昨晩は、LSの方達とマスターレベル上げandジョブポをいたしました。

 

場所は最近お気に入りのプロミヴォンデムです。

 

戦か赤白黒の5名の構成になりました。

 

フェイスはヨアヒムでマドリガル目的で呼びました。

 

ディストラ3が入るエンプティには究極連携まで起こせてMBまでもっていけたのですが、氷耐性のエンプティにはディストラが入りませんので苦戦いたしました。

 

やはりプロミヴォンは詩人がいる構成がいいのかもしれませんが、わいわい楽しむことができました。

 

最近、LSとして活動することが減っていたので、久しぶりに皆様と楽しむことができたのが一番の収穫でした。

 

 

 

さて話は変わりまして

 

 

今日は、1990年代に一世風靡したアニメ作品「エヴァンゲリオン」と、2000年代になりサービスがスタートしたファイナルファンタジー11の世界観においてある共通するテーマを題材にして、世紀末の日本社会が抱えていた社会病理的な事象とその対抗策として作品の中であげられた考え方が、現在の私達にどう影響を与えているのか考察してみたいと思います。

 

ジラートミッションやプロマシアミッションのネタバレを含みますので、まだ未クリアの方はブラウザバックを推進いたします。

 

 

 

論考「『楽園への扉』の意味。FF11 、エヴァンゲリオンを題材にして。」

 

 

①「楽園への扉」問題

ジラートミッションやサンドリア教会では、「楽園への扉」という言葉がキーワードとして何度も登場してきます。

 

「楽園への扉」とは何を指しているのでしょうか?

 

ミッションをクリアした方達はヴァナディールを神が座す「真世界」にすることだとご理解いただいているかと思います。

 

これは、ヴァナディールという様々な次元で多様に世界各地に存在がひしめいている世界を、神がいる世界へと還元することを指しています。

 

つまり「楽園への扉」を開くことは全てのヴァナディールの存在が神と同一化し統合されるという事態になるということです。

 

なぜ多様な存在が一元的に神にならないといけないのか。ジラートの王子達は、「それが世界のあるべき姿」だと信じていました。

 

このジラートの王子達が掲げるテーマを「楽園への扉」問題と設定したいと思います。

 

ではなぜそのような考え方に至ったのでしょうか。

 

この問題を理解するためには、1990年代に日本で社会現象を起こした「新世紀エヴァンゲリオン」というテレビアニメが提示するコミュニケーション問題を理解する必要があります。

 

 

②「エヴァンゲリオン」が提示したコミュニケーションの問題

 

テレビ版の「エヴァンゲリオン」は最後の2話が線画だけで画面が構成された理解しにくい内容となっており、放送当時から、その2話が何を伝えようとしているのかファンの間で様々な考察が行われました。

 

テレビ版の放送の後で作成された映画版の「エヴァンゲリオン」で、ようやくその意図を読み解くことができたという方も大勢いらっしゃったのではないでしょうか。

 

映画を通じて「エヴァンゲリオン」のテレビ版の最後の2話は、劇中で語られる「人類補完計画」が起きた後の世界を描写していたのではないかという解釈が多くの方に支持されたように蛹は受け止めました。

 

「人類補完計画」とはなにか?

 

端的に言いますと、個々人では長所と短所を抱えている「不完全」な人間の存在を一つの存在にすることで「欠くところがない完璧な存在」として人類を再構成する計画とでも言えばよろしいでしょうか。

 

この「人類補完計画」という考え方が出てきた背景は、キリスト教の影響が見られると考えられます。

 

キリスト教において

 

神=完全、人間=不完全というキリスト教学で古くからある考え方があります。私達人間が、神の教えを受けながらも道を間違うのは不完全だからという理屈です。

 

この考え方は、古代ローマ帝国でキリスト教が国教化され、キリスト教を緻密な理論体系に昇華するために、キリスト教を哲学的な立場から説明しようともがいていたキリスト教の神学者達によって支援されてきた長い歴史を持つ考え方でした。それが先鋭化して、ついには集合論的に神の存在を証明しようとする神学者まで現れました。この考え方は20世紀に「不完全性定理」を発表した数学者クルト・ゲーテルによる「神の存在証明」にまで引き継がれています。西欧では今でも根強い考え方なのでしょうか?

 

これは神を全人格的であり世界の全てであると定義し、これを前提にして世界の一部でしかすぎない人間を定義しようとすることで発生する考え方だとも言えます。

 

当然、キリスト教をコンテクストととする「エヴァンゲリオン」にとってそれは前提となる世界観になるのでしょう。

 

この人間が「不完全」であるとする考え方は、1990年代の「世紀末」を生きる大勢の日本人に受け入れられていたのかもしれません。

 

全ての人間は個人では「不完全」である。だから「完全」に向かってより良い存在にならなければならない。

 

こう考えるのは一見とても自然にみえます。

 

同年代、日本社会を大きく揺るがしたオーム真理教に大勢の若者達が共鳴した背景もこの「不完全」からの脱出にあるのかもしれません。出口の見えない不況の中で、このままではいけない、より良い人間になりたい、よりよい人生を送りたいと考えた若者たちの不安につけこんだのが、オーム真理教に代表される新新興宗教だったのでしょうか。

 

「私」が生き辛さを抱えているのは、「私」という存在が「不完全」であるからだと。「不完全」だからコミュニケーションで失敗をするのだと。

 

もし「不完全」な存在から脱すれば、「私」は生きることにおいてなんら迷うこともなく、傷つくこともなく生きていけるのだというのが、この「不完全」性問題からの解決方法に見えたわけです。

 

この考え方をもう少し言い換えると、「社会」という「私」を取り巻く「環境」と対峙する中で生じる様々なコミュニケーションの問題を、「完全」になることで克服しようとする志向。これこそが、「人類補完計画」の正体であり、イレブンの分脈で言えば、「楽園への扉を開く」ことに該当すると言えそうです。

 

FF11のプロマシアミッションで、人間は男神プロマシアが復活すると吸収されるという設定もまた、個人の「不完全」性から神という「完全」性への統合による人間の魂の「救済」(ある人にとってそれは悪夢だとしても)という文脈で理解できそうです。

 

つまり「人類補完計画」と「楽園への扉」問題は、「不完全」から「完全」になることこそが人類の目標であるという価値観が通底しているわけです。

 

この「不完全」を許さず「完全」を目指すという議論は、ユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』を思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

ハラリの予言する人類が「神」になる欲望を、私達の子孫は止めずにますます「完全」に向かってテクノロジーを進化させていくのかもしれません(ユヴァル2018a、2018b)。

 

その意味において、ファイナルファンタジー11は、遥か昔から抱いてきた個体としての死を乗り越えて「神」になろうとする人類の姿をえがいているとも言えそうです。

 

しかし、私達が生きている間に果たして不老不死のテクノロジーが開発されるかはわかりません。

 

私達は個体の死を受け入れる生き方を選択する方が、現実と向き合えるのではないかと考えます。

 

 

③「不完全」なままで生きることの価値

 

上述した「完全性」への志向は、それ自体、「現実の複雑性を縮減する装置」に他なりません。

 

現実を「完全」と「不完全」の2値的なバイナリーコードとして解釈すること自体、現実を2極に分類して捉える世界観になっていることを読者の皆様はお気づきでしょうか。

 

社会学者のニクラス・ルーマンが指摘する通り、私達を取り巻いている「現実」というものは、人間が自分勝手に解釈してそれで済むほど単純にはできていないのです(ルーマン1993、1995)。

 

私達は「現実」の複雑性をその密度のまま理解することができないからこそ、「現実」の複雑性を人工的に縮減した「社会」というより取り扱いやすくなった「現実」を生み出し、その人工的に加工された世界の中でコミュニケーションシステムを発展させてきました。

 

私達は「人類補完計画」や「楽園への扉」のように、ある特定の権力集団や人々を恣意的にコントロールしたい人間たちによって都合よく解釈された「現実」を疑うことなく受け入れ、理解したものと思い込んだまま、それによって生じる暴力や不条理の問題を無視したなら、先人達が犯してきた過ちを繰り返すだけです。

 

人を傷つけ続ける「世界の解釈の仕方」から、私達は距離をとることができる知の力と、複雑で煩雑で面倒だとしても、善悪が灰色で判断がつきづらくてすぐに答えが見つからないこの世界に耐えながら前に向かう「しなやかさ」と「勇気」を持たなければならないと蛹は考えます。

 

この姿勢の中にこそ、第二、第三の「オーム真理教」を生まない社会を築くヒントがあるように思えるのです。

 

 

FF11のジラートミッションにおいて「楽園への扉」を開こうとしたジラートの王子達の野望を止め扉を開かせなかったのは私達冒険者でした。

 

またプロマシアミッションでは、ヴァナディールの人類がプロマシアに統合され「完全」な一つの存在になることを否定し、「不完全」なままで生きることを選択したのも、他ならぬ私達冒険者だったことを思いだしてください。

 

そうなんです。私達はジラートミッションでもプロマシアミッションでも、「不完全」なままでも生きる道をゲームを通して選び取ったんです。

 

今までの議論をご理解された読者の方にとって、これは大変考えさせられる結末ではないでしょうか。

 

ファイナルファンタジー11というゲームの世界観は、このような複雑な世界の中でも、見失なってはいけない生き方のみちしるべを私達プレイヤーに訴え続けているのです。

 

言い換えれば、これほどまでに深い人生観を提供するゲームを私達は遊びを通して接してきたわけです。文化とは、私達の人生を豊かにしてくれるということをFF11は体現しているのです。

 

単純化した「世界」を「理解」することで、全てがわかったつもりになり、現実が抱える事細かな複雑性を無視する。その結果が、差別や暴力を生み出ししまうことを、私たちは理解する時期に来ているのではないでしょうか?

 

現に、プーチンがウクライナに行っている侵略行為は、「現実」の持つ複雑性を、恣意的に単純化した結果起きている現象なのではないかと蛹は受け止めています。

 

 

ファイナルファンタジー11とは、このような深いテーマを持つゲームですから、私達イレブンプレイヤーはプレーすることへの価値に対しもっと自信を持ってもいいのではないでしょうか。

 

たとえ「不完全」であったとしても、その枠組みを越えて私達は生きていけることを、ff11は教えてくれている。

 

この事実こそ、大勢のプレイヤーに支持され続け、今年の5月に20周年を迎えるファイナルファンタジー11というゲームに相応しい評価につながるのではないでしょうか。

 

「『複雑性』に抗いながら、それでも愛を歌い続ける」

 

 

 

 

 

 

 

〜参考文献〜

・ニクラス・ルーマン1993『社会システム理論(上)』恒星社厚生閣。

・ニクラス・ルーマン1995『社会システム理論(下)』恒星社厚生閣。

・ユヴァル・ノア・ハラリ2018a『ホモ・デウス上:テクノロジーとサピエンスの未来』河出書房新社。

・ユヴァル・ノア・ハラリ2018b『ホモ・デウス下:テクノロジーとサピエンスの未来』河出書房新社。

 

追記

・誤字・脱字修正・推敲。(2022年3月6日)

・『ホモ・デウス』の内容を挿入。(2022年3月12日)

・絵を挿入。(2022年3月16日)

 

・FF11というゲームが、「不完全」なまま生きることの価値を訴え続けてきた類まれなる作品であることを読者の皆様と開発様に伝えたくてこの論考を書かさせていただきました。

 

FF11はこれからも末永くサービスが続くのに値する価値を世界に提供していると蛹は上記のような理由から考えてきました。

 

 

もしかしたらプレイヤーの皆様と開発様の熱意がスクエアエニックス経営陣様を動かし、大規模アップデートの再開への動きがでたらと淡い期待を寄せて筆を置きます。

 

最後まで長文を読んでくださいましてありがとうございました。