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絵師 高橋天山ブログ

日本画家が語る日本文化の素晴らしさ
菱田春草を語る

 節電で、ちょっと暗い会場ではありますが、無事に開催できた事だけでも感謝しなければなりません。 ウィークデーはさすがに入場者は例年を下回っているものの、土日には、却って多くの観覧者があるとか。

 会場の隅には、このたびの津波で されてしまった、岡倉天心 の遺構、茨城県五浦の六角堂跡の痛ましい写真も。

 理事長、松尾敏男画伯の筆による、“黎明の富士”をはじめ、三百数十点が陳列されています。(4月11日まで、日本橋三越 特設会場にて。)

 日本画らしい絵が、見られなくなって久しい院展ですが、大観、春草、ほか、数多の先人が築き上げた伝統を継承すべく模索中であります。ちなみに理事長松尾先生は、もう80歳を幾つも超えられて、なお健筆を振るっておられますが、大観の孫弟子に当たる方。最高齢は、96歳の郷倉先生でしょうか?

 おっと、女性の年齢は言っちゃあいけませんね。

 同人(=審査員)の作品には作家自身の言葉で、解説が付けられております。私の出品作は、“いく春も(後桜町天皇 像)”と題した、女性像であります。




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“いく春も なほ色添えよ すめらぎの 世世のさかへを 契る 松ヶ枝” から、画題を採りました。帝徳あふれ、御国母と称えられた女帝、後桜町天皇の御製です。

 新井白石の先見の明により、御皇室の藩屏として創立された閑院宮家が、当時の皇統断絶の危機を救ったのですが、そこに至るまでの間、心ならずも御即位された後桜町天皇 は、後桃園天皇 、光格天皇の御教育と後見を全うされる一方で、傑出した能書家でもありました。さらに1600首にも及ぶ御製も残されております。譲位の後にも、“民やすき この日の本の 国の風 なほ正しかれ 御世の初春” の御製もあり、至尊調の極みと拝察されるのです。




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 春草は、 東京美術学校第二期生として入学したのですが、一期上に大観や下村観山などがいました。大観は良く知られていますが。今日観山を知る人は少なくなってしまったのですが、当時、最優秀とされもてはやされたのは、大観や春草ではなく

この下村観山だったのです。


 芸術の世界には一般の世界とは違うところがあって、それは、おおむね永遠を志向しているか否か、の違いと言えるでしょう。


 つまり、時間的概念に価値を見出さないのが、芸術でしょうか?。今必要なものと、今は必要ではないが、後できっと役に立つ物と・・・・。


 岡倉天心に一番頼りにされた、観山の作品は随分長い間、第一級の傑作として見做されてきましたが、近頃はその名さえ知る人が無くなって来たのを思うと、不思議の様な当然の様な気がするのです。


 勿論一人の作家にも出来不出来はあり、中でも傑作と言われる作品が、時と共に脚光をあびて、歴史に洗われながら、残るもの、忘れ去られるものと、仕分けされてゆくものなのですが、“大原御幸”、“弱法師”など、重要文化財に指定された作品であってももう、既に・・・・・。今はもう、話題にも出ません。


 天心のお気に入りだったのに、むしろ断然大観、春草の方が今日私達を楽しませてくれているので、全く皮肉なもので、朦朧派、と揶揄され世間から相手にされなかった方が、結局歴史を作ったのであります。


 春草の美校卒業制作が“寡婦と孤児”であると、先回ご紹介しましたが、なぜ、このような陰惨な作風をわざわざ、描いたのか? 最優等という評価を得たのは、橋本雅邦が、この作品をかばって、ある教官の猛烈な反対意見を抑えたからでした。


 その教官は春草のこの絵を、化物画とまで言い切って、認めなかったとか。

当時の空気が少しわかるような話ですね。


 この後も春草は、あらゆるところで、非難攻撃され続けるのですが、今になって見ると、なぜ、こんなスバラシイモノが、非難の的になったのか良くわからないくらいです。その時代にしか通用しない観念で殆どの人は暮らしているからでしょうね。


 実は、在学中の春草の親友は、熊本出身の天草神来と言う人でした。意気投合した二人は、下宿を同じくするとか、関西に取材旅行を共にするとか、好敵手であったようで、天心校長に二人で校長室に呼ばれ、進路についてアドバイスをもらったり、春草の方も、神来の方も、お互いにお互いをとても大切に思っていたようです。


 のちに、神来の方が酒に耽溺し、生活が乱れた事から、春草のほうが嫌って去ってゆくのですが、学生時代には、欠かせない大親友だったのです。


 卒業制作は大切なステップ。春草は始め、平重衡(たいらのしげひら)による東大寺焼き討ちをテーマに壮大な作品を構想していたのでしたが、途中でさすがにその重荷に断念、理想は高かったものの、まだそれを実現するまでの実力が整っていなかったと思われます。


 そこで、その前年に親友神来が描いた“寡婦と孤児”と言う、春草の卒制と同じ画題の佳作に触発されたのでした。かなり意識してきたライバルの絵の出来栄えに、驚いた春草は、俄然やる気を出したものと思われます。

  若かったんですねーーー、何しろ、22歳の事。


 満36歳で失明したうえに早世すると言う不幸を、遺された千代婦人がどれほど悲しんだ事でしょう。この“寡婦と孤児”は、そのつらい、つらい、なんともつらい、暗示だったのでしょうか???

 春草は、夭折するので、初期も中期も、後期も、あっという間の出来事。
16歳で、本格的修行に入るので、亡くなるまでの20年間が、正味、彼の活躍期間でありました。
 
 しかし、東京美術学校での基礎勉強の期間を4、5年を差し引くと、たった、15年間で、あの、偉業をなしたのですから、それだけでも、驚きの大天才ぶり。

 卒業制作が、“寡婦と孤児”


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 愛妻、千代と愛児3人を残して、36歳でなくなるのですから、この、卒業制作そのままに、
まるで、戦争のような壮烈な短い人生となることを、予知していたかのようではありませんか。

 そもそも、卒業制作というのは、作家その人の行く末を、すべて、語っているような場合が多い。
若き集中力のすべてを注ぎ込んで、迷う余裕も無く、余計な事に囚われる暇もなく、情熱をぶつけるのですから、自然、若くとも、その人の有り様の全貌が見えてしまうモノのようです。

 それにしても、なぜ、戦争の犠牲者としての、悲惨な寡婦と孤児、などというテーマを扱おうとしたのでしょう。

 “平重盛”、



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部分


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  全図 (クリックすると大きくなります)


“五郎時致、”部分



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 美術学校での学び、師、先輩、・・・色んなことが複合されてこの卒制が、生まれたのでしょう。
まだ、始まったばかりのギャラリーですから、詳しいことはおいおいに、述べることにして、
春草は、歴史物に深い興味を示していた時期があったことは事実です。



水鏡



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全図




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部分 


この、水鏡に描かれているアジサイ。(クリックすると大きくなります)
庭に出て、一枝のアジサイを切り、そのまま写生でもするように、この絵に描きこんでしまった
春草の呆れるばかりに見事な作画態度を、見た人がいて、春草の“凄み”を伝えてくれています。

ご本人は、いたって自然体。この、水に映す感じを少し暗くして見たが・・・・工夫と言えばそれくらいですが・・・。と語ったそうです。



 


 例年桜の開花と共に、日本橋三越で開催される春の院展。

 今年は、大震災の影響でどうなることか、と懸念されていましたが、各方面のご尽力により、まずは平静に開催の運びとなります。初日のレセプションは、中止。デパート側も、節電その他諸々の心配りをしながらともかく春のひと時を文化で彩る催事をなんとか無事にと、努力してくれています。

 春草が亡くなって、100年。・・・・大観、春草始め草創期の院展の屋台骨を作って下さった大先輩方が、今回の会場に観に来られて、どう、批評して下さるか??? 常に私の脳裏には、このことが重く、のしかかります。

 あまりの悲惨さに激怒される?か、モーちょっと、何とかならんのか!とか、あきれて、物が言えない?のか、、、。大東亜戦争の終結直後から始まった“春の院展”は、戦後の荒廃を癒す、いくばくかの貢献を続けてきたのです。

 しかし、続けてきた意味はあるものの、その中身が問題であるのはいうまでもありません。

 私は、春草に尋ねたいことがあります。その思いは年々膨らんできているのですが、“このままでよいでしょうか?”という問いかけです。コノママデヨイハズハアリマセン、との答えがいつも返ってくるのです。

  ★     ★     ★

 私の出品画は、“いく春も(後桜町天皇)”と、題した50号の作品です。

 6階のギャラリーでは、同人(審査員)三十数名による小品展も。

 どうぞ、ご高覧お願いします。


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 六号小品  “星に希ひを”

 



 
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 ディテール

大正12年9月1日。関東大震災 に見舞われた大災害の首都は、お昼時も重なって火の海。
 10万人以上のの命を奪い、200万人以上が被災。“壊滅”、と言う言葉より他に表現の仕様のない状態だったそうです。

 再興第10回院展は勿論、上野で開催されていたのですが。開催初日に大地震に見舞われたのですから、午前中で、展示は終わり。事実上、開催したとはとても言えない様な有様でした。

 しかし、このとき、第10回の記念展を期して、大観先生は、入魂の傑作、“生々流転”を出品。
 急遽、駆けつけた寺内遊神堂(大観の表具師)が、からくもこの超大作絵巻物、“生々流転”を会場から救い出し、安全なところへと避難させた後、その事後処理を大観先生に報告すると、大観先生は。じっと黙したまま、そっとうなずき、非常に厳しいい眼差しで、虚空を見つめていた。そうです。

 来るべき日本の未来を見据えていたのでしょうか?

 この時は陽の目を見なかったものの、この入魂の大傑作“生々流転”は、その後機会を得て、出展される度に話題を呼び、現代に至るまで、この作品が出ると聞いただけで観客を呼べる“怪物”、とまで言われている作品となりました。

 現在は、北の丸国立近代美術館の所蔵です。

 古川に水絶えず。日本伝統文化は時として滅んだかのような体をなすときもありますが、いずれは懇々と湧き出でる泉のように、決して止めることはできないものです。

 この度の震災によって、茨城県五浦の岡倉天心 先生が、太平洋を望み気宇を広げたと言われて、大切に保存されてきた六角堂も、流されてしまいました。

 天心記念美術館のすぐ真下まで押し寄せた津波はすべてを飲み込んでしまったのだそうです。
恐らく、地形から言って、天心先生のお墓までも、もう無くなってしまったのかもしれません。

 けれども、これは終わりではなく、始まりであります。

 春草の天才が、未来の天才を生み出してくれるでしょう。

 ブログ、春草展、どうぞ、お楽しみに。

  現芸大、東京美術学校は、明治天皇の、“天皇による親政回帰”、の余慶によって、明治22年に開校されました。

 

この事は、明治維新の大業によって日本が、日本らしさを取り戻し、その勢いが文化面まで、行き渡ってきた証左でありました。新日本の美術界が、ようやく体制を整え、ついで来る目覚しい発展の基礎を確立したこの時代に、横山大観、他が第一期生として入学、続いて第二期生として、春草が入学するのです。

 

日清日露の両戦役を通して、国際舞台に国家としての日本が登場し、真の意味での、近代が始まろうとしていたこの時代に、大天才春草は生まれ、国家の成長と共に春草もまた、不世出の天才として完成してゆきます。

 

この事は、実に象徴的で、宇宙意思=天意を感じずにはおれないところであり、この世に天佑神助があるとすれば、春草の出生こそが、そうに違いありません。まさしく、日本文化の救世主ここに登場!といえるでしょう。

 

 春草は、現在の長野県飯田市、雪深い山村に育ちました。
 
 東に南アルプスが遠望され、西に駒ケ岳を望み、南北に流れる天竜川上流の盆地で、実に風光明媚の地です。この地に春草=菱田三男治、は、明治7年、9月21日、父菱田鉛治、母くら、の三男として生まれたのです。7人兄弟の4番目でした。


 少年時代の春草は、次兄為吉によると、“すこぶるわんぱく”で、弟妹の友達は、春草が家にいると寄り付かなかった程。だったそうです。


 父は銀行員、手先が非常に器用で子供たちも皆父の性質を遺伝していた。と言うことくらいで、他には、血統的にも家庭の環境としても後年の大天才春草の不世出の偉業、の元となった様な格別の原因は見出せない。とも語っています。


 明治13年に飯田学校入学。15年初等科卒業。19年中等科卒業。小学高等科には、洋画家の中村不折が、教諭として在任しており、水彩画を教え、春草も好んで描いたが、春草が絵を好むようになったのは、自分の凧に武者絵を描く必要があったからで、別段、不折の影響を受けたわけではなかったといいます。

 

しかし、栴檀は双葉より、、、。このころから、春草の絵画的天才は、既に目だっておりました。

 

「この学校で僕の教えた者で有名になった一人に菱田春草がある。
もとから質はよかったが、理屈っぽい人間で吾々を困らせることばかり言っていた。
絵が上手いので絵をやれと言ったことがあったが、法律を勉強すると言っていた。
ただし後には絵を習いに東京へ行きたいと言い出した。結局僕が一足先に上京し、
僕は西洋画をやるし、君は君で好きな方へ行くがよいと言うので、
菱田は美術学校へ入り、橋本雅邦氏についた。」

 後に、不折は、こう語っています。

 


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上京した16歳の時。



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17歳。



明治20年10月、勅令第51号によって、東京美術学校は、設立されました。

 大観について、去年からずっと書いてきましたが、それは、何といっても大観の業績が、頂点を極めているからで、これから述べてゆこうとする、春草と。この頂点を極めた二人の天才を思い返し、改めて注目することで日本文化本来の姿を取り戻す事につながり、さらには、われわれ日本人の幸せに大いに助けとなる筈だからです。

 日常に追われるだけの現代人はちょっと、かわいそう過ぎる!
日本人は、もっと幸せの本質に気づかなくちゃいけません。まがいものでない美しいさ、をもっと、深く享受せねば・・・・。

 春草と千代婦人とのポートレートを掲げましたが、鋭い眼光の春草に比べ、千代婦人の大きなつぶらな瞳は、なんとも愛らしく、春草描くところの動物のまなざしにとっても良く似ています。さりげない愛らしさ。

 作品もさりげない表現ですから、良くありがちな、人目を惹こうとするアザトサ、がない。けれども、ドンナ人の心にも【必ず残る】。のが、春草の絵。デス。

 注目されようなどというケレンみもありません。

あるのは、自然のエッセンス。深く、広大で限りない宇宙のほんの一角の真実を、素朴な意識で、ごく自然に捉えてはずさない。そのさりげなさ。その強さ。そのおおらかさ。その確かさ。・・・・。

 勿論工夫に工夫を重ねての上であったかと思いますが、こんなに、宇宙の神秘をあっさりと見せてくれる人は、コノ人が最初で最後ではなかろうかと思います。

 まことに春草の上に人なく・・・・・。当分越える人も出ない、かも知れません。

 千代婦人の幸せを、私たちも受け止めなくちゃ、損。彼の絵に触れさえすれば、憂いなく、濁りのない童心の世界にいざなってくれるでしょう。  惜しむらくは、映像でしかお伝えできないこと。

 絵は、実物を見なけば始まりません。映像という媒体を通して見て、味わったような気になるのはもったいないことです。しかし、ぜんぜん見ないよりは・・・・。3Dを遥かに越えた映像媒体が出来たとしても、本物にはかなわない、のが、ホンモノの真価であります。映像媒体で誤魔化さなければとても見れたものではない。モノが、多すぎるからですね。

 そろそろ、春草展を始めましょう。 どうぞ、お楽しみ下さい。


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ちなみに、秋江が、初めての雅号。二十歳くらいのときに短期間ですが使っていました。
この春草というサインは、落款(らっかん)と言いますが、最晩年の明治天皇陛下が、御愛賞された屏風絵、のもの。35歳の時の落款です。書として見ても、全く、名人のそれですね。

 明治31年、1898年、7月、超超超!!、大天才、菱田春草満24歳の時。 旧、萩藩士、野上宗直の長女、千代は、この不世出の大天才と結婚しました。
  
 大天才とは言えまだその頃の春草は、勅命によって設立された、東京美術学校第二回生として、ダントツの優秀な成績を納め、岡倉天心始め周囲から大いにその未来を嘱望されていたものの、定職も無く、並外れた高い理想だけしか持ち合わせなかった、か細い一青年でした。

 以後十数年、僅か満36歳で病没するまで、日露戦争を挟んで、まさに激動そのものの時代に、千代は、春草の愛児四人を産み、育て、常に留守勝ちであって、収入も途絶えがちな家計をやりくりし、子を守りつつ、この大天才の支えとなったのです。
  
 気骨のあることでは指折りの萩藩士の家庭に生まれたこの千代が、当時どういう心境であったか、もう聞くすべはありませんが、家庭の主婦として、誠に薄幸な日常を重ねたのではないかと愚考するのです。

 もっとも時代背景が今とは全然違っているので、国を挙げての国難にすべての人が立ち向かわなければならない時でしたから、千代の苦労ぐらいは皆が味わっていたのかも知れません。

 結婚後数ヶ月、谷中初音町の新築された、美術院公舎に居住したので、滑り出しはまずまず。研鑽を積んで各種展覧会に出品を重ねる夫、春草の描く作品が売れさえすれば良かったのです。が、空しくも、彼の革新的な画風はまだまだ時代が受け入れてくれず、朦朧派などと揶揄され、まして、日露戦争へと突入してゆく前夜とも言うべき時。おいそれと楽な暮らしが出来るはずはありません。

 明治33年9月、早くも長女を授かり、喜びに沸き返るのでしたが、あっけなく病没。次いで、明治35年1月、長男が産まれます。夫春草は、相棒 大観と相談して初の外遊の計画を始めます。家計のやりくりもおぼつかないのに、夫は勉強の為と称して、驚くべき計画に夢中になっている訳です。
 
 当時の外遊は一大事業。生涯かけた大冒険といってもいいくらいの壮挙でした。

 国内ですら、汽車が走っていたのは限られた区間だけであり、夫の実家長野の飯田に行くのさえ有に4日もかかった時代です。とにかく家の事はいつも温かい篤志をたたえて、見守ってくれていた、夫春草の兄、為吉、任せ。

 この兄は春草にとって得がたい兄でした。若い頃から絵が好きで、自分も絵の道に進みたかったのですが、家庭の事情で断念。現在の理科大学を卒業後、教師として師範学校などで教鞭をとっていましたが、当時皇太子であられた大正天皇陛下の教育係を拝命すると言う俊才であったのです。

 愛する弟春草の画家志望を聞いた時この兄は自身の志望も弟の将来に託したのでした。東京美術学校入学から卒業まで一切の面倒を見たばかりでなく生涯、弟春草とその家族とを見守る事になりす。

 長男が一歳を迎える頃、春草は大観と共にインドへ行ってしまいます。主たる目的はティペラ国王の宮殿装飾を、仲介した岡倉天心の紹介で担当する事。でした。ところが、日露戦争直前の事とて、世界情勢の変化のお陰で、当てにしていたその仕事はパア。

 しかし二人はタゴールの援助によって2人展を開催、現地で描いた作品を元に、幾ばくかの収益をあげて息を吹き返し、その勢いに乗じてイギリスへ、渡航しようとしましたが情勢の急変で断念。帰国します。帰ってきたものの、腰を落ち着けるまもなく今度は天心に同行して米国へ行くと言うのですから、たまりません。千代は、3人目の子を身ごもっていたのです。夫春草は、渡米の為の金策に奔走。思うように集まらないと見るや、描いた絵を兄に託すのでしたが、一点5円でも売れなかったそうです、、、、今の5万円くらいでしょうか???  

 日露開戦の当日、最後の定期船に乗った2人は、ちょうど外交交渉で渡米する末松謙澄の一行と同船し、あの伊藤博文が、見送りに来ていて、悲壮な大演説を甲板で行ったと言うのですから、まさに激動の時代。持ち金も少なければ、家においてゆく金もろくに無いのに、、、全く温かい周囲のお陰
としか言いようがありません。千代は目の回る思いであった事でしょう。

 渡米するや天心とは分かれて、二人は展覧会を催します。意外や意外、、、さすが富の国アメリカ。時代も手伝ったのか、驚くほど良く売れて、万歳!!! 美術院の経営のために金を送り、勿論、家にも送り、やっと一息つくことが出来たのです。春草29歳、大観35歳の事でした。

 日本に留まっていたら絶対食い詰めてニッチもサッチも行かなかったでしょう。まさしく綱渡り、、、、? 絵描きの出稼ぎ、、?しかも外国?

 少々余裕が出来た二人はその足でヨーロッパへ。ずっと羽織袴で通したので、小さくて美青年だった春草は、よく女性と間違われ、そのつど怒っていたそうです。一年半に及ぶ外遊の後ドイツ船で、イタリアから帰国したのですが、独ソ和親条約によって船中ではそれはひどい扱いをされました。

 ともかく、新生児を抱え、夫の留守を甲斐甲斐しく守るしかすべの無い千代でしたが、2人は欧米で稼いだ金を元手に、日暮里に家を建てました。が、その後、やはり絵は売れず、おまけに美術院そのものの経営も破綻して、なんと、茨城県の奥地、五浦に都落ちするのです。そのときも千代は妊娠
  中。三男が生まれたのは8月の暑い頃でした。なんとかやり繰りするものの、海辺の猟師町なのに、魚が買えないくらい貧乏だったと言います。

 そして、夫春草に恐ろしい眼病が襲い掛かります。画家としては、致命的。

 さすがそんな田舎にいては治療もままならず、通院のために家族ともども東京に、。でも、病を得ながらも、身近に夫は留まっているし、育ち盛りの息子たちにも囲まれて、少しばかり千代も家庭の温もりを感じる事が出来たのではないかと思われます。代々木は今の明治神宮のあたり。まだまだ
武蔵野の面影深い、穏やかな自然に溢れていたのです。家族の温かさに囲まれて、武蔵野の美しさに誘われて、春草は次々と傑作を生み始めます。

 畢生の名作、“落葉”は、ここで産まれたのです。“黒き猫” “雀と鴉” “早春” 、、、目を患いながらも、珠玉のような大傑作が、次々目の前で産まれてゆくのを、毎日心から味わった千代の幸福は、イカばかりであった事でしょう。

 歴史上の大金字塔が、来る日も来る日も出来上がってゆく、、、良く分からなかったかもしれませんが、、? 夫の病と闘いながらの苦闘に、自分も参加している充実感はあったに違いありません。私の亭主はホントに良い絵を描くもんだなー、、、。と。

 これらの新作は次々に売約がきまり、名声も国中に広がって行き、ようやく持てはやされてゆくようになります。そして、 借家だった住まいを新築して移転。じっくり病を癒そうと言う矢先、あっという間に、夫は、この世のものではなくなってしまうのです。

 37歳の誕生日が間近な秋の事でした。 千代と結婚してから、13年目。

 大観と共に歩んだ春草の画家としての道は、むごいくらい厳しいものでしたが、大天才大観が、90の寿を保って達成できた足跡と、なんの遜色もない程の、高い業績であったといえるでしょう。勿論、数においては、大観に及ぶべくもありませんが、むしろ大観より優っていると言っても良いのではないかと思います。事実大観は、どんなに自分の絵を褒められても、“春草君はもっと上手かった!!あれこそ金の瓦。磨くほどに輝く。俺なんか普通の瓦だよ。と常に答えていたそうです。”

 春草没後、すでに100年、(2011年が丁度100年です)、その間、画壇は百花繚乱。盛況を呈し、沢山の優れた作家を輩出し、数多の名作が制作されました。しかし、それらを、“落葉”“黒き猫”と共に並べたらどうでしょうか???  どんなに華やかな作品でも、あの深い深い高き静けさ、の前には、色あせてしまうに違いありません。春草こそ、不世出の大大、大名人であります。

“落葉”“黒き猫”そのほか沢山の春草コレクションを大切にしていた、千葉、流山の資産家 秋元洒汀、は、菱田春草の最大のパトロンでした。

 ★   ★   ★   ★   ★
  
「菱田春草は、東京での治療が効を奏し、どうにか失明の危機を脱し、再び絵に精進していた。明治42年(1909)の第3回文展には六曲屏風一双 の落葉』を出品した。この作品は同展で受賞し、後に国の重要文化財に指定された。『俳諧人名字典』(高木蒼梧著)によれば、この作品は、秋元洒汀のために描いたものであると記述されている。
 つづく明治43年(1910)、第4回文展では、『黒き猫』(柏の幹で、眼をらんらんと輝かせた黒猫がうずくまっている図)を出品し、表現の優麗さをもって高い評価を受けた。(この絵も、後に国の重要文化財に指定されている。)蛇足ではあるが、『落葉』『黒き猫』2点は洒汀の手に入り、一時期は流山にあったのである。明治44年(1911)に入ると菱田春草は腎臓炎を再発し、併発症であった蛋白性網膜炎が悪化して視力を失った。
 さらに、不眠症が重なって重体に陥ったのである。秋元洒汀は、郷社赤城神社へ『赤城明神』の掛軸(前島密に揮毫を依頼したもの)を奉納して平癒祈願をしたりしたが、その甲斐もなく明治44年9月16日、数え年、38歳の若さでその才能を惜しまれながら、生涯を閉じたのであった。
 秋元洒汀は、菱田春草の追悼展覧会の幹事役を務めて盛会裡に終らせたが、菱田春草への追慕の念はそれだけにとどまらず、記念碑の建立費を全額支出
 したり、遺族に生活費を毎月送金するなどしていた。」 と、  ある記録に記されています。また、こういう記述も、、、、。

 「菱田春草の死後、秋元洒汀のもとには、菱田千代(菱田春草の妻)を始め、菱田為吉(菱田春草の兄)や菱田唯蔵(菱田春草の弟)から、多数の懇ろな謝礼の書翰が送られて来ており、親交の深さを物語っているが、次に掲げる明治44年5月8日付けの菱田鉛治(菱田春草の父)、菱田為吉、山田台太郎(親戚)連名の『書翰』には目を見張らせられる。

   謹啓、初夏を迎えましたが、御清穆のこととお慶び申し上げます。
  過日は、非常なお世話とご尽力をもって、故春草の追悼展覧会を催して頂き、
  加えて多大の金子を御恵与下さいました。
  おかげ様で遺族の養育の目途もつき、ありがたく感謝しております。
  定めし地下に眠る春草も喜び安心していることと思います。
  とりあえず簡単な手紙ですがお礼を申し上げます。  敬具
    追伸
   行き届かぬ寡婦(春草の妻)のことですが、子供の教育について心配しております。
  しかし、何分にも(私たちが)遠方のため注意もできにくいので、
  今後とも遺族をお見捨てにならないで、お心添え下さるようひとえにお願い申し上げます。
  また、先日は私へまでも春草の画集を下さり、ありがたく感謝しております。
  画集は今回の記念として、大切に永久に保存致します。
  ついでながら画集のお礼を申し上げます。」

 ★   ★   ★   ★   ★

  さらに、春草の最高のパトロンは、、、、なんと、明治天皇陛下だったのです。明治43年、“落葉”のあと、描いた屏風が、第一席の受賞を獲、しかも宮内庁お買い上げと成ります。“雀と鴉”と題された、しみじみと穏やかなこの絵を、ことのほか御気に入られた明治天皇は、いつも身近にこの屏風を置き、愛賞さたそうです。そして、惜しくも亡くなった事をお聞き及びになった天皇は、翌明治44年、表装競技会に出陳された、明治42年の春草作品を、なんと1000円の高値でわざわざお買い上げになったのです。それにより、以後、春草の作品が暴騰し、残された遺族は、大変助かったといいます。明治天皇、崩御の前年のことでした。
 
 さて、薄幸の??妻、千代は、どのくらい幸せだったのでしょうか、、?



院展同人 高橋天山ブログ-春草ポートレート

院展同人 高橋天山ブログ-千代婦人

かわいらしい、千代婦人。

美形ですね。



 平成26年、2014年。北の丸の国立近代美術館で、春草展が、開催されることになっていることがわかりました。

 没後100年の今年、あちこちで、春草の画業を慕って、様々な企画が、色々なところで行われる筈だ、と思っていた私は、その気配が全然感じられないことに苛立っていましたが、・・。

 春草は夭折の大天才ですから、作品が少ないし、各地に分散されているので、まとまった展覧会を開くのが難しいのです。

 開催しようにも、ある程度の数を揃えるには、骨が折れる。

 長野の飯田の生まれなので、飯田市美術館でも、考えたようでしたが、昨今の経済事情と、作品を集める難しさとで、実際困っているようです。

 こういうときには、国の力が必要。

さすが、近代美術館の館長さん、はじめ、学芸の方々の、ビジョンは、しっかり春草を視野に入れていたと見えます。

 ちょうど100年記念は、出来ないけれど、まあ、良いでしょう。とにかく昨今の日本文化をないがしろにする世相こそ大問題。この世相をひっくり返すのは、抜きん出た実物に触れる機会を重ねるしかありません。

 やっぱり、日本画って、いいねーーー。と思わず賛美してしまう、作品が必要なのです。

 いまや、くだらない現代アートと称する、まがい物に、皆がひきずられてしまい、錬金術屋と化した自称文化人???ばかり跋扈して、えらそうにしている現象は、黙っているわけにはゆきません。

 一言でこれらのやからを黙らせる力を持っている春草こそ、今、絶対に必要なパワーなんです。

 文化と言う物は、本物ならば、凄い力がある。世の中を変えることが出来るものなんです。
だから、悪いほうへ使うと、ものすごい悪影響がある。現在のほとんどすべての展覧会は、それ。

 春草は、不世出の大天才。 3年後を楽しみにしながら、ブログギャラリーで、コノ大天才をご紹介してゆきましょう。

  横山大観先生について、長いこと述べてきましたが、常に大観先生が居られたら、何と言われるか?
われわれ、日本画家はその事を忘れてはならないのです。院展の会場に大観先生が来られたら、・・・。


 さぞ、嘆かれることと思いますが? 自己主張や、顕示欲の前に、つい己の客観性を見失いがちな画家
のサガ。大した才能でもないのに、舞い上がって、木に登って降りてこない人ばかりが続出している事も承知の上で、肝心要の、今、何が足りないかを、たちどころに示唆して下さるに違いありません。


 なぜなら、散々先生ご自身が、大成された全生涯を通じて、われわれの何倍もの膨大なエネルギーを投じて、既に、とっくの昔に、体験済みの事だらけだからです。水戸の勤皇家の心で生涯を貫き、己を磨き続けてきたからです。

 酸いも辛いも、嘗め尽くし、謂れなき誹謗中傷にも耐え、陽のあたることなどには、執着せず、ただ只管、勉強これ勤め続けた結果、人としてここまでは来れるんだよ。と教えて下さったのでした。

 

“春草君こそ金の瓦だ、俺なんか普通の瓦だよ。”

 

との言葉が残されていますが、同志、大天才春草を失った大観は、春草の分まで苦労をしょったことになりました。あいつが、生きていてくれたら、・・・・・。何度春草の早世を惜しんだことか。

 

 俺は、普通の瓦だ。という言葉それ自体が、大観先生の人物の大きさを物語っていますね。
普通の瓦だって、本気でやれば、コノくらいはいける!!と、やんわり、教えて下さっているわけです。

 

 今年は春草、没後100年。


 あの、【落ち葉】 の屏風を描いた人、【黒き猫】 を描いた天才。

 

 この二点だけで、応挙も、雪舟も、光琳も、隆兼も、信実も、等伯も、宗達も・・・・・、勿論大観も、意義をただし、敬愛を込めて、脱帽せざるを得ないでしょう。

 立春を越え、今年は、大いに大天才春草を語ろうと思います。