まずは、絶筆から。昭和32年の最後の作品です。 「不二」
富士山のことを、【神心】と表すこそ相応しい、と言った大観先生の真情が、この重厚なる絶筆に良く遺されていると思います。
次に、最後の院展出品作品。昭和30年 「 風蕭々兮易水寒」
司馬遷は『史記』の中に「刺客列伝」を残していますが、中国では日本に倣って、自らを捨てて義を通すという英雄的な行為を理想としていたのです。日本の「忠臣蔵」と同じ意味合いの、ものであります。
他国を制圧、蹂躙する秦国の王へ、燕国の王が刺客を送りました。
刺客は国を出発する時に、見送ってくれた王様に詩を捧げました。
風蕭蕭兮易水寒 かぜしょうしょう としてえきすいさむし
壮士一去兮不復還 そうしひとさびさってふたたびかえらず
「風はびゅうびゅうと吹きすさび、(今まさに渡ろうとしている)易水は冷たい。私は今、秘命を帯びて旅立ち、二度とここに帰って来ることはありません。(なぜなら私は決死の覚悟で暗殺を行い、きっとその場で殺されるだろうから。)」
易水とは燕国の国境河川で、壮士とは決死の覚悟の自分自身。
易水を舞台にしているのは、王様がわざわざ国境まで見送ってくれたから。(身分差からして有り得ない特別待遇)
短い詩の中で、「私は死んでも使命を果たしますからご安心下さい。」と歌っているのです。
秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻<(けいか)>は今一歩の所で失敗し、殺されてしまいます。荊軻と心を通じていた高漸離<(こうぜんり)>は荊軻の果たせなかったことを自分が果たそうとしますが、二度失敗して八つ裂きにされてしまいます。
この物語は刺客列伝の中でも最も有名なもので、荊軻が作った「易水の別れ」というこの歌は勿論、大観先生の脳裏に深く刻まれていたのです。
最晩年、写生に行くどころか外出する事もできず、この作品を最後に、一度たりとも出品を欠かさなかった院展にも以後、出品は出来ませんでした。
この犬のモデルは、漢時代かと思える青銅製の置き物。大観のコレクションの逸品です。異様な枯れ柳の下、足を踏ん張って壮士を見送る犬を描いて、先生は、一体何を言いたかったのでしょうか。
そして、昭和27年作、「或る日の太平洋」
大観先生の作画方法は、日本画総論に述べられているように、
“作家たらんとする者は、この喜怒哀楽にかかはる人事なり春夏秋冬を通じての自然なりを、広く、又深く究め、これらに対して充分の認識を得なければならぬ。充分の認識を得たる上にて、改めて内に省みて、何んの疑ひなき時、創作に向かへば、筆は初めて心のままに動き、名作を創造することは易々たるものである。”
ですが、実際の作画においては、繰り返し納得の行くまで何枚も描いたのでした。この作品がその典型例で、実に20点以上。遺されている資料としても十数点、事実残ってます。
それらは、下書きとか、大下図とかいった、中途半端なものではなく、本紙に、そのつど一期一会の覚悟をもって望んだ立派な本画であり、立派な傑作ぞろいなのです。
こうではなかろうか?という試作に始まって、こうあるべきであると言う『クライ(位)』まで、試作を繰り返し、繰り返し、これでもか!と言う、猛烈な努力を重ねているのです。ひたむきな姿勢は、この作品に限ったことではありません。
荒波と暗雲と、龍に飲み込まれてゆくような富士山を執拗に描き切ったのは、戦後の荒廃した、日本国への手向けだった? 警鐘だった? のかもしれません。