1.はじめに

 

 今月はまだ記事を一つもあげていないことを気づき、そろそろ何か書かなくてはと思いながら何を書こうか迷い数日たってしまいました。この2週間ばかり、いい事もあればあまり気持ちがよくないこともございました。そうした細々としたことを記事にしても読者の皆様には関係のないことなので、雑記を書くよりもう少し中味のあるお話ができたらと思い記事を書こうと思います。

 

 

2.物語とRPG

 

①ボタン連打による読み飛ばし

 蛹は最近、様々な本に相変わらず手をだしており、改めて振り返ると半ばあきれてしまう面もありますが、それも自分の一側面として受け入れ自身となんとか折り合いをつけて付き合っていきたいです。

 

 さて本日の記事は、文章読解力がRPGといった物語を伴うゲームに与える影響とはどのようなものが考えられるか?というテーマを選ぼうと思います。この主題を選んだ理由の一つとして、例えばFFXIでシナリオを読まずにボタンを連打している「冒険者」様たちとゲーム内で出会って以来、なぜそのようなもったいないことをしているんだろう?という疑問をずっと持ち続けいていたからです。もちろん制限時間のある戦闘前にイベントが挿入されるためボタンを連打しなければいけないという状況も「プロマシアの呪縛」などでは見られました。ですが「蝕世のエンブリオ」などでは、イベントを一回見終わってから再びポイントを調べることで戦闘が始まるようにもなりましたし、やはり物語を味わわないのはもったないのではないかと感じてしまいます。

 

②物語に興味がないとはどういうことか

 RPGの物語に興味がないプレイヤーが一定数おられるということをFFXIで知りました。また物語を重視するか軽視するか。どちらが優れているのかという価値判断は個々人の自由に委ねられるべき類だと理解できました。一方で「物語に興味を示さないということがRPG体験において何を意味するのか?」という問題設定も同時に考えることができると気づきました。

 

 RPGは、そのゲームに登場する主人公なり登場人物に自らを重ね、「役割(role)」を「演じる(play)」ゲーム(game)であることから命名されているのでしょうから、物語に興味を示さないということは、「役割」への理解の乏しさ、しいてはそのゲームが展開している世界観を十分に味わえない可能性を指摘することができるかもしれません。

 

③なぜ物語に興味をしめせれないのか

 蛹は教育という場所で若い人たちと接することができるという大変ありがたいお仕事をさせていただいておりますが、常に若い人たちの文章読解力の不足を感じてきました。文章読解力という狭義の枠を超えてお話することが許されるなら、コミュニケーション上での対話の解釈の乏しさのようなものを感じる瞬間が多々ございました。

 

 このような現象は、石井光太『誰が国語力を殺すのか』(2022、文藝春秋)でも同様の指摘がされており、蛹の個人的な感想レベルを超えた現在の日本の教育的課題であることが伺えます。

 

 物語に興味を示せれない要因は個人によって様々なのでしょうが、大きな要因の一つとして考えられるのが

 

「文章読解力の不足によって、物語を咀嚼し味わうことの楽しみを理解できていない可能性」

 

 という論点ではないか考えています。これまで生きてきて物語によって大きく心を動かされたり、それまでの自分の考え方や価値観を大きく揺さぶられたり、時には否定されたりするようなショッキングな体験を通じて精神的に成長していく喜びという読書体験を知らずにきたため、物語に興味を持てない人間になってしまうのではないかということです。

 

 では物語がどのような力を持っているか。例えば、「ヴァナディールの星唄」で影の使者が語る言葉の中に、かつてヴァナディールを冒険して「星唄」に至らずに去っていった「冒険者」たちを言及しているメッセージがあり、このメッセージによって「星唄」を進行している「冒険者」のヴァナディール内での立ち位置とプレイヤーとしての立ち位置をたった一つのセリフで簡潔かつ鋭く表現をしていると理解できた時、物語が人の心に様々な感情を喚起させるすさまじい力を持っていることを直視せざるえないでしょう。

 

④世界の解像度

 私達は言葉を用いてこの複雑な世界と対峙し生きています。ですから、語彙が十分でなかったとしたら、この世界が私達人間に味わわせてくれる様々な情緒を適切に表現(言語化)して、より理解を深めることすらできないでしょう。文章読解力も語彙と同じように、自己との向き合い、他者との向き合いにおいてお互いを理解するために欠かすことができない能力に違いはありません。この文章読解力が不足していると、人間関係において不必要な衝突は絶えず避けられないでしょう。

 

 このように言葉を上手に活用する力を十分に育まないと、私達はこの人生という時間に限りのある体験を適切にかつ深く理解することができなくなってしまうかもしれないのです。つまり、語彙や文章読解力といった言語運用能力は、そのまま世界の解像度の高低に直結するということを意味するのです。

 

 

「納刀」

 

 

3.より豊かなゲーム体験をめざして

 

 以上のような考察を踏まえると、RPGにおいて物語を軽視することはゲーム製作者の意図を十分受け止めることができずにゲームをただ「消費」する行為になってしまっている可能性があるのかもしれません。ゲームをやみくもに「消費」して「つまらなかった」とい言うのなら、結局極めて刺激が強いゲームしか楽しむことができない人間になってしまっているのかもしれません。蛹はそれはなんだかもったいないと感じてしまうのです。

 

 蛹が音楽を好きだということはこのブログを読みに来てくださっている読者様にはよくご存知のことかと思いますが、音楽の演奏において蛹が耳をすます瞬間がございます。それは演奏指示の「ピアニッシモ」の部分のような箇所です。力強くない音かもしれませんが、しっかりと刻み込まれる「ピアニッシモ」の音は、時に強く大きい音よりも心を震わせることがあるんです。詫び寂びの文化を理解できる方ならば、この感覚をご理解できるのではないでしょうか。強い刺激のゲームしか楽しめないという方の感性は、音楽で言えば「フォルテッシモ」でしか音楽を感動しなくなるようなもので、それは果たして音楽という振動数が耳にもたらす芸術を十分に堪能しているということができるのか、少し疑問に感じてしまいますし、同様にゲームが私達の人生にもらたしてくれるすばらしい体験を十分に理解できないことにつながるのではないかと思ってしまいます。

 

 私達は才能あるすばらしいゲームクリエーター様たちが世に問うているゲーム作品をやみくもに「消費」する権利もあるのと同時に、より深く豊かに味わう自由も持っているのではないでしょうか。ゲームから強い特定の刺激だけを選好するだけではなく、例えばゲームに散りばめられた物語であったり台詞であったり、登場人物たちの行動などから、私達が生きていく上でより好ましい人生に対する態度を学べたとしたら、ゲームで遊ぶことがより上質な娯楽体験になるのではないでしょうか。

 

 更に言えば、ゲームには日常世界や神話や伝承由来の情報が溢れているものもございます。このようなゲームが提供する様々な文化を通じて、私達が生きるこの世界への理解を深めるきっかけをもてたり、生きているからこそ体験できる「生きることの価値」や「定命を生きることのすばらしさ」を理解できる境地に至れるのだとしたら、ゲームは芸術のカテゴリーの中に入る水準にまで到達しているのではないかとさえ考えます。

 

 FFXIもまた物語を重視したゲームです。一度クリアしてしまうと同じキャラでミッションやクエストを味わい直すことはできませんが、別のキャラクターをつくるなりしてFFXIの物語を味わうことで、新たな発見があるかもしれません。その発見はもしかしたら

 

「ゲーム製作者様たちがプレイヤー様に作品を通して、より豊かな人生をおくってもらえるようにするためのひたむきな祈り」

 

がこめられているとわかることなのもしれませんね。

 

 

「立ち向かうからこそ見えてくる景色がある」

 

 

追記

・悪文訂正。(2024年6月20日)

・加筆。(2024年6月20日、22日)