●能書
世に蚊母鳥なる怪鳥あり。
嘴より蚊を吐出すが故に其名あり。此鳥の飛交ふところ常に蚊柱ありて、囀るところ常に藪蚊の翅音木霊すと云。また蚊母鳥とは夜鷹の別名なり。此鳥の蚊を食らふを見し者、却て鳥が蚊吐きたるやうに思へて、斯く名づけしや。
今、われ此鳥にちなみて、ブログを蚊母鳥園とぞ名づけたる。
我が文章の成すところ、あたかも蚊母鳥の闇夜に遊びたるが如し。虚空に醜き羽を翻しつ ゝ 、害虫の如き悪文妄言を吐散らし、人人の顰蹙を買ふことこそ本意なれ。
amphigorey
Amphigoreyは初期の作品を集めた作品集で、有名な「うろんな客」や「不幸な子供」、「ウエストウイング」に「ギャシュリークラムのちびっ子たち」などが収録されているお得な一冊。
まとめ読みしてみると、いくら絵本でも流石に疲れるね。『弦のないハープ』は途中で嫌になって、読むのを断念してしまった。幸い邦訳があるので、今度買ってこよっと。そのほかは大体読むことが出来た。以下、面白かった作品・印象に残った作品の感想。
●「The Doubtful Guest」
邦訳タイトルは「うろんな客」。このタイトルは素晴らし過ぎる!漢字で書くと「胡乱」となるが、これは疑わしいという意味。邦訳は未読なのだが、文章が短歌形式になっているそうで、読書欲をそそる。
ストーリーは、突然或る一つの家庭に紛れ込んだ変な生き物(doubtful guest)が、迷惑な行動を繰り返していく、というもの。その悪戯の数々が、ユニークなキャプションとともに描かれている。
まず、うろんな客の変な容姿に吹いた。全身毛むくじゃらのペンギンのような姿にも関らず、その足には靴を履いており、更に初めて家族の前に現れたときにはマフラーを巻いていた。不可解な行動の数々は、実際に自分がやられたら物凄く頭にくるものばかりだが、一家は動物の行動を止めさせようとも追い出そうともしないで、ちょっと変な空間がそこに広がっている。ネットでこの作品の感想を読んでいると、よくつげ義春の『李さん一家』と比べる人がいるが、ラストを読んでみて納得した。
●「The Hapless Child」
邦訳では「不幸な子供」。前漫画の「さよなら絶望先生」を読んでいたとき、絶望先生が国語の授業で取り上げていたのが本書だった(ちなみに、次回の授業ではギャシュリークラムを扱う予定だったらしい)。
一人の少女が、次々と不幸な目に遭っていく話。
戦争で父親をなくした少女が、病気で母親をもなくし、更に唯一の身寄りだったおじさんもレンガが落下してきて死んでしまったので、少女の身よりは弁護士に一任され、寄宿舎のある学校へ入ったものの、教師や生徒(顔が怖い!)からのいじめに耐えかね少女は学校を抜け出すが、今度は人飼いにつかまって飲んだくれの与太者に売られてしまい、残飯と水だけという過酷な生活の中でいつしか少女は目が見えなくなり・・・
という具合にして、とことん救われない展開へと発展してゆく。ゴーリーは少女に容赦なく、ラストまでもとことん救われない。こうして救われない出来事ばかり続くと、逆に一つのユーモアになってくるから可笑しい。読み終えたあとは、イラスト中に登場する黒い悪魔のような生き物を探してみるのも面白いかも!?
●「The Curious Sofa」
表紙に「A Pornographic Work by Ogdred Weary」などと思わせぶりな文句が書いてあるように、ゴーリーの作品としては少少エロティックなもの。ただし、直接的な描写は一切なく、キャプションを読んでクスっと笑える程度の、暗示的なものしかない。作者のOgdred Wearyについては、文字をばらばらにして並べ替えてみると・・・?
良く海外の長編小説を読んでいると、人物の名前を覚えられなくて何度もページをいったりきたりすることがあるが、この作品も似たような名前ばっかりで、覚えにくいといったらありゃしない。
最初の方は、殆どが人物紹介になっているが、終わりに近づくといつものゴーリーらしい不可解さが現れてくる。
ラストの意味は良く分からないが、アリスが最後に目撃した、悲鳴をあげるほどの出来事って、一体なんだったんだろう?
●「The Insect God」
一人の少女が虫に誘拐される話。
人間の大人くらいの大きさの、鹿のような虫たちが不気味。この本の中では、「ウエストウイング」に匹敵するくらい怖い作品である。
●「The Bug Book」
この作品と、もう一つの「The Wuggly Ump」という作品は、カラーで載っているのが嬉しい。
仲良く暮らしていた赤・青・黄の虫たち(てんとう虫のサンバじゃないけど)のところへ、蜘蛛のような黒い大きな虫が現れ、何かにつけて虫たちの行動につきまとって、いろいろと邪魔してくるようになる。堪えかねた虫たちは結託し、巨大な岩を落として黒い虫を潰してしまう。
読んでみて、黒い虫が少し可哀相になった。しかしながら、ああでもしなければ虫たちの平和な生活は取戻すことが出来なかっただろう。こんな時代だからこそ、いろいろと考えさせられる作品である。
●「The Wuggly Ump」
この作品は是非邦訳して欲しい。
何でも食べてしまうWuggly Umpという怪物が自分の巣穴から出て、山越え谷越えやってきて、仲良く暮らしていた三人の子供を食べてしまうという作品。
「sing tirraloo, sing tirralay」などのキャプションが、残酷な結末に反してとても楽しい。
ラスト、青空の下、子供たちを食べ終えて満足げに笑うThe Wuggly Umpがちょっと怖い。でもそれにも増して怖いのは、食べられてもなお怪物の腹の中で歌を歌っている子供たちかな。
●「The Sinking Spell」
エドワード・ゴーリーの、こういったセンスが好きである。
空から何かが落ちてくる話だが、それが何なのかは文章にも絵にも書かれていないから分からない。作品では、ひたすら宙空を見つめる人々の姿が描かれているだけで、非常にシュールな光景である。何故かほのぼのとした気持ちにさせられるのは、人々が普段の生活も忘れて、取り憑かれるように得たいの知れないものに夢中になっているからだろう。
その「何か」はやがて家の中に侵入し、地下の貯蔵室へ入っていって、やがて消えてしまうのだが、裏表紙と思われる絵には、土の中で何かを見つめるミミズの絵が描かれている。そういえば、表紙は空の鳥が目を真ん丸くして何かを見つめる絵だった。
またまたTB閉鎖のお知らせ
●以前の詐欺サイトからの悪質TBは止んだが、今度は別の英字サイトからのTB攻撃をうけるようになった。
今回のは一度につき何度もTBしてくるなど、前のもの以上に悪質。消すのが面倒なので閉鎖に踏み切った。ちゃんと記事を読んでTBしてくれるブログ主さんの記事も見られなくなってしまったのは残念だが、悪質な馬鹿サイトがある限りそれも仕方ないことだと諦めた。
この場を借りて、このブログにTBアタックをかけてきた屑サイトの関係者に不幸が訪れることを切に願う。
しばらくみないうちに
ドラマ名探偵コナン
名探偵コナンのドラマをみた。
金田一少年のように、設定やストーリーの若干異なるパラレルワールドではなく、一応アニメコナンとリンクしている模様。ただし江戸川コナンは一切登場しない、コナンが高校生探偵・工藤新一だった時のストーリーだった。なのでコナンと関わりの深い阿笠博士(怪しい!)は登場しないし、げん太や光彦、あゆみちゃんも殆ど後姿のままチョイ役で登場する(しかも声はアニメ版の声優と同じ。一瞬我が耳を疑いました)。
総合的な感想を先に言ってしまうと、思ったよりも悪くはなかった。最後まで飽きずに見ていられたのがその証拠である。
ストーリーは、工藤新一の家に「KIDNAPPER」なる人物から手紙が届くところで始まる。手紙は新一への挑戦状で、修学旅行の最中、新一のクラスメートの誰かを船上で誘拐する、という内容だった。最初は修学旅行に乗り気でなかった新一は、誘拐を阻止するために修学旅行へ参加する。
ところが、新一の注意もむなしく、蘭の友人のその子が密室で誘拐されてしまう。そして誘拐を阻止できなかった新一をあざ笑うかのように、第二の犯行予告が届く。
犯人が使うトリックは何処かで見たことのあるようなものばかりで、真新しさは感じられない。密室での展開などドラマを見るまでもなくベタだし、犯人は余計なことをすぐべらべらとしゃべってしまうので中盤で分かる人には分かってしまう。犯行の動機も復讐の方法も実に生ぬるい。探偵ドラマとしてはこれでは駄目である。
ラストでの危機的状況も、工藤新一は頭ではなく体を使って乗り越えた。それにしても爆弾、よくあんな空高くまで飛ぶなあ。ちなみに新一の上空で爆弾が爆発する横で紙飛行機のようなものが飛んでいたが、どうやら怪盗キッドらしい。細かいところはトリック以上に凝ってるなあ・・・
あれ?よくよく考えてみると、何故このドラマが面白かったのか良く分からなくなってしまった。
一番心配していた配役は、今回は文句なしだと思う。主役である工藤新一の小栗旬からして、なかなかのはまり役。工藤新一の中二病的ニヒリズムが巧く表現されていた。オグリッシュは期待通りだった。「バカヤロウ!」と言ったシーンがあるが、あそこで「バーロー」と言わなかったのは最大の失敗だと思う。
毛利蘭役の黒川智花。アニメや漫画でみる蘭のイメージとはちょっと違ったが、演技自体はそれほど悪くないので○。冒頭でコンクリートにひび入れてた人が、木の板破壊するくらいで手こずって、しかも負傷するとはこれ如何に?
そして毛利小五郎だが、陣内の演じたこの役が一番はまり役だった。声も輪郭のタイプも違うのに、どうみても毛利小五郎だった。CMを見た時から密かに期待していたが、期待通りの役だった。あのわざとらしさを一つの味に変えてしまう陣内の演技は、アニメ原作の本ドラマで特に発揮されていたと思う。
目暮警部の西村雅彦は、、、ちょっと違うんじゃないかと思わずにはいられない。いくら腹に詰め物をしても、横の方のボリュームや顔はごまかせない。それに何故か台詞が棒読み。西村雅彦自体は嫌いではないけれど、この役はちょっと×かなあ。古畑に出てくる今泉慎太郎のイメージが強すぎるのかも知れない。
コナンを見た後、『世にも奇妙な物語』をみた。ラスト30分で一話だけ見ることが出来た。
う~ん、個人的にはもっとブラックな最後が良かったなあ。感動のラストと見せかけて救えないオチがあるほうが、『世にも奇妙な~』の名に相応しい。
- 青山 剛昌
- 名探偵コナン (Volume42)
大人帝国の逆襲
- バンダイビジュアル
- 映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
クレヨンしんちゃん劇場版、7時ごろにやっていたので、ビデオに録画してしまった。
クレヨンしんちゃんは以前よりけっこうふざけた内容のものも好きだったが、これはシリアスな部分とお不戯けが丁度良い具合に溶け合っていて、今までにない魅力がある作品である。青空侍が出てくる作品も好きだが、この大人帝国には敵わない。
舞台はクレヨンしんちゃんの住む春日部市。平穏な日常の中、突如として『20世紀博』なるものがやってくる。20世紀博は、あの大阪万博を始めとして、大人たちならば誰もが「懐かしい」と感じる催しもので構成された一大アミューズメントパークである。その狙い通り、大人たちは童心に返って20世紀博の虜となるが、しんちゃんを始めとする子供たちは、大人の異常なのめり込み様に一抹の不安を感じ始める。
やがて子供たちの不安は的中する。実は20世紀博の正体は、時間を逆行し、もう一度昭和時代を取戻そうとする「イエスタディワンスモア」なる組織であった。組織のボスであるケンは、大人たちに懐かしさを覚えさせる20世紀の匂い(どんな匂いだろう)を発見し、それを利用して大人を洗脳しようと試みる。ヒロシやミサエを始めとしてしんのすけの周りの大人達は見事に洗脳され、イエスタディワンスモアのオート三輪に乗せられて20世紀博へ連れて行かれてしまう。そして間もなくして、イエスタディワンスモアは子供たちを昭和の時代に適応させるために、大規模な子供狩りを開始する。
残された子供たちは、最初はイエスタディワンスモアの追手から逃げるばかりだったが、やがて大人たちを救い出すために20世紀博の会場へ乗り込んでゆくこととなる・・・
日常の中で忘れられがちな、しかしながらとても重要な思い出とそれに対する回顧の気持ち、大人たちがいなくなった町での子供たちの成長、そしてしんのすけの未来に対する憧れ。作中の人物が具体的に口にすることなしに、それらが非常に良く伝わってくる映画だった。テレビ盤だけみてクレヨンしんちゃんが有害だとか言っているPTAの連中に是非見せてやりたい。
「クレヨンしんちゃん」らしく笑わせてくれる場面も沢山あったが、それが随所随所で絶妙なタイミングで入ってくる。今回は通常忌み嫌われるヒロシの靴が、20世紀の匂いに対抗するための唯一の武器として重要な役割を持っていた。大人帝国に乗り込んだしんのすけが、すっかり子供に返ったひろしに靴の匂いをかがせて洗脳を解く場面は、クライマックスの鉄塔のシーンよりも好きだ。強烈な己が靴の匂いを嗅いだひろしは、決して無駄ではなかった自分の人生を振り返って、21世紀間近の現在へと返ってくる。かつては父の自転車の後ろに乗っていたひろしが、今では自分が「父」となり、しんのすけを後ろに乗せるようになったのだ。過去を懐かしみつつも、ひろしは家族と共に21世紀へ進む道を選ぶ。自分を救ってくれた我が子を抱きしめひろしが泣くところで、もうまともに作品を見ていられなくなる。
作中に登場する具体的な固有名詞は、殆どが私の世代のものではないため(もうファミコンもあったからなあ・・・)、それを見て懐かしさを覚えることはなかった。だけど夕日の下の町並みは何処か暖かいし、ところどころで挿入される昔の歌は心地よい。ベッツィアンドクリスの『白い色は恋人の色』は、鼓膜ではなく心を揺さぶってくる名曲である。この歌をバックにケンとチャコが夕日の町を歩くシーンは、もう完全に大人を対象にした世界である。
関係ないが、子供狩りのシーンで流れていた曲はカルメンマキの『時には母のない子のように』か。だとしたらあのシーンにマッチした素晴らしい選曲だが。
ラストでしんのすけたちが戻ってくるシーンでは、吉田拓郎の『今日までそして明日から』が使われていて、これもまた良い選曲なんだよなあ・・・。20世紀の終わりのシーンに21世紀のものではない昭和の歌を使っているところが、この作品の一筋縄でいかないところだ。しんちゃんが勝ち、いざ21世紀へ!という雰囲気になりつつも、何処かケンとチャコが作った20世紀が名残惜しい。千と千尋のラストではないが、この曲を聴くとつい後ろを振り返ってみたくなる。
歌詞を最後まで見ると、実は「私」の生き方は今までも明日も何一つとして変わっていないということに気付くし、歌われているのもごくごく普通の生き方でしかない。だが、そのありふれたところに共感できる。21世紀を取戻した野原一家も、また今までどおりの生活に戻ってゆく。「明日からもこうして生きてゆくだろう」と。
ひろしの回想シーンに次ぐもう一つの山場は、何と言ってもしんのすけが鉄塔を駆け上っていく場面。しんのすけがケンとチャコに言った次の言葉が忘れられない。
「大人になりたいから、大人になってお姉さん(チャコ)みたいなきれいなお姉さんといっぱいお付き合いしたいから!」
強い言葉ではあるが、後半がいかにもクレヨンしんちゃんらしい。もし大人帝国が実現されれば、しんのすけやひまわりの進むべき未来が壊されてしまうどころか、懐かしむべき昔さえも失われてしまう。ケンとチャコの計画は決して悪いものではないし、ある部分では共感できる。だがそれによって多くのものが犠牲となるし、何より、その行動自体がひろし達大人の今までを否定するものである。過去を振り返って懐かしむことは心地よいが、それを自分たち以外の人間に押し付けることが果たして許されるのだろうか。
結局しんのすけは勝ち、大人帝国は実現されない。ケンとチャコも無言のまま春日部を去ってしまう。しんのすけに感化されて21世紀を生きる気になったのか、それとももう一度大人帝国を作り上げるつもりなのか、それは分からない(個人的には後者であって欲しいが)。私はここで、しんのすけ達の活躍に喝采を贈りながらも、イエスタディワンスモアが間違っていたとは思いたくない。物質に依存するあまり空虚になってしまった現代を悲観し、その身の置き所を過去に求めたケンとチャコの考えを完全否定してしまったら、今までの野原一家の活躍も無意味なものになってしまうと思う。過去に残りたい二人を追いたて21世紀の未来を押し付けることもまた、どうなのだろうかと思う。
普段は現実をみつめ今を生きつつも、時には思い出の世界に浸りたい。映画の中に懐かしいものが見当たらない人でも、間違いなく共感できる作品である。
墓場鬼太郎二巻目
- 水木 しげる
- 墓場鬼太郎 (2) 貸本まんが復刻版
角川文庫で刊行されている貸本鬼太郎の二巻が出た。この巻には吸血木や偽鬼太郎、猫娘の登場する話が収められている。
「有楽町で笑ひませう」(!)などで有名な歌手のトランク永井(!!!)は、電車の中で出会った奇妙な男(ねずみ男)に、何か植物の芽のようなものを腕に植えつけられてしまう。それは前巻で、ねずみ男が吸血鬼と夜叉の成れの果てから作り出した吸血木の芽だった。
一方、鬼太郎親子は地獄から生還した血液銀行社員の水木とともに、三味線屋「ねこや」の二階に住んでいる。鬼太郎は「ねこや」の娘寝子を密かに好きになり、寝子に触発されて学校へもいくようになったが、或る時目玉親父が鬼太郎の弁当にと持たせた鼠の所為で、寝子の正体を知ってしまう。寝子は鼠を見ると猫のような形相になり、鼠を食べるまで人間の姿に戻ることが出来ない猫娘だったのである。もう学校に行けないと嘆く寝子に、鬼太郎はある提案を持ちかける。それは、唄の上手な寝子を歌手にすることだった。鬼太郎は水木に頼んで、寝子を歌手のトランク永井に紹介してもらう。そんなところへ、ねずみ男と鬼太郎にそっくりな少年が現れて、なにやら怪しげな動きを見せる。
この話は水木自身によって何回もリメイクされているが、今回読んだものが一番出来が良かった。
この辺りから、ただ恐ろしい存在だった鬼太郎が、人間的な一面も見せるようになる。まず、鬼太郎の恋が語られるところが今までにはなかった展開である。ところが鬼太郎の情熱に反して周囲の評価はなかなか残酷なもので、
ねずみ男「おい見ろよ。手なんか握ったりしてよ」
偽鬼太郎「あんな顔しててなかなかロマンチックなんだな」
などと酷いことを言われている。残念ながらこの恋は叶わなかったが(寝子さんがねずみ男と偽鬼太郎の奸計に陥り死んでしまった)、鬼太郎が「墓場」から「ゲゲゲ」に変わった後、禁忌を犯してまで鬼太郎は結婚することになる。
水木しげる的な味も以前に増して本領を発揮する。「植物幽霊種」のことを長文を使って長々とまことしやかに語ったり、「トランク永井」や喫茶「ザ・パンティ」などのネーミングセンスにもそれがよく現れている。そういえば大滝詠一の変名の一つに「トランク短井」というのがあるが・・・。ちなみに、ガロ版「鬼太郎夜話」では、トランク永井の名が三島由美夫に変わっている。
地獄のシーンでは、日本社会党(現・社民党)の委員長だった浅沼稲次郎と、浅沼を暗殺した山口二矢が肩を並べて歩いているし、大東亜戦争時の内閣総理大臣であった東条英機に「戦争はイケマセンよ」などと言わせている。一番受けたのは次の文、鬼太郎の神通力を解明しようとねずみ男達が研究に奔走している場面での文章。
「だが残念なことには日本では鬼太郎に関する本は、水木しげるの作ったものの他にはないという貧困ぶりである。二人は近代幽霊作家の不足をなげくのであった」
そりゃあ、そうだろう。という突っ込みはこの際無意味である。また「近代幽霊作家」という言葉にも凄いものを感じる。もっとも、この頃には偽鬼太郎として知られる竹内寛行版が兎月書房から出ているころだろうから、パラレルワールドの存在を許せば鬼太郎に関する本は「あった」と言える。この一文が、自分が去った後も他の作家に鬼太郎を書かせている出版社への皮肉だったのかどうかは知らない。
「吸血木と猫娘」に次ぐ「地獄の散歩道」では、現在の「ゲゲゲの~」に繋がる、妖怪漫画としての鬼太郎を見ることが出来る。ここでは鬼太郎が妖怪たちのスキヤキパーティに誘われるのだが、会場にいる妖怪達の中に、塗り壁の原型を見ることが出来る。そしてこれまた長文の、妖怪に関する解説が付されていたりする。最後に登場する「物の怪」という奴のデザインは、まるっきり「桃山人夜話」の小豆洗いである。
これからどうなっていくのだろう。続きが待ち遠しい。
送ってくんな
最近変なTBが送られてくる。
記事概要に「たまに来ますのでよろしくお願いします。 」などと書かれており、TB先を見ると英語の検索サイトになっている。ちょっと気持ち悪く思ったので調べてみると、嘘のスパイウェア感染広告を出して、アンチソフトを購入させる詐欺サイトらしい。それにしても、「たまに来ますのでよろしくお願いします。」という言葉に違うことなく、殆ど毎日のように送ってくる。来てくれるのは結構だが、宣伝ばかりでなくて記事の一つや二つくらい読んでいけ、と言いたい。当ブログではこれを明らかな嫌がらせとみなして、アメーバブログに通報した。
見つけ次第するに削除していきますが、もし見かけても絶対にクリックしないで下さい。
詳しい解説が載っているサイト
蒼い時
- エドワード ゴーリー, Edward Gorey, 柴田 元幸
- 蒼い時
これまた『ギャシュリークラムのちびっ子たち』とは趣の異なる絵本。
人は死なず不幸も起こらず、変な生き物やうろんな客や悪魔じみた存在も登場しない。ゴーリーらしくないじゃないかと感じつつも、絵の中の独特な間などにはどこかゴーリーじみたところがあって、やっぱりゴーリーの絵本なんだと再認識させられる。
登場人物は二匹の犬だけ、というシンプルさ。この犬たちが交わしたと思しき奇妙な会話が文章となっている。椅子に寝そべったりボートに乗ったり、蒼い時(黄昏時の意らしい)の様々なシチュエーションを、積極的に楽しんでるというわけでもなく、赴くままにのんびりと過ごしている。そこで交わされる二頭の会話も一見支離滅裂なもので、そこに意味を求めようとすると、脳みそを酷使することになる。意味を求めようと思わずに読んでいると、『蒼い時』の文章の一部分がふっと心に重なってくることがある。読む回数が増えれば増えるほどその機会は多くなる。ところがもう一度振り返ってみると、やはり意味が分からない文章がそこにあるだけだ。結局意味は分からない。分からず、ただ何かを感じるのみである。
音や動きの感じられないイラストの静けさ。いつもの白と黒のペン画に鮮やかな蒼が重ねてあり、とても美しい。背景はいつものような斜線の描き込みが成されたものは少なく、シルエットのようなベタ塗りのものが多い。
解説によると、本書はゴーリー唯一の旅行体験をもとに書かれたものだというが、言われてみるとそんな感じもする。だが、ゴーリーが実際に行ったスコットランドの風景と言うよりは、二匹の犬たちによる架空の旅行記といった趣が強いように感じる。
ゴーリーは生前行っても良いと思っていた場所の一つに日本の竜安寺石庭があるらしいが、本書にも二匹の犬が扇子を持って転がっている日本風のイラストがある。背景が竜安寺石庭の、流れある砂に似ているように思えるのは気のせいか。原文も日本語らしいものがローマ字表記されている。
特筆すべきは上に挙げた僅かばかりで、あとはない。これといったストーリーがないゴーリーの作品の鑑賞は、とにかく個個の見方に依存するところが大きい。
難解な言葉を自分なりに解読してみるのも面白いし、人生のちょっとした間に本書を読んで、静かな「蒼い時」を感じてみるのもまた良いかも。
妄想代理人
- 角川エンタテインメント
- 妄想代理人(1)
今敏原作・総監督のアニメ『妄想代理人』を見る。
舞台は現代の日本。
巷では、「少年バット」なる連続通り魔が世間を騒がせている。少年バットはその名の通り帽子に金属バット、ロラーブレードを身に着けた少年らしいが、被害者をはじめとして誰もその正体は分からない。人人の噂ばかりが先行し、口裂け女のような都市伝説的存在となっている。不思議なことに、少年バットに殴られた被害者は皆、事件後安堵したような様子を見せた。
二人の刑事猪狩と馬庭は少年バットを捕まえるべく捜査を進めるが、怪物染みた存在が相手であるゆえ、捜査は難航する。やがて一人の警官が犯人を捕らえるも、それは少年バットを装った模倣犯であった。しかも、その模倣犯の少年が警察内で本物の少年バットに殺害されるという事件が起こり、猪狩と馬庭は辞職に追い込まれてしまう。二人がくびになった後も少年バットは世間を騒がせた。やがてそれは噂に乗って、みるみる巨大な存在へと変貌してゆく・・・。
『千年女優』や『東京ゴッド・ファーザーズ』は観たが、テレビシリーズの本作は未見だった。前々から観たかったのをようやくビデオ屋で借りて、一気に観た。
内容はサスペンスホラーといった感じである。タイトルに「妄想」という言葉が入っているだけあり、先へ進めば進むほど、人人の妄想へ深入りし、ぐんぐん迷宮へ迷い込むような感覚をおぼえる。登場人物は皆怪しく、中盤まで常識的な人物だと信じていた刑事でさえも、後半では心の迷いに陥って変な世界へ飛ばされたり、レーダーマン(何と婉曲的な表現!)になってしまったりする。人物の繋がりも複雑に入り組んでおり、2回ほど見ると「あの人はこんなところにも出ていたのか!」という新たな発見をすることがある。
本作は一応一続きのストーリーを持つ連続ものだが、それぞれの回は皆、各々異なる雰囲気を持っている。今までシリアスだったストーリーが急にファンタジー調になったり、人物の顔がいままでとは違うタッチになったり、作中の「マロミ」というキャラクター(結構重要なキャラ)が主人公のアニメが作中作として挿入されたり、ノスタルジー溢れる猪狩の過去の街の住人は張りぼてのようだったり・・・中には一つの作品として独立していてもおかしくないほど、完成されたものもある。
たとえば、私が好きなのは『明るい家族計画』という作品。少年バット事件が関わってくるという点が、かろうじてこの作品を『妄想代理人』の一挿話にしているが、殆ど独立した短篇である。キャラクターは今敏的な面影はあるものの、何処か生理的嫌悪感を催させるような、一種独特な雰囲気を持っている。
登場人物は老人と男と少女。自殺サイトを通じて知り合った三人が、自らの死に場所を求めてあちこちを彷徨う。ところが結局死ぬことが出来ずにまた別の場所へ行くという話。
普通自殺と云えばシリアスなものなのに、音楽は明るいものだし、三人の行動は何処かほのぼのとしている。ただ、そのほのぼのとしているところが却って怖い。夕暮れの空をバックに、三人が並んで首をくくろうとするシーンでは、滑稽な様子の三人とその行動がマッチせず、この上なく気持ち悪い印象をうける。
またこの作品は結末への伏線も絶妙である。三人より先に線路へ飛び込んだ人が、何故何事もなかったかのようにホームへ上がって来たのか、老人が飲んでしまったはずの「最後の一錠」が、何故まだ老人の懐にあったのか、突飛な行動に走る三人を目にして何故他の人は平然としているのか、記念撮影のシーンで真相が分かった時、それらのシーンがじわじわと蘇ってきた。
他にも、製作者が皆少年バットに殺されてしまう呪いのマロミアニメを扱った抱腹絶倒の回やそれに繋がってゆく噂好きな主婦の話、猪狩が落書きのようなガロ系のような過去の世界に飛ばされてしまうエピソードから少し危ないレーダーマンの活躍まで、一回一回ごとのクオリティーが非常に高いアニメである。少年バットの正体と「AKIRA」を思わせる破壊的なラストも、勿論見逃せない。
今敏の次回作として、筒井康隆原作の『パプリカ』がそろそろ公開される。これも非常に楽しみ。
