1.はじめに

 

 昨晩、お風呂につかりながら読書をしていたのですが、本の内容が蛹の心の琴線に触れるもので、一気に読み上げてしまいました。だいぶのぼせあがってしまったので、早々に就寝いたしました。読んだ本というのは、19世紀のヨーロッパの近代音楽で活躍したロマン派の作曲家たちの活躍や出会いや交流を時系列でまとめたものでした。

 

 学生の頃、原田光子『真実の女性 クララ・シューマン』を読んだことがございました。この本はロベルト・シューマンの妻にして著名な女性ピアニストであったクララの生涯を描いた名作伝記でした。蛹は、クララの生き様に魂が揺さぶられました。その当時まだ女性の社会進出が現在ほど進んでいなかった時代。自らの愛するロベルトと結婚するため、自分のピアノの興行主でありかつ実の父であったフリードリッヒ・ビィーグと法廷闘争までしてでも愛を選んだ女性の生涯は、勇気を与えるものでした。この伝記を読んだ後になりますが、クララが作曲した曲を収録したCDを探し、輸入盤を秋葉原で買い求めたこともございました。

 

 蛹にとってクララ・シューマンはこのように、青春の一ページを飾るかけがえのないピアニストでありかつ人生の師の一人でした。

 

 そんなクララを別の角度から著したのが、昨晩読んだ中川右介『ロマン派の音楽家たちー恋と友情と革命の青春譜』でした。

 

 この本を通して、フランツ・リスト、フレデリック・ショパン、フェリックス・メンデルスゾーン、ロベルト・シューマン、リヒャルト・ワーグナー。この5人の天才作曲家とクララ・シューマンが、西欧音楽世界に与えた計り知れない影響と功績を理解することができました。

 

 蛹は思います。西欧の近代音楽が世界を席巻していったその原動力に、ロマン派に属する音楽家たちがジョン・セバスチャン・バッハ、ヴォルグガング・モーツァルト、ルードビッヒ・ベートヴェン、フランツ・シューベルトといった天才達が残した音楽作品の価値を誰よりも理解し、演奏を通して世に問うたからこそ、現在の私達でも200年以上も前の音楽を楽しむことができている事実に感謝しなければらないと。

 

 人類が築き上げてきたどの分野でも、様々な先人達のお金に還元できない命と情熱をかけた文化的な活躍があったからこそ、私達は高い水準の文化を享受できているのでしょう。

 

 ロマン派の音楽家たちの相互への深い理解とそれに基づく愛情と尊敬の念。これらなくして西欧音楽やその恩恵を受けている現代音楽は、今接っすることができている高みに到達することはなかったのでしょう。人の想いが行動に移り、その結果社会が大きく動いていく様を中川氏の本を通して実感いたしました。

 

 さて、いきなり西欧音楽のお話をしてしまったので、驚かれた読者様もおられたかと思いますが、FFXIのブログでロマン派の音楽家たちのお話をしたのには訳があります。その理由を知りたい読者様がおられましたら、もう少しお付き合いください。

 

 

2.「不完全さを愛でることの価値とは」

 

i)完全性への志向

 

 ここ最近、あるテーマが蛹の心を占めていました。それは「なぜ人間は完全なものを求めようとするのか?」です。

 

 このテーマ自体は最近持ちえたものではなく、蛹の中では比較的昔から抱いていた人生の中でみつけた疑問の一つでした。

 

 蛹が数学といった学問に心を奪われたのも、この「完全性への信仰」のようなものがあったのかもしれません。また古代ギリシャ哲学で具体例をだすと、真善美という3つのテーマで「完璧なもの」に対して強い衝動を人類は抱いてきたことが読書体験から学んできました。

 

 言葉を用いて世界のありとあらゆることを表現し理解しようとする「言葉による完全性」に飽き足らず、人類は数字を使って世界を「完全に描写」しようという執念にとりつかれ近代科学を発展させてきました。

 

 一方で、人類の文明の発展の過程で、哲学や文学や宗教、芸術などといった文化も大きく様変わりしてきました。どの文化においても「より高度な水準」を目指した動きがありました。

 

 さきほど述べたロマン派もまたこの文脈で理解できるでしょう。ショパンのピアノはそれまでどんな音楽家も表現できなかった詩的な音楽の世界があることを世の中に伝道しました。リストのピアニストとしての強烈な演奏は、リサイタルといった言葉が生まれる起源にもなり現在の音楽家たちの演奏スタイルに大きな影響を与えています。メンデルスゾーンが行った音楽の温故知新は、「クラシック」という分野を音楽の世界に生み出しました。シューマンの音楽をテーマにした文筆活動は、音楽を楽しむだけでなく評論する市民社会の到来に大きく寄与しました。ワーグナーのオペラは、音楽と演劇の高度な融合によって次の世紀におきる映像音楽などに計り知れない影響を与えました。そしてこうした音楽家たちの活動は「より良き音楽」に対する揺らぐことのない希求心が根本にありました。

 

 「より良き音楽」の向かう先にあるものとは「完璧な音楽」でしょう。音楽という聴覚に頼った文化的活動もまた他の文化同様、より「完全なもの」への志向性を常に抱いてきました。

 

 

ii)不完全なものの価値

 

 人類はこれまで「より優れたもの」、つまり「完全性への志向」を持ち続けてきたことを述べました。 

 

 一方で、「完全性への志向」だけが人類の進む道ではないことを体現した文化をもった国が世界にはあります。その国とは私達が住む日本に他なりません。

 

 日本には、古来から未熟なものを愛でる文化的態度が存在してきました。有名なところでは清少納言の『枕草子』でしょうか。『枕草子』の一節に「うつきしきもの」という表現がでてきます。現代語にすると「かわいい」という意味になります。清少納言は、赤ちゃんや幼い子供、更には「小さいもの」までも対象にして「うつくしさ」を感じると述べています。この清少納言の感性とは、蛹の文脈で言うならば「未成熟なもの」に対して価値を見出しているということになります。

 

 また女性への性愛が禁じられていた日本の中世の寺社の世界では「お稚児さん」と呼ばれる美しくて幼い男子を僧侶たちが取り合う様子が伝わっています。この「お稚児さん」の逸話などをきくと、日本には昔から美しい若者を寵童として愛でていた文化があったことが伺えます(平松1989)。

 

 「未成熟なもの」を評価するこの日本人の美学を踏まえれば、現在のアイドル文化や漫画、アニメ、ゲームなどで展開される「未成熟な若者」が中心となっている様々な物語やコンテンツの在り様が一過性のものではなく、日本の伝統に根ざしたものであることが垣間見えます。

 

 このように日本は現代に至っても、いえ現代は過去のどの時代にも増してこの「未成熟なもの」に対して激しく熱狂しているようにさえ見えます。更に言えば、その熱狂は日本にとどまらず世界中を駆け巡っています。

 

 私達日本人は戦後は科学立国の国として経済発展してきました(アン2010)。そうした科学的世界観が覆う日本社会は一方で上記したような伝統的な価値を今だ抱えています。

 

 蛹は、この日本人の「未成熟さ」に価値を見出すことを肯定的に評価すべきだと素直に思わない面もございますが、それでも世界の中で日本が提供できる独自の文化的価値であることに変わりはないと考えます。そして「未成熟さ」に価値を置きすぎるためにおきる弊害はあるものの、この日本の価値観には、完全性を志向し続けてきた人類が抱え込んでいる「病い」を「解毒」する力があるのではないかと考えだしています。

 

 「未成熟さ」に価値を置くとは、「完全性への志向」に頼らずに文化を紡いでいくことを可能にさせるのではないでしょうか。「完全性への志向」はAIなどのテクノロジーによってより加速度的に強まっていくのかもしれません。その結果、ハラリが警鐘している「神になろうとする人類」が登場してしまうのかもしれません(ハラリ2018)。

 

 完全性が貫徹した社会とはどのような社会になるのでしょうか?ある面では大変理想的な社会かもしれません。ですが、その一方で「間違い」や「過ち」を認めない社会ができあがるのではないでしょうか。それは大変恐ろしい社会のように見えます。一度でも「過ち」を犯してしまえば社会から烙印を押されるかもしれません。「完全な存在」にとって「楽園」かもしれませんが、不完全な行為をする可能性を内包している私達人間にとっては「地獄」そのものではないでしょうか。

 

 人生や社会が「完全にコントロール」された社会とは、デストピアに見えてしまうのは蛹だけでしょうか。

 

 日本文化が大事にしてきた「未成熟さ」に価値を置く態度には、こうした「完全性への志向」が持っている危険性を中和する機能を見いだせるのではないかと蛹は考えます。つまり「不完全さ」を愛でることには、人々を束縛し、一見自由意志の決定に基づく選択をしたつもりになっていても、実は完璧に計算された選択肢をただ選んでるだけのような空虚な社会にならないための「防波堤的な価値」を見いだせれるかもしれないということです。

 

 

3.最後に

 

 「未成熟であるもの」つまり「不完全なもの」を愛でる文化的価値を育んできた日本とは、この様な「完全性への志向」によってもたらされるかもしれない危険な社会の在り様に異議申し立てをする役割を担えるのかもしれません。

 

 現在の日本のサブカルチャーが多くの国で支持されている背景には、「きらびやかさ」だけではない、人生の「余剰」、もっと言うと合理性や効率性には決して還元されることのない「心の余裕」のようなものがもつ人生の価値を日本のサブカルチャーの様々な表現が、世界中の人々の心の中で無意識のうちに喚起させているからかもしれません。

 

 その代表的なものが「かわいい」「Kawaii」でしょう。「かわいい」は効率性に抗う文化的装置のようにも蛹には見えます。

 

 人生や社会を「コントロール」しようという強い強い経済的な欲求を人類は抱えている一方で、その合理性から抜け出す「救い」も実は求めているのかもしれません。その「救い」は今だ実現していないのかもしれませんが、「救い」の影は日本の文化コンテンツによって提供されているのかもしれない。

 

 「完全性への志向」という考え方と出会ったのは、10代の頃読んだ宮台真司先生の『終わりなき日常を生きろ』でした。この著書ではオウム真理教にはまった高学歴のエリートたちが陥っていた心の欠落を埋めようとする気持ち、言い換えればオウムへの加担した理由の一つに「完全性への志向」への追求が描かれています。蛹はこの宮台先生の分析に強い衝撃を受け、そして人間が生きる目的として「人生とは普遍的に価値があり続けること」を追求することだという観念を捨てることができました。

 

 実は若い蛹の中にもこのように「完全性への志向」が深く心の隅々まで根を張っていたんです。蛹は宮台先生の本を通して、自分の価値観がもたらす危険を理解できました。そしてこのような分析ができる社会学という学問に強く惹かれだしていったのです。

 

 本稿を終わるにあたり、蛹自身の若い頃のお話もさせていただきました。蛹が『終わりなき日常を生きろ』と出会うまでの人生に抱いてきた価値観と、それ以降の価値観は全く様変わりしました。そして様々な読書体験などを通じて、現在では「揺るがない普遍的な真理」よりも、一瞬一瞬で変わりゆく儚いものにこそ、命の価値を見いだせるのではないかと考えるようになってきました。

 

 「完全性への志向」をもしあのまま持ち続けていたとしたなら、蛹は例えば岡潔先生の著作を理解することはできなかったでしょうし、「もののあわれ」という日本文化が大切にしてきた価値観の奥ゆかしさとその境地の深さを理解することができなかったでしょう。

 

 そして、そのような感性を抱くことがなければ、これほど長くFFXIを続けることもなかったでしょう。このような感覚をここしばらく抱きながらヴァナディールという世界にログインしています。

 

 2023年という時点から振り返ればFFXIとは、確かに古臭いゲームに見えるかもしれません。でも、その古さとはヴァナディールの歴史性そのものですし蛹にとって唯一無二の世界であり、その価値は時間の経過で色あせることはありません。自分の人生のある時期に出会った仮想空間世界でおりなした様々な想い出は、儚いものに価値を見いだせれる人であれば、それが如何に尊いものであるかご理解できるのではないでしょうか。

 

読みにくい箇所もあったかと思いますが、最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 

 

~「完全性への志向」がはらむ問題に関連する記事の紹介~

 

 

 

 

 

 

 

 「もしも女優の浜辺美波さんが赤魔道士だったら」

 

 

 

 

■参考文献

 

・アン・アリスン『菊とポケモン』2010、新潮社。

・清少納言『枕草子』1962、岩波書店。

・中川右介『ロマン派の音楽家たちー恋と友情と革命の青春譜』2017、ちくま書房。

・原田光子『真実の女性 クララ・シューマン』1970、ダヴィット社。

・平松隆円「日本文化における僧と稚児の男色」『国際日本文化研究センター紀要』1989、国際日本文化研究センター。

・宮台真司『終わりなき日常を生きろーオウム完全克服マニュアル』1998、ちくま文庫。

・ユバル・ノア・ハラリ『ホモデウス 上:テクノロジーと未来のサピエンス』2018、河出書房新社。

・ユバル・ノア・ハラリ『ホモデウス 下:テクノロジーと未来のサピエンス』2018、河出書房新社。

 

 

 

・追記

・誤字修正。(2023年10月3日、4日、12月18日)

・関連記事の紹介を挿入。(2023年10月3日)

・絵を挿入。(2023年10月9日)

・この歳になってようやくゲーテの戯曲『ファウスト』の最後の場面で、ファウストが「時間よ止まれ!お前は確かに美しい」という台詞を言った気持ちを頭でではなく感覚として理解できるようになってきました。ゲーテがファウストを通じて言わせたこの感覚は、「完全性への志向」に支配されていたら一生わからなかったのかもしれません。