さきほど、「新世紀 エヴァンゲリオン」の最終作の映画をようやく観ることができました。
エヴァンゲリオンとFFXIには、共通するテーマがあることは、以前記事にさせていただきました。記事のリンクは以下から。
今宵は、1995年代から2021年代にまで続いた「エヴァンゲリオン」というアニメが一体、私達に何を問いかけているのか。
これを考察してみたいと思います。
注意)本記事は、映画版「エヴァンゲリオン」のネタバレを含む箇所がございますので、まだご覧になられていない方は、ブラウザバックしてください。(涙)
■考察「私達にとって『エヴァンゲリオン』とはなんだったのか?」
1.はじめに
蛹もエヴァンゲリオンのファンとしてアニメを楽しんできました。初めて観たのはテレビ版の再放送でした。ファン歴は充分長いのにも関わらず、2021年に上映された映画の最終回を観る事にためらいがありました。
というのは、これで「エヴァンゲリオン」が終わってしまうという寂しさと、一つの時代が過ぎ去っていく現実を受け入れたくなかったからです。
ですが、本日、勇気を持って試聴し、最後までエヴァンゲリオンを見届けることができて良かったという深い満足感を抱くことができました。
考察を始めるにあたり
「エヴァンゲリオン」というアニメが私達に託そうとしてきたメッセージとは何か?
一つ一つ論点を拾いあげることから始めていきましょう。
2.論点
①なぜ内向的な登場人物達が主演だったのか?
エヴァンゲリオンは、ロボットアニメです。そこに描かれたものは、人間より遥かに力を持った大きな存在のエヴァンゲリオンや「使徒」達でした。
縦横無尽に躍動する様が、細かなカットとこれまで見たことがないアングルで、これでもかと大迫力で視聴者を魅了してきます。
一方で、エヴァンゲリオンの操縦者達は、みな子供です。子供とはまだ発展途上にある人間であり、未成熟な存在です。
それだけではなく、シンジ、レイ、アスカ、カヲル、マリなどの搭乗者達は、どこか内向的で不安定です。
強靭なパワーを誇る人造人間とアスカのように例え強がったとしても、傷つく子供であることに変わりはない搭乗者達。
このギャップを、なぜ庵野監督は意図して作り出したのでしょうか。
②碇親子はなぜ最終的に対峙しないといけなかったのか?
蛹がイメージしてきたロボットアニメは、勧善懲悪だったり、もしくはどにらにも正義はあるけど主人公達の立場の方が好ましい選択をするというエンディングをたどる印象があります。
蛹が好きなゼノギアスも後者のエンディングでした。
ですが、今日観た映画「エヴァンゲリオン」は、そのどちらでもないように見えました。
主人公とその父は互いにエヴァンゲリオンに乗って確かに戦いますが、どちらかが勝利するという描き方ではありませんでした。
エヴァンゲリオン同士の戦闘は、途中から父と子の対話へと移っていきます。
庵野監督はなぜ、このようなロボットアニメらしからぬ「爽快」ではない父と子の対峙をクライマックスに選択したのでしょうか。
③碇シンジの物語のはずなのに、なぜ父親の碇ゲンドウの人生が語られたのか?
エヴァンゲリオンは主人公の碇シンジを中心にお話が構成され、物語が進展してきました。それなのになぜ最後の方で、父親の心を克明に描く必要があったのでしょうか。
④なぜ冒頭でロボットアニメらしくない平和な農村のようなシーンが必要だったのか?
前作まではアクションに次ぐアクションで物語を盛り上げ、観客の心を掴んできた手法を放棄したかのようなシーンをなぜ挿入したのか?
⑤人造人間エヴァンゲリオンとは一体何の比喩だったのか?
劇中で無数のエヴァンゲリオンが登場し、ショックを受けた方もいらっしゃるのではないでしょうか。主人公達の言わば分身でもあるエヴァンゲリオンが量産どころか無数に敵役としてでてきます。
そこには
エヴァンゲリオン=選ばれし特別な存在
という等式が破綻しています。
なぜ庵野監督は、エヴァンゲリオンの持つ神秘的で希少性ゆえに持つ存在的価値を貶めたのでしょうか?
特撮が好きな庵野監督らしからぬ発想ではないでしょうか。(ウルトラマンにしても仮面ライダーにしても、戦隊ものにしても不特定多数のヒーローが登場するというパラダイムは見たことがないですよね?)
まだまだ論点がつきないのですが、論点が多すぎますと結論がぼやけてきそうなので、これぐらいで止めておきます。
3.「エヴァンゲリオン」を読み解く
以上5つの論点には、ある共通したテーマが地下水脈のように流れていると蛹は考えます。
それは何か?
ズバリ言うと
コミュニケーションの中に現れる「他者性」です。
一つ一つ読みといていきましょう。
まず④から。
冒頭部分で農作業をしたり、挨拶の言葉の意味をレイが質問し周りの人達から教えられたりするシーンがなぜ必要だったのでしょうか。
蛹は、最後まで見終わった時に冒頭のシーンがどんな役割を果たしていたのかようやく理解することができました。
説明いたします。
レイがいちいち挨拶の意味を「委員長」に質問する場面が何度も描かれます。これは、まるで私達が普段意識せずに行っている挨拶の社会的機能を視聴者に思いださせる効果を狙っているように見えます。
さらに、農業の場面がでてきます。農作業というのは、人類の共同的営みの象徴であり、命をつなぐという生きることの根幹を支える仕事に他なりません。私達の先祖は力を合わせることで、独りでは難しい大量の食料を確保する事を実現させてきました。そして共同作業にはコミュニケーションが欠かせません。
つまり、私達人類は命をつなぐために、コミュニケーションを発展させてきたと言えます。
以上をまとめると
「挨拶という言葉がけが教えてくれたように、どうやら生きていくためには他者とのコミュニケーションが必要である」
というメッセージ性が浮かび上がります。
次に①を考察します。
なぜ未成熟な子供が世界の命運を担わなければならないのか。
日本のアニメは少年少女が主演であることが多いから商業的な意味で、エヴァンゲリオン搭乗者という「運命の選ばれし人間」を子供にしたと言うことができるかもしれません。
ですが、蛹はこの答えに満足できませんでした。ですから更に理屈を考えたいと思います。
子供は未成熟であり不完全である。
しかし同時に、子供は成長を通して成熟していくことができる。
劇中でもシンジの成長をアスカや父親のゲンドウでさえ認めます。
庵野監督が子供というモチーフを通して、私達に伝えたかったことは、
「たとえ未熟だとしても、他者との交流を通して、体験や気づきを得ることができ、それこそが成長を促し成熟していけるのが人間という存在である。」
ということではないでしょうか。
そしてエヴァンゲリオンに搭乗者する子供達が示す内向性とは、成長による変化をもっとも効果的に演出できるから選ばれた設定だと考えることができるのではないでしょうか。
次に論点②③を同時に扱いたいと思います。
ゲンドウとシンジはエヴァンゲリオンを使い戦います。しかし途中で戦う事をやめます。
これは
「心の問題は暴力では決して解決しない。必要なことは他者や自分自身との対話である。」
ということを庵野監督は訴えたいのではないかと考えられます。
また
劇中で明かされる父親碇ゲンドウの孤独を好み他者との交わりあいを拒絶してきた子供時代。それがユイとの出会いで大きく変わり、ユイがゲンドウにとっての「初めての他者」となりました。
しかしユイと死別することでゲンドウは再び他者を拒絶し始めます。ゲンドウがもっとも拒絶したのが他ならない息子のシンジでした。
傷つくことを恐れ他者との距離を取り続けてきたシンジは、ゲンドウの中に自分自身を見出します。そしてゲンドウもまたシンジの中に自分を見出すのです。
父と子は血は繋がっていても、個体としては確かに他者同士です。
ですが、他者との関わりに困難さを味わってきたこの2人は、お互いが写し鏡の関係であることを発見します。
主観的にしか世界と対峙できない個体同士でも、他者性の壁を乗り越えることができたのです。
シンジの中に自分を見つけた瞬間、ゲンドウは妻のユイがシンジというもう1人の自分自身の中で、ずっと夫を待ち続けていたことを知り、ゲンドウはユイと再会を果たすのです。ゲンドウは己の願いを叶えることができました。
庵野監督は、ゲンドウという存在を通して、
「他者と理解しあえることは確かに難しい。しかし他者とのコミュニケーションの中で自分を理解することができるなら、他者を受け入れ理解することができる。そのことにより、人は他者との関係性の中に自分の居場所を見つけることができる。」
というメッセージを投げかけているのではないでしょうか。
他者を受け入れることで、再び他者との共存を選択したゲンドウがユイに会えるシーンは直接的に描かれておりませんが、最後にゲンドウはユイと共にシンジの願いを叶えるため「神殺し」を行います。
父親と母親は、成長したシンジを見届けてそして、シンジに未来をプレゼントしたのです。
親という存在は、子供に生命を与え、そして命の可能性も与えるというメタファーに見えました。
蛹はこのシーンが、「ふしぎの海のナディア」のナディアとネモ船長の宇宙での別れのシーンに重なって見えます。(涙)
最後に⑤を取り上げます。
エヴァンゲリオンは、当初の頃、主人公の特別性を演出する道具のように描かれています。シンジのエヴァンゲリオン初号機とのシンクロ率がそれを如実に語っています。
長い歳月が流れ、庵野監督の中でエヴァンゲリオンの存在意義が変わっていったのではないかというのが、蛹の分析になります。
大量のエヴァンゲリオン達は、まるで私達の無数の人類のように蛹には見えました。これはエヴァンゲリオンという存在の中に無数の雑多な「他者性」を刻印しています。
主人公達を妨害してくるモブキャラ化したエヴァンゲリオン達は、人造人間エヴァンゲリオンの持っていた世界観の中での「神聖性」「唯一性」を否定することで、「エヴァンゲリオン」という「神話」の黄昏をえがいているのではないでしょうか。
また庵野監督は、エヴァンゲリオンとは不完全な個体が目指そうとする、傷つかず力溢れ何者にも邪魔されることのない個体、つまり「人類補完計画」が目指した「完全な個体」に他ならない。そしてそのような存在とは「神」の雛型であることに気づいたのでしょう。
劇中でエヴァンゲリオンを「神」として扱う発言をゲンドウがするのは、これに起因するのではないかとも考えられます。
エヴァンゲリオンとは、不完全な個体が望んできた傷ついたり病をえたり老いたり、死んたりすることのない「完全な個体」という理想の象徴だったんです。
ですから、他者との共存の道に「碇」を降ろしたシンジは、完全であるから他者を必要としない「エヴァンゲリオン」という存在を無に返す必要があったわけです。
だからこそ、完全を志向し、完全な存在にとって不必要となった他者との関係を捨て去るという人間の欲望を否定するために、「エヴァンゲリオン」は破壊されなければならなかったのです。これが無数の衆生のごとく登場したエヴァンゲリオンが敵役としてでてきた理由にみえます。
こうしたロジックがあるからこそ、エンディングで「エヴァンゲリオン」のない世界へと繋がることに説得力が生まれ、脱「エヴァンゲリオン神話」に成功したといえると考えます。
4.まとめ
「エヴァンゲリオン」というアニメが私達に伝えたかったこと。
それは
「自分の殻に閉じこもらずに、他者と共に時間と感情と体験を共有することができるなら、自分を傷つけるものから守る『エヴァンゲリオン』というかたくかて他者を寄せ付けない『ATフィールド』をもつ『鎧』をまとったり、『エヴァンゲリオン』を使って自分を必要以上に力があると誇示し他者を力づくでコントロールする必要なんてないんだよ」
という事ではないでしょうか。
読者の皆様はこれまで、自我を大きくし他者だけでなく自分自身さえも傷つけてしまうほど強力な機能をもつ「エヴァンゲリオン」という「言葉の武器」や「自分を守る理論武装」を用いて、「他者によって傷つけられない生活」「他者を不必要に傷つける生活」「他者を必要としない生活」をしたご経験は思い当たりませんか?
もし私達自身が「搭乗」していた「エヴァンゲリオン」という「他者と自己を隔てる盾と矛」を脱ぎ捨てることができたのなら、庵野監督が「新世紀 エヴァンゲリオン」で提示したメッセージを人生に活かすことができるのかもしれません。
「エヴァンゲリオン」という時代に大きな影響を与えた「神話」が終わりを迎えたことに際し
私達は次の新しい「神話」に頼る事なく、現実世界にいる他者と一緒に人生をより豊かにおくることの価値を理解できたなら
劇中の最後、アニメ描写から一転して、実写の中でシンジとマリが駅から出て未来に向かって走り去って行った庵野監督のこのメッセージと想いを受け継いで生きていくことができるのかもしれません。
不完全だからこそ、互いに補い合いながら一緒に生きていく。
このことの価値を「エヴァンゲリオン」は、私たちに伝えたいのかもしれない。
これは、FFXIが私達に教えてくれるテーマでもあります。ジラート、プロマシアミッションで私達「冒険者」は、不完全なまま生きる道を選びましたよね。
このように、深い哲学的なテーマで「エヴァンゲリオン」とFFXIがつながっていることを、改めて理解することができます。
「エヴァンゲリオン」とは、もしかしたら、もう一つのFFXIといえるのかもしれません。
追記
・「ふしぎの海のナディア」のネモ船長の声優である大塚明夫さんが葛城ミサトが艦長の船のクルーとしてでてきて、ナディアファンの蛹としては
「ネモ船長にまた会えた!」と嬉しくて椅子から立ち上がりかけました。
・劇中でも語られた「人類補完計画」ですが、蛹が以前記事で書いた解釈が妥当であったことを確認することができ、安心いたしました。
「運命の『チルドレン』達」
・追記を挿入。(2022年5月26日)
・誤字修正、推敲。(2022年5月26日、28日、30日)
・絵を挿入。(2022年5月29日)
・加筆修正。(2022年8月4日)
・誤字修正。(2022年11月6日)