蚊母鳥園 -2ページ目

死のアルファベット~『ギャシュリークラムのちびっ子たち』

エドワード ゴーリー, Edward Gorey, 柴田 元幸
ギャシュリークラムのちびっ子たち―または遠出のあとで

そのタイトルは『ギャシュリークラムのちびっ子たち』。

黒尽くめの骸骨が大きな蝙蝠傘で26人の無表情な子供達を包んでいる。ここだけ見ても不吉な印象を受けるが、裏表紙を見るとそれはもっと強まる。裏に描かれているのは26人分の墓石。この本の中で、ちびっ子たちに何があったのだろう?


この本にストーリーはない。敢えてそれに当たるものを見出すのであれば、26組ある見開き2ページがそれぞれ一つの物語となろう。まず最初のページを読むと・・・


A is for AMY who fell down the stairs.


と書かれ、隣には階段から落ちる子どもの絵が描かれている。次は熊に襲われるBASIL、その次は窶れ果てたCLARAといった具合に、アルファベット26人分の子供達の死が延々と書かれてゆく。高校生の時に近所の本屋で見つけ、初めて立ち読みした時は、表紙からは想像もつかない内容にちょっとした衝撃を受けた(その後、それ以上の衝撃を「ウェスト・ウィング」という作品から受けたが・・・)。


ゴーリーの作品の中で最も有名であり、かつ最も恐ろしい絵本である。といっても、私はやはり、そこに残酷だとか可哀想だとかいった感情を起こすことは出来ない。ここまで無機的に、まるで人形でも壊すようにバタバタと死んでゆくと、却ってこういった感情をさしはさむ余地が出てこなくなるようだ。むしろ次はどんな死に様を見ることが出来るのか、そちらが気になって仕方がなくなる。

自分と同じ頭文字の子どもがどんな目に遭うか確認してみるのも、また一興かと思われる。絵の印象から言えば、KのKATEが斧で身体を割られて一番酷い死に方をしているように見える。多くの絵が子供達の死の直前を描いているのに対し、このKの絵は、子供が死んだ後の様を描いている。最後のジンを深酒したZILLAHはちょっと面白い。


ゴーリーの作品は一見非現実ながら、不条理なこの世の様相をよくよく描き出している。この絵本を解釈したり、メッセージ性を見出したりするのは野暮でつまらないことだが、不幸な死は大人子ども関係なく、どんな行いをしている人にも来る時は来るのだ、ということを本書を読んでみて改めて思ったりもしてみた。



●蛇足1:

訳者あとがきを見ると、ゴーリーの好きな画家はマティス、エルンスト、バルテュス(嫌いな画家はピカソ)。エルンストあたりはゴーリーの作品を見るとなんとなく納得できる(理由はないが、なんとなく)。

小説家はアガサ・クリスティ、フロベール、ディケンズ、そして何と紫式部。猫には源氏物語にちなんだ名前を付けていたらしいから、よっぽど好きだったのだろう。ディケンズに関しては、最近発売されたゴーリーの編著『憑かれた鏡』の中に「信号手」が収録されている。「信号手」は過去いくつものアンソロジーに収録されるほどの名作。顔の見えない幽霊というのが非常に怖い。

ディケンズ
憑かれた鏡 エドワード・ゴーリーが愛する12の怪談

●蛇足2;


丸尾 末広
新ナショナルキッド
この本に収録されている『金の手帳』という作品が、ギャシュリークラムに良く似ている。子どもの死の描写はこの作者らしく、グロテスク。河出からゴーリー本が刊行される以前、早川の「ミステリマガジン」1978年3月号でこの作品が紹介されたことがあるそうなので、丸尾末広がギャシュリークラムを知っていてもおかしくはない。

電車男

●電車男のスペシャルをみた。

あんな壮大なAAを手打ちで即座に作ることが出来る小栗旬は凄い。実写の工藤新一にも期待したい。

ゴーリーの絵本

Edward Gorey
Amphigorey Too

エドワード・ゴーリー作品を数点手に入れた。これから数回のブログで紹介していきたい。


ゴーリーはアメリカの絵本作家。自ら書いた作品のほかに、他の小説の挿絵も書いている。

日本で有名なのは、河出書房新社から出ているいくつかの絵本。柴田元幸氏の翻訳は秀逸との評判である。大きな本屋や特殊(?)な本屋へ行くと、ゴーリーの本は結構な頻度で置いてあるので、立ち読みするか購入して目にして頂くと、その作品世界がお分かり頂けることと思う。


ゴーリーの絵本はしばしば『大人の絵本』だと言われる(近所の本屋ではそう紹介されていた)。それは大人から見て、子どもにとっては過酷だと思える「死」や「寂寥」や「不幸」が描かれている為だ。

よくゴーリーの作品に拒絶反応を示す人がいるというが、そういう人はこの絵本たちが持つmacabreな雰囲気が駄目なのだろう。それはそれで作品を読んだ一つの結果であるし、誰からも文句を言われる筋合いはないが、私はこれらの絵本を読んでみてもさほど不気味には思わなかった。あまりにも救いのない物語はむしろブラックユーモアといった感じで、最後の方までページを捲っていくと笑みすらこぼれる。そして次の作品ではどんなに理不尽な不幸があることだろうか、とついつい期待してしまうのである。


今回購入したのは、「Amphigorey too」という作品集。ゴーリーが書いてきた20の作品(未訳作品含む)が収録されており、その値段日本円にしておよそ2000円。かなりお買い得な本である。洋書なので読むのに一苦労するということや、ペーパーバックなので本の質は絵本に劣るという欠点もあるが、多くの作品をまとめ読みしたいという人にはかなりお薦めの一冊である。「too」なのでその前作「Amphigorey」があり、さらに「Amphigorey too」の続編として、「Amphigorey also」と「Amphigorey again」がある。全部そろえたいものだ。


●「The Beastly Baby」

最初に載っていた作品。後味の悪さでは本書NO.1の作品だと思う。

不気味な姿、恐ろしい性格を持った赤ん坊が、或る日ピクニックに連れて行かれる。赤ん坊は切り立った崖の上に一人置かれるが、そこへ鷲が来て赤ん坊を連れ去ってしまう。ところが思ったよりも「それ」は運びづらく、鷲は赤ん坊を落としてしまう。これが赤ん坊の最期だった、という話。

鷲でさえ「he」なのに、赤ん坊は「it」と表現されている。まさに「it」と呼ばれた子である。ぶくぶく太っていて、両の手が左手で、姿の割りに鉤鼻で、と赤ん坊の醜悪な容姿が延々と語られてゆくが、ゴーリーの絵は不思議と愛らしい。


●「The Gilded Bat」

ゴーリーの描き込まれたペン画が素晴らしい一品。

一人のバレリーナの一生を綴った作品。少女Maudieは年を経るごとにその才能を発揮し、バレー界でその存在をどんどん大きなものにしてゆく。ところが、彼女の生活はいつまでたっても昔と変わらぬ、退屈で無味乾燥としたものだった。

美しく妖しげなバレリーナの姿と、普段の姿のギャップが著しい。バレー用語や固有名詞が沢山出てくるので分かりづらい作品だったが、派手な世界と対照的なMaudieの心の中の寂しさは、何となく分かる気がする。

唐突なラストがまた凄まじい。人生、何が起こるかわからないものである。


●「The Evil Garden」

不思議な庭に入った人たちが、動植物に襲われたり岩の下敷きになったりして、次々と死んでゆく。やがて夜になり生き残った人達は帰ろうとしたが、誰も庭園の外へ出ることが出来なかった。

この作品集の中で、個人的には一番惹かれた作品。ストーリーの面白さは他の作品には及ばないが、何処かくねくねしたような独特な雰囲気をもつイラストが好きである。描き込みが少なく、絵も白っぽいのが、却って不思議な空間になっている。

次はどんな恐ろしいものが来るのだろう、とわくわくしながらページを捲る自分がいる。


● 「The Pious Infant」

不気味といったらば、むしろ『敬虔な幼子』のような一見健全に見える作品の方が、何処かに何か隠されているに違いないと、読後不安になるのである。この本は上の「Amphigorey too」にも原文の英語で収録されているが、一応下の邦訳も薦めておくことにする。

エドワード ゴーリー, 柴田 元幸
敬虔な幼子

『敬虔な幼子』は、今時道徳の教科書にも出てこないような良い子ちゃんが、望みどおり神の下へ召されるという話である。絵本では、少年の敬虔ぶりがいくつかのイラストに描かれ、最期に「fatal illness」に罹って、天に召されるところまでが描かれているのだが、ラストのページには不穏な黒い気体が立ち込める中に、少年の真っ白な墓がぽつんと立っているという淋しげで不気味な絵が描かれている。昇天する天使のような少年ではなく、敢えて墓のイラストを描いたゴーリーには、何か考えがあったのだろうか?この不可解な結末は、いろいろな可能性を与えてくれる。たとえば、

「この世なんて所詮こんな暗いものだ。この子のように敬虔な毎日を送って神に召されよう!」

ともとれるし、

「こんな毎日送ったって、人は死ぬときには死んでしまうんだ。だったら好きに生きようぜ」

という意味にも取ることが出来る。おそらく正解なんてないだろう。一通りのメッセージが期待できる作品は分かりやすくて疲れないが、その分深みは失われる。ゴーリー作品は不可解で意味不明なものばかりだが、その分感じ方が無限に広がっていて奥深い。どっちが悪くどっちが良いなんてことは、この作品の意味と同じく、きっとないだろう。



気になるニュース

最近のニュースで気になるのはこれ


http://mytown.asahi.com/fukushima/news.php?k_id=07000000609180001


「2ちゃんねる」と書いてあるので、また何かやったのかと思いきや、これは良いことである。2ちゃんねらーと犬猿の仲である朝日新聞がこんな記事を取り上げるのも意外だが、この件とイデオロギーは関係ないし、また地方版だから2ちゃんねるとの関係はそれほど問題でないのかも知れない。とにかく、新聞で取り上げニュースで大々的に取り上げたのは、決して無駄ではない大きな功績だとおもう。


それにしてもこれは酷い。自分より力のある人間に「何度も頭から投げ下ろされ」た上、救急車も呼んでもらえず放置された女子生徒は、事件から3年経った今でも意識不明だという。親が知らせを受けて学校へ着いた時点で119番通報すらされていなかったというから、学校側の対応が問われる。
挙句の果てに、校長らによる学校側の隠蔽工作。事件後の学校側の対応が適切ならばまだ爪の先ほどの救いくらいはあったが、これはもう絶望的。両親はやりきれないだろう。少女の母親のコメントと偽った報告書には、被害者への侮辱とも取れかねないことが書き連ねてあった。
校長や教頭、そして加害者とその親はまだ謝罪に行っていないというから、怒りを通り越して呆れるというものだ。ニュースのインタビューも見たが、校長は記者の問いかけに笑っていた。教育者としての適正のみならず、人間性も疑われる。


兎に角、2ちゃんねらーの働きかけと朝日新聞の一連の報道が契機になり、この問題へ全国規模の関心が注がれるようになればこれ以上のことはない。というわけで、人気のない当ブログでも取り上げないよりはましだろうと考え、ちょっと書いてみた。
ニュースではないのでどうしても被害者よりの発言になってしまうが、この事件に興味を持たれた方は、下記リンクやネットニュースなどで事件のあらましを確認し、ご自身で判断して欲しい。そして何より、被害者の意識回復が望まれるのは言うまでもない。


一刻も早い被害者の回復と事件の真相解明を願う。



●参考サイト;

http://www.jca.apc.org/praca/takeda/number3/031018.htm

今回の事件について、年を追って詳しくまとめてある。





■麻原が死刑確定ということで、新聞でも再びオウム事件が注目されつつある。


http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200609/sha2006091603.html


或る偉人の言葉を借りるならば、麻原にはこの言葉を贈りたい。


「お前には地獄すら生温い」


私は刑のひとつとして死刑は賛成であるが、ここまで非道なことをやり尽くしてきた奴をいともあっさりと死刑にしてしまうのは、何か死という名の「救い」を与えているような気がして、結果としては少し後味が悪い感じもする。麻原が信者を脅す時に使った「地獄」というものがもしあるならば、麻原自身が真っ先に其処に落ちることだろうが、来世での幸福や苦しみを信じるなどということは、残念ながら出来ない。


今日の読売新聞の社会面に、「誰も犯罪集団だと見抜けなかった 学生次々入信 悔やむ学者」というタイトルの記事が載っていて、読んでみたら面白かった。

内容は、大学内におけるオウムの勧誘について。全ての怪しげな団体に共通することだが、こういったカルトは大学に入り込んで、学生を取り込もうとする。結構身近にあることなので、笑ってもいられない(近年はサークルや宗教以外の団体に化けて寄ってくることがあるので注意。知り合いもそれでやられた)。ある程度経験を積んだ社会人よりも、学生の方が洗脳しやすいのかも知れない。不思議なことに、カルトとは相反する位置にある科学知識を扱っているはずの、理系学部の学生の方が取り込まれやすいような印象を受ける(あくまで私の知識や経験から見た印象ではあるが)。そういえば右翼に刺された村井も大阪大学理学部だった。

確かに、日本には信教の自由があって、誰がどんなことを信じようと勝手だが、それは人に干渉しない程度にするべきだ。ところがオウム事件では、2度の毒ガステロと数多くの「ポア」によって、何人もの人が人生を変えられてしまった。ここまで来ると、信教の自由などという悠長なことは言っていられない。記事にも載っている桜井義秀教授の言葉を借りるならば、


「これだけの施設を作っていたのに、なぜ、自分も含めた国内の宗教学者は誰も、オウムを犯罪集団だと見抜けなかったのだろう」


ということである。大学側もそうしたことで、なかなかカルト対策に乗り出せなかったというが、少なくともオウムに関して言えばこの現状は変わってきたと思う(今はもう撤去されたが、私が今の大学に入試に行った時、『オウムに注意』のビラが学生課の窓口に積まれているのを目ざとくも見つけた)。だが、カルトにはまる学生は現実今でもいるのだから(例:韓国の強姦教団『摂理』)、啓蒙活動は十分でないと言える(自己責任といってしまえばそれまでだが)。

学者に限らず、あの時はテレビや雑誌もオウムを持て囃していて、誰もオウムが犯罪集団なんて気付かなかった。それどころか結果としてそれは教団の宣伝になった。「テレビに出てるんだから」「~先生が誉めているんだから」という理由でオウムに入信した人もいるかも知れない。メディアや発言力のある人が特定の宗教やカルト団体を取り上げ、持て囃すのは、それだけ危険なことなのである。



カルトは遠いところから眺めて楽しむもの。近づいたり、本気になったり、貴重な金をつぎ込んだりするものではない。オウム事件は日本人が忘れてはならない、一つの教訓としてこれからも語り継がれていかねばならない。






※今日は文章が上手くまとまらなかった。文章の前後が繋がらない箇所もあるかも知れないが、ご了承いただきたい。

字伏

藤田 和日郎
うしおととら (外伝)

絶版で手に入らない状態だったが、ようやくブックオフで見つけてゲットした。


藤田和日郎の漫画『うしおととら』の外伝。うしとらは妖怪が沢山出てくるので、妖怪好きにはたまらない作品である。

伝統妖怪の特徴は伝承や既存の研究書にのっとったものであり、個々の妖怪が少しの過不足もなく生き生きと描かれている。何より最近は描かれなくなった古典的な少年漫画の主人公(少年)と、一見凶悪そうな妖怪との関わりあいの中で次々に生まれる友情や悲しみといったものが、荒み果てたこの心に忘れかけていた何かを思い出させてくれた。

物語の軸となっている「白面の者」(一般には金毛九尾の狐として知られているあいつ)との戦いは、ラストで鳥肌が立つほど凄いものだったが、その過程で描かれる横道的な話(人間の子どもを育てるさとりの話や、列車を襲う山魚のエピソードetc)にも短篇として独立していてもおかしくないほどの名作があり、読み終えるたびに満足の意味でのため息をついていた。


本書に収められている各話で語られるのは、主に白面とうしおの戦いがある前の時代のものである(「プレゼント」は別)。うしおと出会う前のとらがどんなことをやっていたか、またその他の登場人物たちにどのような過去があるのかといったことが明らかとなる。明らかとなるといっても、この外伝も歴史のほんの一部分に過ぎないのだから、それ以上は作者にまた描いてもらうか、自分で想像するよりない。


●妖今昔物語

生まれてから一度も笑わないことから石姫と呼ばれる姫は、その美しさからはぐれ陰陽師・斯波朽目に狙われる羽目に。笑わない姫の悲しみを知り、命に代えても姫を守ることを決意した随身・井上無明は、古寺に住むという恐ろしい妖怪を利用して朽目を倒そうとする。

人間とは相容れぬ、とらの妖怪らしい一面が描かれた作品である。物語の主人公は石姫と無明なので、外伝とはいうものの、とらが出る他は殆ど正編から独立した話と言っても差し支えない。


●桃影抄~符咒師・鏢

正編において、鏢のエピソードが最も哀しいものだった。妻子を妖怪に殺され、自身も右目を失うこととなった中国人・鏢は、妻子の敵を討つために復讐の鬼と化す。漫画の中でも普段はクールで端正な顔の鏢が、ひとたび妖怪を見るや、人とは思えぬものすさまじい顔になっていたのが印象的であった。

外伝では鏢の修行時代が描かれる。妖怪の襲撃にあった直後の鏢が桃源郷へと迷い込み、仙人から符呪の手ほどきを受ける。そのまま桃源郷で暮らす道を選べば幸せな生活を送ることが出来たが、鏢はあえて復讐の道を選んだ。師匠である仙人の、「死んだ者はよろこばんよ」という忠告に対し鏢が返した言葉が心を打つ。


「死んだ者のためだかわからない!…でも!わたしはこれだけのために生きているんです!これをやめてしまったら、何もない。もう…何もないんですよう!」


なんて説得力のある言葉だろう。死んだ者のためではなく、自分にけじめをつけるために鏢は復讐を目指して旅立つのだ。二時間サスペンスや普通の少年漫画ならばここで復讐をあきらめるところだが、そんなことで止めてしまうような復讐は本当の復讐とは呼べないのかも知れない。それが正しいかどうかは別として、綺麗ごとの入り込む余地が全くなかった鏢の生き様は、『うしおととら』の中で最も強く心に刻まれた。



●里に降る雨

主人公・蒼月潮の父・紫暮と母・ 須磨子の結婚前のエピソード。別名のろけ話。

ひょうきんでギャグチックに描かれることの多い紫暮が、かつては荒っぽい性格だったことが覗える。


●雷の舞

ところどころで歴史上の場面が描かれながらも、史実の人物が滅多に現れない『うしおととら』では異例の作品。木曽義仲の愛妾であり、戦でも共に戦ったという女性・ 巴御前がとらと出会う話。そういえば何巻だったか、巴御前の名前が出てきたような記憶がある。

尼さんに化けていたとらが変装を解く場面は、最初とらが尼さんを切り裂いたと思って驚いた。でも良く見たら違った。この時のとらの台詞が最期まで「妖怪」を貫いたとららしくて好きである。偽とらの背後に描き込まれた妖怪達にも注目。どっかで見たことある奴が一匹二匹・・・


●プレゼント

うしおが獣の槍を持っていて、かつとらがまだいることから、時代は白面との戦いの頃だと言える。

サンタクロースの来ない妹のために幼い兄がサンタクロースとなる。さらにその兄のために潮がサンタとなる。ほのぼのとしていて、落ち着いて読める作品。


●永夜黎明

とらを獣の槍で縫い付けた、蒼月家の先祖が主人公となる。獣の槍の使い手だからさぞかし強いだろうと思いきや…

共に戦う草太郎ととらは、後の「うしおととら」の関係を思わせる。とらがいとも簡単に封印されてしまった理由は、正編の後半になって語られるが、ここではそれを匂わせる描写が一切ない。

最終話を読んでからこの話のラストを読むと、何か感慨深いものがある。



名作『うしおととら』は少しの冗長やページ不足もなく大団円を迎えたが、最近あるアニメのことを知った。

エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ
妖逆門 巻之一

ポケモンちっくなアニメだが、この作品に「うしとら」の妖怪が多数登場する。

とらのライバルだった一鬼を始めとして、鎌鼬兄妹やイズナなどが出てくる。原案協力が藤田さんらしい。これはとらや白面が出る日が来るかも。

皿鉢小鉢てんりしんり

内田 百けん
冥途―内田百けん集成〈3〉 ちくま文庫

戦争ドラマ、このブログでやるといっておきながら、見るのを忘れてしまった。

あーあ・・・




●というわけで、近頃百鬼園先生の『冥途』を読んでいる。夜寝る前に、一夜に一話くらいずつ。

夏目漱石のお弟子だった内田百閒。師に『夢十夜』というとても奇妙な作品があるが、この『冥途』のスタイルは『夢十夜』に良く似ている。

本書に収録されているそれぞれの短い作品群を読むと、まるで夢を彷徨っているかのような気分になる。不思議なことや奇妙なシチュエーションが何の前触れもなく起こり、しかも語り手も当惑しながらもそれを受け止めているらしい。或る時は山東京伝の弟子になったり、また或る時は人面牛身の怪物になって、知り合い親戚から理不尽に畏れられたり、変な名前を付けられて変な人達と変なことをする羽目になったり・・・これを一度に読むのはあまりにきつすぎるので、私は少しずつ読むことにしている。後の『東京日記』に比べるとあくが強く、また僅かに荒い気がするが、それらはこの作品の一つの味であろう。

内田 百間
サラサーテの盤―内田百〓集成〈4〉

中でも私が好きな作品は、『尽頭子』という話。今日の記事のタイトルは、作中に出てくる「何のことだか解らない」言葉である。

ひょんなことから「尽頭子」という奇妙な号を付けられ、馬にお灸をすえるのを仕事にしている人の弟子になってしまうという話である。何が何だか分からないまま読んでいくと、理不尽な目に遭っている私の様子が淡淡と描かれており、そのうえ若干ユーモアも込められていて怖くない話だと思ったら、最後の一文がそうならなかった。街角でのっぺらぼうに出くわしたかの如く驚き、その直後背筋がすぅーと寒くなっていくのを感じた。あの最後は「私」の馬に対する恐れが具現化したものだろうか。

また、冒頭で「女」が狐らしさを漂わせていたのも見過ごすことは出来ない。それから女が発した「皿鉢小鉢てんりしんり」という言葉。こういうちょっとした描写が、何となく怖いナアという感じを醸し出す。鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を観た時に一番感心したのはストーリーではなく、むしろこのちょっとした描写を巧みに再現しているところだった。

話は変わるが、この『尽頭子』にまつわる後日譚がある。『日本怪奇小説傑作集1』で本作を読み終えた夜、顔が馬の女が出てくる夢を見たのである。どんな状況だったのかはもう忘れてしまったが、馬の顔をした女が現れひどく驚いたことだけは覚えている。寝る直前に読んだ本作があまりに印象深かった為であろう。


百閒の小説を読んでいると、説明できないが何か気持ち悪いなあ、と思うことがある。怪談やホラーの傑作とは、読者にこの感情を抱かせるものではないだろうか。








願わくば、高価でも良いから『冥途』や『東京日記』の旧かなのテキストが刊行されんことを。「もういいよ」と逝ってしまわれた冥途の百鬼園も望むところだろう。

女流怪談

倉阪鬼一郎・南條竹則・西崎憲 編訳
淑やかな悪夢

戦前から終戦直後の古典的な作品で固めた怪奇小説アンソロジーばかり読んでいると、女性作家の書いた作品というものになかなか当たらない。東京創元社の「怪奇小説傑作集(世界・日本)」などを読んでみても、大抵は男性作家である。これはおそらく、怪談を書く女性作家が少なかったか、或いは女性作家自体が相対的に少なかったかだろう。海外の事情はよく分からないが、少なくとも日本ではそうである。単に選ばれていないだけかも知れない。

しかしながら、ひとたびアンソロジーに加わった時、その作品は男性作家が書くものに負けない妖しい輝きを見せることがある。それがどのようなものであるかは、個々の作品をひとつひとつ見なければ指摘することは出来ないので、お手元の怪奇小説アンソロジーを一冊読んでみることをお薦めする。ハイスミスの作品などはその好例で、私の好きな作家の一人である。

怪談小説の怖さに性別は関係ないのだから、たまには男性を排除して女流作家でまとめたものがあっても面白い。編者がそう考えたのかどうかは知らないが、とにかくそういった本が出た。それが本書『淑やかな悪夢』である。

目次を見ると、見事に女性作家で埋められていることが分かる。どれも私は読んだことのない作品なので、一冊まるまる新鮮な心持ちで恐怖を味わうことが出来る。


●収録作品
シンシア・アスキス「追われる女」
メアリ・E・ウィルキンズ-フリーマン「空地」
アメリア・B・エドワーズ「告解室にて」
シャーロット・パーキンズ・ギルマン「黄色い壁紙
パメラ・ハンスフォード・ジョンソン「名誉の幽霊」
メイ・シンクレア「証拠の性質」
ディルク夫人「蛇岩」
メアリ・E・ブラッドン「冷たい抱擁」
E&H・ヘロン「荒地道の事件」
マージョリー・ボウエン「故障」
キャサリン・マンスフィールド「郊外の妖精物語」
リデル夫人「宿無しサンディ」


本書の目玉はなんと言っても、シャーロット・パーキンズ・ギルマンの『黄色い壁紙』だろう。

本の裏にある内容紹介を見ると、「書かれるべきではなかった、読む者の正気を失わせる小説」などと、近頃のくだらないホラー映画が宣伝で用いるような、大げさな煽り文句が付されている。「そんなまさか(笑)」と思いつつも気になるので、まず最初にこの作品を読んでみた。


怖い


ヘンリー・ジェイムズやデ・ラ・メアのような、敢えて怪異の正体がぼかされた文章。かといって全くそれが不明であるとも言えず、後半からはかなり不気味な描写が登場する。とりわけ、昼間に外を這いずり回る女(しかも複数いるらしい)の描写は、「リング」や「まだらの少女」以前にこんな完成されたものがあったのか、と恐怖とともに驚きも感じた。

主人公は精神を病んでいる女性で、夫とともにある屋敷に移り住む。女性に当てられたのは、子供部屋として使われていた黄色い壁紙の部屋だったが、夜な夜なその壁紙に女性は奇妙なものを見る。やがて彼女は「楽しみを見つけた」と言って壁紙を監視するようになる。そして怪異は昼間になって、もっと恐ろしい形で現れるようになっていく。それが上記の這いずり回る女というわけだ。

不気味な模様の壁紙から出てくる這う女の幽霊は、主人公の精神の表れであるとも見えるし、独立した別のものであるとも取れるが、亀裂の入った主人公と夫との関係が、最後一番最悪な形で完全に分断される。ラストの文章にそれは表れている。主人公を襲った悲劇の間接的な描写が非常に上手い。結局この部屋で何が起こったのだろう、とあれこれ想像してしまう。

読んだ直後はそれほどに感じなかった。読み終えたという満足感の方が大きく、其処から恐怖を引き出せないでいた。ところが夜中になって家の暗がりを見ていたら、先頃読んだ『黄色い壁紙』を思い出してぞぞっとした。こうなると、帯に転載された本篇の一部分を読んだだけで怖い。そして私もこう思った。、「書かれるべきではなかった、読む者の正気を失わせる小説」と。


その後、本書を最初から読み始めた。

アスキスの『追われる女』は、怪談に慣れ親しんだ日本人には馴染み深い「例のオチ」で締めくくられる作品。

最初に登場する医者の異様なマスクで結末が分かってしまうのが上手でないが、ストーカーの恐怖を先取りしていて興味深い作品である。女性が追い詰められてゆく過程がスリリング、且つストーカー男の出る場面がところどころ絶妙に挿入されており、上記の点を含めても読み応えのある作品である。

メアリ・E・ウィルキンズ-フリーマンの空地』は、オーソドックスな幽霊屋敷物語だが、恐怖に慌てふためく家族の様子がただ怖いというだけでなく、何処か微笑ましい物語である。実際こんなことが起こったら笑い事では済まないけれど・・・。

それにしても、黒衣の幽霊というのが気持ち悪くていい味を出している。

『黄色い壁紙』に参ってしまったら、次の『名誉の幽霊』『証拠の性質』が良い解毒剤となってくれる。どちらの幽霊も人間味があって好感が持てる。にくい相手に対してむきになって嫌がらせをするが、決して命は取らない(「名誉の幽霊」の方は微妙なところだけど・・・)。



あと数篇読んだが、まだ四分の三ほどで全て読んでいない。今後面白い作品があったら、また改めて取り上げたい。



■本書を取り上げている記事;


月灯茶会別館  「淑やかな悪夢 (シンシア・アスキス 他)

『淑やかな悪夢』英米女流怪談集





最近の中では一番ヒット

皆川 博子
ゆめこ縮緬

皆川博子『ゆめこ縮緬』が非常に面白い。


『ゆめこ縮緬』は8篇の短篇からなる作品集。文章の中の雰囲気からも大体察しがつくが、裏に書かれている紹介文を読むと、大正から昭和初期を舞台にしている。八篇は連作ではなく、それぞれ独立した作品だが、舞台や登場人物の職業など若干重なったり、似たような人物が登場したりと、読んでいて妙なデジャブを感じることがある(その理由は後々説明する)。

多くの作品は子供の視点から(少女視点の作品の方が成功しているように私には思える)、大正昭和の風景や大人たちの不可解で理不尽な行動が綴られてゆく。この現実的な部分が実際に書かれている内容の多くを占め、それに幻想的なエッセンスが程よく効いているというスタイルであり、一見現実の世界を生きている登場人物が知らず知らずのうちに幻想の霧に包まれてゆくところがどぎつくなくて、私には心地よい。

全体を通して思ったのが、その文体が独特であること。泡のようにはじめはポツリポツリと出てきて、最後にそれらがくっついて一つとなってゆく。中々状況が掴めず最初は苦労したが、慣れてくると案外楽に読むことが出来る。

言葉選びも秀逸で、何一つ腐ったところがない。醜悪なものに陥りがちな(とくに最近の小説はその傾向が強い)官能的な部分の描写も、一つ一つの言葉選びに非常に細やかな配慮が成されており、象徴的なのが却って美しく妖しく感じる。幻想文学はストーリーに加えて、本来ならばとりわけ文体と言葉に最大限気を配らねばならないが、その意味でこの作品集は日本幻想文学の最高の場所に位置するものだと思う。

もう一つ、個人的に興味深いのが、一部の作品で用いられる象徴詩の引用である。引用と言うとあまりに無機的で的確ではないかも知れないが、要するに作中人物に西條八十の詩を吟じさせるということである。『桔梗闇』という作品の中に「濃緑色の洋皮の小さい本」と出てきて、私はすぐに西條の『砂金』のことだと思ったら、案の定そうだった。この文章のあと、すぐに作中の女が『悲しき唄』を詠んでいる。何処となく哀しげで気味悪く、作品の結末を暗示させるような詩である。『砂金』は皆川博子の描写したのと同じ初版のデザインの復刻版が出ているので、『悲しき唄』ほか引用の詩を読んでみたいという方に薦めておく。例の『トミノの地獄』も下の本に収録されている。

西条 八十
砂金

※以下、若干のネタバレを含みます。本書を未読の方は覚悟してお進み下さい。

また下の文章を読むと分かりますが、本書は飛ばし読み・拾い読みをせず、最初のページから順番に読み進まれることをお薦めします。




-----------------------以下作品解説------------------------






●『文月の使者』

「黒髪・・・」と書かれた奇妙な枕を拾った青年が、老人と女だけで営んでいる煙草屋へと導かれ、黒髪の妖怪のことや入院している友人のことを語ってゆく。やがて自身の過去が明らかとなり、その上話に出てきた妖怪が現れたりして、この世とあの世の境界が曖昧と化してゆく。

黒髪の絡みついた枕や「指は、あげましたよ」という何者かの言葉が意味深で、興味をそそる。枕に書かれていた文字が、青年には「とけた黒髪 水面を走る」と読めたのに、老人には「とけた黒髪・・・・・・を喰らう」と見えてしまう曖昧さが何処となく怖い。

後半、煙草屋の女房と黒髪の妖怪が青年を巡って喧嘩をするところが笑いを誘う。うろたえる青年を目の前にして殺し合い(?)寸前までに女の戦いはエスカレートするが、傍観者の老人がそれをクールに鎮めてしまうのが格好良い。


●『影つづれ』

玉藻前の話を元にした作品。主人公の過去が、いつの間にか玉藻前の話と重なってゆく。

この手の話は、普通人間側の立場で語られることが多いが、本作では追い詰められて殺生石と化した玉藻の心が描写される。


●『桔梗闇』

少年は父の妾の女を、いつかみた見世物小屋の綱渡り芸人だと思うようになる。

厳しくしつけられ、何もかもを禁止された少年と、妾ということで家の者や先妻の兄弟から冷たい眼で見られる女の現実は、決して恵まれているものではないが、西条八十の詩に象徴される二人だけの時間が幻想的で、唯一の楽園に見える。二人の関係は義理の親子というより姉弟で、「姉の死骸に・・・」「弟の死骸に・・・」という詩が効いている。


●『花溶け』

病身の女は、隣に越してきた露西亜人の女が弾くバイオリンの音色に思いを馳せる。思いはやがて部屋を抜け出し、現実世界で起こした女自身の恐ろしい行動を、静かに見つめることとなる。

ラストでの惨劇と、日露二人の女の静かな夜の光景が対照的。音もなく、漫画のコマのようにぱっぱと進んで閉幕。



●『玉虫抄』

時代を越える玉虫と聞いて、作者の死によって構想のみに留まることとなった澁澤龍彦の『玉蟲三郎物語』を思い浮かべてしまった。完成していたらどうなっていたのだろう。

余談はさておき、本作ではその題の通り、玉虫が一つの象徴となっている。時空が行ったり来たりするので、最初はその関連性に戸惑うが、次第次第に二つの時空が玉虫と井戸を介して一つに繋がってゆく。

この物語では、家族の絆の暗黒面が描かれている。主人公の医者は、金持ちの養子になる代わりに親兄弟との血縁を断ち切った男であり、妻や子どもを自分と繋がりのある人間としてみることが出来ない。更に医者の妾である踊りの家元も、彼との間に生まれた自分の娘に愛着を持てない。人間に先天的に備わったものと取られがちな絆というもののあやふやさが、医者やその妾、さらに二人を取り巻く人人とのやり取りのなかで明るみになってゆく。

作中人物によると人間の指が玉虫となるそうだが、それを真に受けた持ち主によって切断された勝男の指は、本の最初に返って『文月の使者』での魔物の指を想起させる。

エロティズムな予感を見せるラストシーンが印象的。四つの棟に囲まれた庭というのが何かいいなあ。


●『胡蝶塚』

陸軍士官の男が、昔自分を世話してくれた乳母の娘とそっくりな少女に出会う。回想する男は少女とともに、かつて乳母の家族が住んでいた、胡蝶花(シャガ)が茂る家屋の跡へと足を運ぶ。

男は自らを死人と称す。幼年学校を出た自分は「もうひとりのぼく」であり、魂は墓であるこの家にあると言う。それゆえ、軍人の息子という男の息が詰まりそうな生活の中で、シャガの根っこが血管のように張り巡らされた家屋が楽園のように見える。年月を経て潰れた廃屋は、秋成の『浅茅が宿』にも似た廃墟の美しさを感じさせる。吸血鬼小説の変種のようにも思える。


●『青火童女』

いつか登場した中洲の病院が出てくる。「兄さん、兄さん」といって病室の鉄格子から指を出す女は、かの『ドグラ・マグラ』の呉モヨ子を思い出す。

時間がループする面白い構造の一篇である。人形だけが体内を流れる血液のように、挿絵画家と軍人の妻との間の時空を行ったり来たり・・・



●『ゆめこ縮緬』

幼い頃、弟のヘルニヤを理由に蛇屋を営んでいる蛇屋へ預けられた少女が、幼き日から現在までの出来事を回想してゆくという話。またもや西條八十の詩が挿入され、不吉なイメージを与える。ちなみにここに出ている詩も『砂金』に載っている。

極めつけはラスト。これも作中作の一種なのだろうか。回想を現在まで巡らせた少女は、その思い出を叔母の家の焚き火にくべて焼き、自ら消滅してしまう。しかし、消滅するのは彼女の思い出だけではなかった。


いつごろからか書きためた<お話>だと、他人に告げるのは気恥ずかしい。中洲を舞台にした話もあり、そうでないものもあった。

(P262)


この一文によって、私が感じていたデジャブ感の謎が解けた。つまり今まで読んできた八篇の物語は、皆この少女のノートに書きためた<お話>だったのである。似たような登場人物や、中洲に立つ病院が頻繁に登場するのも、おそらくは少女の経験が反映されているからだろう。

少女は自らの作品を焼き、また過去と現在を焼いてしまう。ここまで読んできた読者は、後ろを炎に包まれて現実世界に帰ることが出来なくなるのである。このラストには久々に「やられた!」と思った。



この本は本気でお薦めする。みつけたら是非読んでみて欲しい。


開いたろう

ジェネオン エンタテインメント
乱歩地獄 デラックス版

とうとう見た『乱歩地獄』。


乱歩原作の映像作品は昔から数多作られているが、多くは明智小五郎の出てくる長編である。それはそれで面白いが、多くの乱歩ファンの認める怪奇幻想味のある短篇群が映像化されていないのは寂しい(いや、されているにはされているのか)。その理由の一つは、やはり「今日の人権意識に照らして・・・」ということだろうが。

『芋虫』『白昼夢』『お勢登場』『火星の運河』『踊る一寸法師』『蟲』『鏡地獄』・・・などなど、あの少年探偵団の世界が嘘のように思えてしまう妖しげな世界。乱歩の有名な『夜の夢』が最も強く反映されている作品群。これが映像化されたらどんなに素晴らしいだろうか。とりわけ『芋虫』は映像化不可能と言われてきただけに、こちらの期待もより大きなものとなっていた。

そして『乱歩地獄』が出た。本作は、今までの乱歩もののような明智探偵主体の話ではなく(本作『鏡地獄』に登場するが)、まさに私が望んだそっち系の話ばかりで構成された短篇映画だった。収録作は『火星の運河』『鏡地獄』『芋虫』『蟲』、となっている。やったー、『芋虫』が入っているではないか!!


●『火星の運河』

原作があんな感じだから仕方がないが、よく分からない作品だった。

夢のイメージを取りとめもなく繋げた感じ。裸の男女がもつれあったり、クレーターのような水溜りのある緑色の大地の上に裸で立ったり、音の無い状態でそのような映像が繰り返される。


●『鏡地獄』

原作と異なるのは、明智小五郎が登場するところであろう。明智役は長髪の浅野忠信で、鏡に取り憑かれた主人公は成宮寛貴が演じている。それっぽい配役も本作の見所の一つである。

明智を登場させたばかりに殺人の方へ注意が行ってしまい、最も重要な場面である主人公発狂シーンが軽く流されていたような印象を受けた。あのシーンをどんな風に描くのか楽しみだっただけに、少し残念である。


●『芋虫』

戦争を扱った作品なので、背景は時代に合わせたものかと思いきや、現代チックだったのでそれが意外だった。それ故「須永中尉」や「軍神」「戦争」といった単語が飛び出すが、最初はあまりピンと来ず、ラストを見て納得した。

作品を書いた当時、左翼に賞賛され当局からは後に発禁命令を受けたといういわくつき短篇。戦争で手足を失い目以外の感覚を奪われた軍人と、その妻との日常を描いた小説である。話の性質上、戦争や金鵄勲章を非難する内容となってしまい、それが先述の事態を招いたようだが、乱歩がこの作品で描きたかったのは「苦痛と快楽」だった。

映画では、この「苦痛と快楽」の部分がより強く描かれている。その分グロテスクさが増しているが、これはこれで良いと思う。須永中尉の役を大森南朋がやっているが、あのメイクを見るとどうしても大駱駝鑑を思い出してしまう。あと松田龍平が母屋の平井太郎役で出ている。


●『蟲』

この四篇の中で一番の傑作だと思う。

ここでいう「蟲」とは昆虫のような大きなものではなく、死体を腐敗させる微生物のようなものを指す。片思いの女優に嘲笑されたことがきっかけで、男は女を殺害してしまう。美しい女優の死体を保つために、男は防腐剤やら絵の具やらを買ってきて処理を行うが、死体は日を経るごとに「蟲」のために腐ってゆく。

昭和チックな町並みの中にも関わらず携帯電話が出てきたりするので、時はおそらく現代だろう。男を浅野忠信、女を緒川たまきが演じているが、二人ともはまり役である。

本作を見ていて、この作品は蟲による死体の腐敗というよりも、女の死体を着せ替え人形のように玩ぶ人形愛に重点を置いた物語なのだと思った。ただし人形のように不変の美しさを保つことが出来ないところが可笑しさを誘う。その度に男はうろたえ、死体に新たな処理を施すのである。それとは逆に死体を前にして男が「何だっけなー」などの独り言を呟く緊張感のなさが、異空間的でシュールさをかもし出している。

大笑いしたのが後半。浅野忠信がパンツ一丁で商店街のど真ん中に立ち、道行く人間一人一人に「すいませんでした!」「すいませんでした!」と謝る場面である。まさか乱歩原作の映画でこんなに笑わせてもらうとは思わなかった。これが見られただけでも今回は大きな収穫であった。


だらだら

●ふと耳を澄ますと蝉の声もまばらになり、夏も終わりが来たことに気付く。

今年の夏はやらねばならないことがあり、夏を感じている心の余裕がなかった。今それを終えてみればもう後の祭りで、夏は秋に変わろうとしている。秋も夏同様、恙無く過ごせたら、というのがささやかで贅沢な願いである。秋は読書の秋でもあるので、また本を読んでブログを更新していきたい。あと出来れば小説の更新も・・・


で、今読んでいるのがブルトンの『黒いユーモア選集』。

『シュールレアリスム宣言』でも感じた、ブルトンの小難しい、回りくどい表現に翻弄されつつも、まだ救いがあるのは本書がアンソロジーだからである。ポオやスウィフト、ルイス・キャロルを始め、アレやカリントンなどの知る人ぞ知る作家の作も収録されている。アレはいかにも「黒いユーモア」といった感じで、本書の中では最もタイプの作家である。人によってはやりすぎ、と思うかも知れない。調べてみると、邦訳作品集も出ている模様。

アルフォンス アレー, 山田 稔
悪戯の愉しみ

読みたい本がなくなった時にでも読んでみたい。



●九月は面白そうな本が二冊。


■吉屋 信子, 東 雅夫
吉屋信子集―生霊

まずはちくま文庫の文豪怪談シリーズ。まさか川端、鴎外ときて吉屋信子が用意されているとは思わなかった。

吉屋信子は童話をちょっと読んだだけなので、これを機にじっくりと読んでみたい。


■岡本 綺堂
鎧櫃の血 新装版

それから、我らが岡本綺堂の作品集『鎧櫃の血』。怪談集というよりは巷談集なのか。

「魚妖」という作品が入っているのは本書です。