぬ。

 人によっては、あらゆる場合に於いて物を観なければ描かない人があり、又物を前に置かなければ描かない人がある。殊に現今の若い作家には、例へば南天を描かうとすれば南天の折枝を前に置いて、制作の最初から最後まで、それを写生して作り上げているやうであるが、かういふ即物的な方法だけでは決して真の絵画は創作出来ない。

 この点は初学者にとっては或は却却に至難な方法であるかも知れぬが、すべて至難な事を克服して初めて真底に達するのであるから、最初から易きにのみ就かず、私が述べた日本画の本質的価値を高める制作を成し遂げるために努力を払ふべきである。


★      ★      ★       ★

 よく、院展の入選をねらう位のレベルの方が、小下絵を持って批評を求めにいらっしゃいますが、殆どの場合、この“写生に囚われている状態”が多いのです。現場から発想を得ているのですから、無理もないのですが、“ありのまま”を写し取る事に手一杯で、そこから一歩も出られないことがまま、ありますね。

  写生の真意は、表現せんとするものの、具象的な形態と真実に再現するのではない。その物象の性格と環境と雰囲気とを研究探明して其裏にひそむ物の性霊を表現するにある。

 この、研究探明、(けんきゅうたんめい)、が、出来て、物の性霊(せいりょう)を表現し得るならば、院展の入選に止まらずに、本物の日本画を創造できる。のです。が。

 一朝一夕に出来るものではありませんが、少なくともそこを狙って勉強していなければ、写形に止まる範囲にしかいつまでも届かない事を、忘れがち。

 院展の入選は、目標であり、励みでもありますが、それは、道しるべ。最終目標は、【真の日本画の創造】、であることを漠然とでも感じていないと、当面の目標すら達成できない事を忘れがちになってしまうものです。

  “最初から易きにのみ就かず”、・・・・

 現代の日本人は、何者かに呪縛されたかのように“易きにのみ就く”人種となり下がってしまいました。
“目先の利得を私すること” のみに、日常を支配されてしまっている人が殆どです。

 ホントはこれが一番つまらない。

 日本画のような伝統文化に憧れて、求めているような人達であっても、つい、“易きに就いて”、しまいやすい。ホントにもったいないことです。自分から人生をツマラナクして・・・・。

 私は、若い時にこの大観先生の御文章に触れることが出来た事を今でも感謝しています。ある、偶然から、この日本画総論の古書を手にいれ、むさぼるように読んだものでした。
 しかし、当時は、出来ない事だらけ。

 あれから、30年余。少しずつ、出来る事が増えて行き、今にして思えば、随分無茶苦茶な事を平気でやってきましたが、大観先生の言葉が、どこかしらに残っていて、 『こうでなくては、こうあるべき、』 の指針を兎も角もはずさずに来れた。と言うのが実感でしょうか。

 だから、明らかに 『はずしちゃっている人』 を見ると、一言、言ってやりたくなるのは、お節介というものでしょうか。日本画の素晴らしさを感じて此の道にはいった人ばかりなのに、いつのまにか、自分のやっていることが、日本画でなくなっていることに気づきもしない、事が、まま、あるものです。

  次回は、含蓄。について。