春草は、 東京美術学校第二期生として入学したのですが、一期上に大観や下村観山などがいました。大観は良く知られていますが。今日観山を知る人は少なくなってしまったのですが、当時、最優秀とされもてはやされたのは、大観や春草ではなく
この下村観山だったのです。
芸術の世界には一般の世界とは違うところがあって、それは、おおむね永遠を志向しているか否か、の違いと言えるでしょう。
つまり、時間的概念に価値を見出さないのが、芸術でしょうか?。今必要なものと、今は必要ではないが、後できっと役に立つ物と・・・・。
岡倉天心に一番頼りにされた、観山の作品は随分長い間、第一級の傑作として見做されてきましたが、近頃はその名さえ知る人が無くなって来たのを思うと、不思議の様な当然の様な気がするのです。
勿論一人の作家にも出来不出来はあり、中でも傑作と言われる作品が、時と共に脚光をあびて、歴史に洗われながら、残るもの、忘れ去られるものと、仕分けされてゆくものなのですが、“大原御幸”、“弱法師”など、重要文化財に指定された作品であってももう、既に・・・・・。今はもう、話題にも出ません。
天心のお気に入りだったのに、むしろ断然大観、春草の方が今日私達を楽しませてくれているので、全く皮肉なもので、朦朧派、と揶揄され世間から相手にされなかった方が、結局歴史を作ったのであります。
春草の美校卒業制作が“寡婦と孤児”であると、先回ご紹介しましたが、なぜ、このような陰惨な作風をわざわざ、描いたのか? 最優等という評価を得たのは、橋本雅邦が、この作品をかばって、ある教官の猛烈な反対意見を抑えたからでした。
その教官は春草のこの絵を、化物画とまで言い切って、認めなかったとか。
当時の空気が少しわかるような話ですね。
この後も春草は、あらゆるところで、非難攻撃され続けるのですが、今になって見ると、なぜ、こんなスバラシイモノが、非難の的になったのか良くわからないくらいです。その時代にしか通用しない観念で殆どの人は暮らしているからでしょうね。
実は、在学中の春草の親友は、熊本出身の天草神来と言う人でした。意気投合した二人は、下宿を同じくするとか、関西に取材旅行を共にするとか、好敵手であったようで、天心校長に二人で校長室に呼ばれ、進路についてアドバイスをもらったり、春草の方も、神来の方も、お互いにお互いをとても大切に思っていたようです。
のちに、神来の方が酒に耽溺し、生活が乱れた事から、春草のほうが嫌って去ってゆくのですが、学生時代には、欠かせない大親友だったのです。
卒業制作は大切なステップ。春草は始め、平重衡(たいらのしげひら)による東大寺焼き討ちをテーマに壮大な作品を構想していたのでしたが、途中でさすがにその重荷に断念、理想は高かったものの、まだそれを実現するまでの実力が整っていなかったと思われます。
そこで、その前年に親友神来が描いた“寡婦と孤児”と言う、春草の卒制と同じ画題の佳作に触発されたのでした。かなり意識してきたライバルの絵の出来栄えに、驚いた春草は、俄然やる気を出したものと思われます。
若かったんですねーーー、何しろ、22歳の事。
満36歳で失明したうえに早世すると言う不幸を、遺された千代婦人がどれほど悲しんだ事でしょう。この“寡婦と孤児”は、そのつらい、つらい、なんともつらい、暗示だったのでしょうか???