アジア読書 -2ページ目

歌舞伎町案内人II 

李 小牧
歌舞伎町案内人 II
なんかいっぱい出してるなと思ったら、本体の「歌舞伎町案内人」はこれが2冊目らしい。今回は「中の人」がアサヒ芸能系っぽいノリなので、読みやすいといえば、読みやすいのだが、そろそろエログロナンセンスの歌舞伎町ネタも飽きてきた。この人は「日本人の残酷さを象徴するもの」としてあちらでは過大評価されている「ヤクザ」と渡り合って(とされている)生きている中国人として、中華世界の英雄なのだが、香港大学の教授が来て、講演を依頼するなんて展開には笑ってしまった。100年くらいしたら、20世紀末の在日中国人の記録とかいって研究資料にされたりするのかもしれないんだけど、英字紙以外は皆「東スポ」の香港ではアサヒ芸能の権威なんか確かめようもない。ただ、結果として「歌舞伎町案内人」が歌舞伎町を離れるこの章が一番面白くて、香港やシンセンでも「研究」として風俗調査を怠らないのは評価できる(趣味と実益を兼ねてであった様だが)。それにしても香港風俗伝説の「日本妹」については吉田一郎氏の先行研究などもあるが、案の定、存在の確認には至ってない。最近では大陸の「東スポ」でも「日本妹」ネタは大人気なのだが、日本のフーゾクでも「チャイナドレスプレイ」とかあるだろうし、なんちゃってパリジェンヌの東欧南米美女も多いから、まあそれはそれで目くじらたてる程のこともなかろう。しかし、シンセンの売春実態は凄まじいものがある。中国人が事の真偽を確かめられないのと同様、私もこの辺の事情は察するしか外ないのだが(中には詳しい諸兄もおられよう)、日本の暗黒社会の地獄の沙汰を聴けると思った香港大の聴衆は、歌舞伎町礼賛し、中国風俗の後進性を指摘する著者の話にさぞかし驚いたことであろう。その意味で本音に近い話をする事自体、中国人的ではないのだが、あとがきで善人じゃないとハッキリ断っているのもその辺と関連があるのだろう。日本で作家といってもピンキリで、善人でないことは決してマイナスイメージではなく、むしろ作家たる者、破滅型が理想とされている面もあるのだが、中国における「作家」の役割はまた違うものである。この点を著者が意識しているのかどうかは知らぬが、中文版の「中の人」はまた違う人なのだろうか。

韓国のなかのトンデモ日本人 

野平 俊水, 大北 章二
韓国のなかのトンデモ日本人―日本では絶対に見られない、韓国ドラマ・映画・AVの世界
「韓国タブー」が健在であった頃からコツコツと仕事を続けてきた水野先生の本は本当に面白い。「嫌韓流」の1年以上前に出た本だが、嫌韓流みたいにわざわざ韓国人の土俵で相撲をとる様なことはせず、ひたすら韓国のトンデモぶりを「知識」として獲得することに主眼を置いたかなり興味深い一書。水野先生も野平先生の時は自由になるのか、ドラマ、映画に加えAVまで詳細な解説を施しているので感服してしまう。小説、歴史書に続く韓国のトンデモ日本研究ライフワークの一環なのだが、韓国がどんどん「普通の国」になってしまうことにある種の寂しさを感じるくらいののめり込みだ。こうした「変なニッポン」は世界中に存在しているのだが、自国の優位性を誇示する為の舞台装置としての日本というのは、韓国の大きな特徴であろう。愛国心や民族的感情を全面出す自己陶酔には象徴としての「敵」や「慈悲」が必要なのだが、前者は日本(男)、後者は日本(女)というのは何とも単純で分かりやすい。韓国人が一番喜びそうなストーリーは、「日帝」気質丸出しの日本男に虐げられている日本女が、優しい韓国男に助けられ、「真の歴史」を知らされる。祖先の過ちを恥じた日本女は韓国に帰依するといったところであろう。こうしたストーリーを基礎にしてトンデモ日本が濫造されていく訳だが、これは前回の中国版「都合の良い日本」と通じるものはある。ただそれも、韓国は民間市場ニーズによって、中国は国家宣伝ニーズという違いがあって、やはり楽しめるのは前者の方であることは事実。まあ中韓にとっては東夷である日本に敬意を表す必要性など感じない訳だし、ノムヒョンなんかその典型だけどポピュリズムにも流用可能とすれば、オナペットとしての日本にもまだまだ価値があるといえよう。ただ、これだけ日本を訪れたり、住んでみたりする韓国人が増えてくると、韓国用日本でない日本を発見したりする人たちが続出してしまうという危機も抱えている。そうした韓国人の矛盾がどこに向かうかは、今後注目すべき点であろう。

中国で成功した残留孤児たち 

湘湘, 段 躍中, 横堀 幸絵
中国で成功した残留孤児たち―日中二カ国語版
いやあ、期待を裏切らない典型的な中共プロパガンダ本だった。この日本僑報社というのは実質中共青傘下なんだけど、中共青も『氷点』の件でゴタゴタがあったりしたから、得点を稼いどく必要があったのだろうか。それにしても、未だにこんな糞本で日本を懐柔できると思ってんだから、中国もオメデタイもんだ。正直言って、こんな精神勝利法に酔ってる連中には違和感しか感じないが、糞青の連中の方がまだ親しみを感じる余地はある。「残虐な侵略者の日本人の子を分け隔てなく育てた中国人の懐の大きさ」という一のものを百に拡大した「中華民族の道徳的優位」を表す詭弁はもうすでにボロが出てんだから、中帰連とか日中友好協会のじいさん連中がこの世を去る前に終わりにしといた方がいいんじゃなかろうか。その意味では、この本に出てくる話は皆古典的なもので、残虐な日本軍が降伏(勝者は八路軍エッ?)→日本軍人や日本人男の手で日本人女子どもが殺される→奇跡的にこどもが助かり置き去りにされる→人類愛に溢れた中国人が助ける→愛情いっぱいに分け隔てなく育てられる→中華民族として誇りをもった愛国心溢れた人間に育つ→国交回復しても帰国しなかったり、帰国しても再度中国に戻り、中華民族として祖国に尽くす→歴史を歪曲する日本を非難する。こうした模範ストーリーが踏襲され、当然、文革とか反日感情で辛酸を舐めた話は出てこない。おまけに「モンゴル族」とか「ウイグル族」まで登場させ「中華民族大万歳大会」になり、皆入党できたことが至福なことになっている。おそらく満洲國もこうしたプロパガンダ・ストーリーを宣伝して「五族協和」とか格好つけていたんだろう。果たしてそんな模範的な「残留孤児」がどれだけいるんだろうか。中国においては、こどもがさらわれる事件は今でも頻発しているが、あの時代背景を正確に理解すれば、こうした「幸福」な運命を辿った「残留孤児」は極一部と考えるのが妥当であろう。中国人の懐が大きかったのか、別の懐勘定が働いたのかは曖昧にされ、「歴史認識」の名の下、公式の歴史のみが語ることを許される。「真実」は義父母に対する孝順という儒教と中共の言論統制の下に隠ぺいされる。少なくとも文革の時、無傷な残留孤児は皆無の筈だ。こうして中国人は日本人に対して道徳的優越を感じることができるのである。その功績は中国共産党ということで、ああメデタシ、メデタシ。

物乞う仏陀 

石井 光太
物乞う仏陀
去年、通の間で話題になった本だけど、なるほどこれは興味深い出来である。「アジア」における所謂、乞食や障害者(障がい者という書き方はしない)については「アジア的包容力」の前に「なかったもの」とされてしまうことが多いのだが、これほど、このテーマに正面から向き合った書き手が過去にいただろうか。昔「アジアに学ぶ社会福祉」とかいう本を読んだことがあるが、見せられたポチョムキンだけを以て、全てを総括してしまう「初めに結論ありき」の恐ろしさを感じたものだ。その点、こうした本が世に出ることは、その実「優越感」の裏返しである「自己卑下」や「無条件礼賛」が蔓延る「アジア本」の世界のバランスをとるものとして評価されよう。ここに書かれている内容がどれだけ真実なのか判断できる知識も経験も私にはないのだが、それが真実であると想起できる様な見聞はしてきた。ただ、それが旅行者間の「噂」であることに安住し、現地の人にとっての「常識」であることを確認する勇気はない。自分が決定的に別世界の人間であることを見せつけられてしまうのは堪え難いものである。著者が明かす障害者とのセックス描写はそうしたことを象徴するものだが、これもまたかつては「書いてはいけないもの」であったろうし、「障がい者」の立場をとる人にとっては現在でもタブーの領域であろう。この描写をどう評価するかが評価の分かれ目となる。あえて別の箇所に批判を加えるとしたら、やはりミャンマーの挿話がひとつだけ異質であることだが、最後がキリスト教会のシーンで終わっていることにも関連を感じさせる。生命の危険を冒して撮影したはずの写真を一枚も載せていないのも気になることは気になる。ただ、ここまで書けてる本は珍しいし、野暮なことだが、これが20代の若者によって成されたということに驚嘆を覚えたのもまた事実である。

中国・江南 日本人の知らない秘密の街 幻影の村34 

中国古鎮遊編集部
中国・江南 日本人の知らない秘密の街・幻影の村34 地球の歩き方Books
これは「地球の歩き方Books」というシリーズらしい。とはいっても中国で出版されたガイドブックの翻訳もの。正にそのまんま翻訳しましたといった感じで読んでて眠くなった。写真もそのままカラーコピー流用だから、中国の書籍に親しんできた身としては懐かしいものはあるんだけど、写真が命の本でこれでは失格でしょう。なんだか中国の観光地で配られる日本語パンフレットみたいな違和感は否めない。はたしてこれらの街が本当に「日本人が知らない」のかどうかは不明だが、江南に土地勘がない私でも周荘や朱家角くらいは知っている。こうした「観光チケット」制の村は最近あちこちに乱立し始めているのだが、これも中国人の観光ブームと、観光というカネの成る木を逃さない地元民の成せる業であろう。考えてみれば、そうした村の多くがほんの10数年くらいまでは、只の古くさい「郷下」に過ぎなかった訳で、この程度の村なら中国には未だに腐るほどあると言っても過言ではない。似たような「観光資源」を持ちながら、観光で成功する村とそうでない村の差については日本でもいくらでも実証例があるのだが、中国の場合、需要と供給のバランスが予測不可能な面があるから、やはり「先富論」の先駆者を周囲がドンドン模倣して、共倒れなんてことも起こっている様だ。観光産業は中国では新興市場である以上それは致し方ない部分はあるのだが、ハコモノをバコバコ作るのが観光産業ではなく、観光資源を最大限に生かすという需要と供給が生まれてきたことは歓迎すべきなのであろう。もっとも、いくら「腐るほどある」といっても、古鎮がこうして「観光」に活路を見いだすのには寂しいものもある。私の「地元」である華南にも、お気に入りの幻影村が幾らでもあるのだが、ここで紹介することはよしておこう。



イスラームの歴史 3 改革と再生の時代 

ジョン・L. エスポジト, John L. Esposito, 小田切 勝子, 坂井 定雄
イスラームの歴史〈3〉改革と再生の時代
原著は「オックスフォード」で、9.11前の2001年発刊らしい。このOxford University Pressは本家を離れて名前ごと米国資本傘下であるらしいが、Oxfordを冠する書物は何か威厳を感じさせるのだろうか。凝ったカバーだし、ハードカバーなのにカラー写真満載であるし、紙質もよい。これが先方の条件だったのかもしれないが共同通信もカネかかってそう。全三巻だけど、苦手な歴史編はパスしたいので、この第三刊にだけにしておいた。でも前半は近代だったので、イスラーム運動の流れにアップアップしながらなんとか乗り切った。後半は得意の現代編。しかも「オックスフォード」らしく、アングロサクソンへのイスラーム世界の啓蒙となっているので、西欧社会におけるイスラームについての説明がかなり詳しく、この分野の日本の第一人者内藤正典みたいにイスラーム側にコミットしている訳ではないので、現実をより理解するには良いかと思う。フィンランドのムスリムとか、ブラジルの奴隷反乱にムスリムが大きく関与したという話はあまり聞いたことがなかったので勉強になった。編者はアメリカの大学教授とのことだが、ムスリムの執筆者と非ムスリムの執筆者を加えて、バランスを持たせたらしい。9.11前とはいえ、政治性を排除した淡々とした記述はどれがムスリムによるのか、非ムスリムによるものかは窺わせない。それは本文でも再三指摘される、ムスリム社会における西欧型知識人とイスラーム型知識人の狭間という座標軸で理解されることであろう。「オックスフォード」で起用されるのは当然、英語で執筆される前者であるが、その垣根を超えて、西欧型からイスラーム知識人に転校する例は枚挙にいとまがない。ムスリムであるということは宗教的実践をするということであるから、あくまでも研究対象として割り切ってイスラームに対処するという訳にいかないのが、ムスリムの研究者ということになるであろう。日本のイスラーム学者のうち、ムスリムの割合がどのくらいになるのか知らないが、こうした中立的かつ客観的な立場を保つ学者が少ない現状を見ると、改宗までは踏み切れないものの「心情ムスリム」が多いのではないかと思う。それは第三者的立場でいられる日本人の甘さなのかもしれないが、イラン人の旦那と23年も会ってないという酒井啓子女史の立場がやっぱ気になる。

歌旅日記アジア編 

豊田 勇造
歌旅日記アジア編
この豊田勇造という人はもしかしたら、ものすごく有名な人なのかもしれないが、そこそこ年期の入った音楽野郎を自認してる私は知らなかった。とは言っても、自前の音楽事務所を持ち、デビュー30年、11枚のCDに、こんな旅行記まで出してしまうのだから、たぶん凄くすごく有名な人なんだろう。友部正人を「友部君」などと呼んでるところからしても、実は日本語ブルースの大御所なのかもしれない。ということで、これはそんな大御所がつけてた文字通りの旅日記を収録したもの。94年から始まっているのだが、タイのバンド「カラワン」をずっとサポートしているらしい。このカラワンというのもタイの伝説的バンドとのことだが、「カラバオ」という私でも知っている超人気バンドとは別物らしい。著者のもカラワンのも歌は全く聴いたことがない(たぶん)ので、どうも感情移入できないのだが、日本に相当な数のタイ人がいて、こうした人気バンドが密かに来日してタイ人向けにライブを行うという「エスニック・プロモータービジネス」が成立していることは想像に難くない。フィリピンなんかでもそういう話は聞くし、MPBの有名歌手は浜松や大泉でライブを行っている。そういう場に知らん日本人歌手がゲストとして共演してしまうことは観客的にはどうなのかは分からぬが、「健全なタイ」が好きなタイキチ日本人の輪はそういう場からも生まれている様だ。ミュージシャンという職業の人が、社会正義を訴えたり、奨学金を出したりといった健全さを気取るのは、あまり気持ちのいいものではないのだが、スティングが無理矢理「インディオ」と共演したり、ボノがキリスト教暦のナンダラ記念の年だから日本は債務を帳消しにしろとか言って、大使館にデモをかけたりする様な「偽善オリエンタリズム」の気色悪さとは次元が違うのでまあいいかとも思う。同じことを友部正人がやったら、もう『一本道』は聴かないが、人も曲も知らん人なんで良かった。

図説 「満洲」都市物語 

西澤 泰彦
図説 「満洲」都市物語〔増補改訂版〕
河出の「ふくろうの本」シリーズ。96年初版を10年ぶりに増補改訂したらしい。前に「図説」ならぬ「写説」を謳った似た様なのを読んだが、こちらは満州ではなく「満洲」としてあるし、中途半端な歴史絵巻にしてないので、読みごたえ(見応え)がある。このビジュアル系の本は前にイスタンブールかなんかの奴が、パクリ疑惑で廃刊(たしか有名作家の作であった)になった事件があったが、たしかに結構乱立気味ではある。さて、本題に戻ると、著者は建築畑の人なので、とにかく建築建築で攻めてくる。「図説」系にしてはかなり本格的なので、好きな人にはタマンないだろう。私が見るところ、満洲マニアは「偽満州国」とか「大東亜協和圏」がどうのこうので、ガチガチな歴史系よりも、こっちの建築系の方が多い様な気がする。これは「撫順の奇跡を受け継ぐ会」みたいな恥ずかしい連中の謝罪旅行とも、真っ赤な夕陽のノスタルジーじいさんばあさん連中とは全く別次元で、中国当局のお膳立てには乗らず、ひたすら建築を見て歩くという様式美萌えの人たちである。その観点では満洲はやはり宝庫であり、歴史を認識するというのは本来こういう作業ではないかとも思う。よく言われるのが、「敵」が作った建造物をそのまま残して使用する中国人の寛大さということだが、これは「残留孤児を育てた寛大さ」と同じ類いのプロパガンダに過ぎない。単にその方がメリットがあったからそうしただけの話であり、こうした「道徳的優位」を主張する言説は疑ってかかるべきである。今後、朝鮮総督府と同じ運命を辿るかどうかは、観光資源としての価値がナショナリズムに勝るかどうかにかかってくるだろう。まあ「新中国」になっても満洲国の遺産で食いつないでいた東北が、過去と決別して「北の香港」を建設できるかどうかという問題は切実なんだけどね。



図説 内側から見た朝鮮総連 

青木 英一, 崔 永銀, 星野 陽平, 鈴木 琢磨, 野村 旗守, 李 策
図説 内側から見た朝鮮総連―在日朝鮮人ジャーナリストが書いた
ムック本。「在日朝鮮人ジャーナリストが書いた」というのをウリにしている様だが、特に新たな情報はなく、まとめ本に近い。執筆者のうち李策はこの手のものによく出てくる人だが、崔永銀というのが総連の元工作員で目玉となっている。もちろん仮名。とはいっても、北の招待所洗脳工作の話も特に新味はなく全体像にはほど遠い。拉致を特定の時期に一部の盲動的作戦によるものだということに結論誘導しようとしているのには怪しいものを感じる。元総連活動家という李策についてもその辺の疑いを持っているのだが、総連にできるだけダメージを与えない様に、グラスノシチをしている程度に考えた方が良いかと思う。後は解説解説で、図説に珍しいものがある訳でもない。グリコ森永事件の総連犯行説は知らなかったが、三億円事件にしても、日本の司法権力が及ばない闇の勢力が関与していることは間違いないだろう。一時、朝銀のパチンコ店現金輸送が襲われる事件が連続したことがあったが、あれもなぜか続報がない。一兆円以上の血税を注入し破たんした朝銀がテポドンの生みの親なら笑えない話だが、先の民団との和解白紙撤回にしても、民団にはまだ自浄能力があるという証左になってしまった。李策の言う通り、総連末端の人は何も知らないし、何も知らされていなかったのかもしれない、ただ、日本という情報が閉ざされた社会でない国に暮らしている以上、それは言い訳にしか聞こえないもまた然りである。

嫌韓流ディベート 

北岡 俊明, ディベート大学
嫌韓流ディベート 反日国家・韓国に反駁する
嫌韓でディベートすりゃあこうなるんだろうが、これはなんだか。韓国人の発言も分かりやす過ぎるが、それに日本人が合わせることもなかろうに。勝ち負けを決めるディベートというものはそういうものかもしれんけど、こんな類型化されたものは議論というより、ただの喧嘩である。どうもこの日本人役の人のメンタルが日本人のソレではなく、韓国人に近いのではないかと感じてしまうのは私だけだろうか。ロッテの不買運動とか、ウォンは円の10分の一の価値しかないとかいうのもトホホなんだけど、気に入らないからといって、わざわざ相手のレベルに己を落とす必要はないだろう。自画自賛せず、謙遜するところは日本人の美点だと思うし、わざわざ韓国人に喜ばれそうな「日本右翼」になりきるのも痛い。また、例の金完燮を絶賛していたりするんだけど、韓国人が日本の「良心派」を称えているのと同じ様な違和感を覚えた。ところで、韓国で親日であるということは、反日の裏返しという意味も、反体制であるということも表しているのではなかろうか。昔、左翼パンク少年だった頃、火の宮という右翼バンドがいたが、彼等の「パンク界で反体制とは右翼でしょ」という言葉にはかなりの説得力を感じた。その意味では日本の嫌韓も韓国の親日も通じるものがあるのかもしれない。もしかしたら、分かりやすい日本人を演じることは韓国人の為を思ってのことなのかもしれない。韓国人かてバカじゃないから、さすがに70年前の蛮行を謝罪しますと言って土下座する若い日本人にはいかがわしさも感じるだろう。「日本人のホンネとタテマエ」の前に、「歴史」を言いたくても言い出せなくてウズウズしていた韓国人には「嫌韓流」は待ってましたという面もあったんじゃないかな。