中国の「核」が世界を制す
- 伊藤 貫
- 中国の「核」が世界を制す
韓国道すがら
- 嶋 陸奥彦
- 韓国 道すがら―人類学フィールドノート30年
韓国夢幻
- 伊藤 亜人
- 韓国夢幻―文化人類学者が見た七〇年代の情景
副題が「文化人類学者が見た七十年代の情景」となっているが、正にその通り、半分写真、半分文章で七十年代韓国におけるフィールドワークの思い出話。なんでも昨年度で東大を退官されたとのことで、お決まりの退官記念の書ではあるが、これはかなり貴重なものではある。当時の韓国は所謂T・K生の時代であるが、フィールドワークの場が珍島ということで、キナ臭い話はなく、夜間外出禁止令も関係なかったとのこと。もっとも電気自体が通じていなかったというから、たった三十年程前だというのに時代を感じさせる。我々の世代ではもはや「貧困の記憶」というものはないが、韓国の同世代ではこの辺が「貧しい思い出」を共有する境目であろう。となると三八六世代のちょっと後くらいまではまだ内面に運動の正統性を固辞しているとも考えられる。そうした「政治の空気」には著者は距離を置いていた訳だが、それについては幾つかの実体験を以て理由を窺わせる記述はある。研究者というものは感情に走らされたらアウトというものだろうが、七十年代韓国という、想像するだけで感情同士が激突する様な修羅な地で、葛藤も苦悩も何もないのも、あっさりし過ぎて物足りない。ただ、田舎ではこんなものかもしれないし、「日帝時代」を知る者が多く健在だったことは、決してマイナスではなかったことも窺われる。また、セマウル運動の実態とか、連絡船の情景は興味深い。ソウル名物の地下鉄車内物売りはだいぶ数が減った様だが、この連絡船物売りには笑える。成瀬のトーキー第一作『乙女ごころ三人姉妹』にも隅田川連絡船の物売りが出てくるが、こうした記録は後世にも是非残してもらいたい。
アフガニスタンから世界を見る
- 春日 孝之
- アフガニスタンから世界を見る
毎日の特派員が書いた本。まとまってる様だが、掴みどころがないという感じもする。そもそもアフガニスタン自体が「旬」ではなくなってしまったので、アフガン侵攻から、タリバン崩壊、新政権樹立の頃にワンサカ出たアフガニスタン本と同じ時代がテーマでは、「過去の出来事」のおさらいといった感は否めない。マスード暗殺などは「初めて明らかにする」というわりには、何度も語られている「真相」と大差がない。その背後がCIAとかISIだというのも、よく囁かれている説ではある。そうなると9.11は米国の陰謀だということになってしまうのだが、このイスラム圏では「常識」の説に著者がその可能性を全否定できないところに、著者のスタンスがよく表れている。冒頭はバーミヤンへの道中で捕まった著者がタリバンに「死刑宣告」されるという「武勇伝」から始まっているが、どうも「死を覚悟した者」が放免されるという体験が著者に与えた影響は大きかった様だ。タリバンへのシンパシーは隠さないが、それが反西洋、反米国という点に依拠するのには、青臭い気もする。たしかにタリバンの記者会見にBBCの女性記者がノースリーブで現れ、質問にパシュトゥン語が使われると、「イングリッシュ!イングリッシュ!」と叫び、質問を遮ったなんて話にはギョッとさせられる。幾分戯画的な光景にも思えるが、それなら一緒に日本人記者も「イングリッシュ!」と連呼したなんてオチもあり得るだろう。「反西洋」の座標軸でタリバンと連帯する「武闘派」の著者なら、その場でバカ女をやっつけるべきではないか。その辺にも「記者」の限界を感じる。とはいっても「おさらい」としては有意義な本であると思うし、この辺りで、アフガニスタン侵攻作戦とは何だったのかを問い直す作業は必要であろう。気になるのは「現在」のアフガニスタンがどうなっているのかを全く伝えてない点だ。テヘラン特派員に着任したばかりなので、今後に期待してくれということなんだろうが、これではアフガニスタンの時間が止まってしまっている様に感じる。アフガニスタンから世界を見る視点が5年前のままでは、ますますアフガンは世界から忘れられていってしまう。
ルソンばりばりサル知恵くらべ
- のなか 悟空
- ルソンばりばりサル知恵くらべ
ここまで読んでいてムカムカした本も久し振りだ。帯に堂々と「フィリピンはサルの国」とか書いてあるが、全般に渡ってフィリピン人はサル!サル!サル!と人間扱いされない。PCの問題については日本でもだいぶ浸透しつつあるが、こんな本が出版されてしまうのも、ある意味スゴイことではある。のなか悟空とかいうオツムがサル以下の著者については言及することさえ無駄なのだが、これがフィリピンに対する愛情だとか、フィリピンの現実をそのまま描写しただけという言い訳には迎合するつもりはない。国家や個人の思想、行動、言動を批判するのはよいだろう。それは「民族差別」とは言わない。しかし、国も国民も相対化せず、サル山のサルたちとするこの本は「人種偏見」のお手本の様なものだ。この本の版元は第三書館。そう言わずと知れた日本赤軍系の出版社である。「第三世界」と連帯を叫ぶ連中の正体とはこんなもんだ。この出版社と浅薄ならぬ関係があるピースボードさんの寄港地や大使館にこの本の要約を配りたいとも思う。街に怪しいポスターを貼りまくる国際友好詐欺ビジネスの正体も知られてこよう。しかし、泉水博の豪華潜伏生活でもそうだが、何が革命だ。何が連帯だ。抑圧される人民は貴様らの正体はちゃんと見抜いている。反差別を叫ぶものが、一旦権力を握ると、それまで以上の抑圧者に豹変することは歴史も証明しているではないか。
戦争 ラジオ 記憶
- 貴志 俊彦, 川島 真, 孫 安石
- 戦争・ラジオ・記憶
完全敵地
- 加藤 久
- 完全敵地
まあ時節柄ということで、キュウさんの本を一つ。本大会出場を決めたバンコクでの無観客試合と20年前の平壌決戦をクロスオーバーさせ、86年大会予選を振り返るというもの。そのほとんどが「紙の蹴球」なので、知らない人には辛いものだろうが、紙上で再現された試合のほとんどを生で見ている私には懐かしいものであった。そう、チケットぴあもない(あったかもしれんが)、ヤフオクもない、ダフ屋も商売にならないからいない当時の日本代表(全日本なんて呼び方の方が通りが良かった)の試合は当日、国立に行けばすぐ買えた。中学生のお小遣いで買えた。木村和司の伝説のフリーキックも観た。キュウさんが最悪の思い出としている読売が日本代表に勝った試合も観ている(西が丘)。今や好感度ナンバーワン女優の父として知られているテクニシャンが唯一?代表に招集されたシンガポール戦も観た。国立が総連の動員作戦でアウェーになってしまった泥んこ試合も観た。一介のサッカー少年はそれが一体どういうことなのか理解できなかった。香港戦のロスタイム決勝ゴールもNHKで衛星中継していた。試合後暴動が起きたとは知らなかったが。しかし、現在に至るまでビデオですらその試合を観たことがないのが平壌決戦だ。松井(GK)が日本を救っていたとは知らなかった。当時今は亡き「イレブン」を購読していたのだが、グラビアさえ無かった様な気がする。なんで一枚の写真すら出てこないのだろう。何か裏があるのかも知れないが、北朝鮮とか社会主義とか全体主義とか、何か得体の知れないものに関心を抱き始めた原点はこの辺にあるのかもしれない。当時聞いていた渋谷陽一のFM番組に金日成スタジアムの取材席に座ったというライター(佐山衆一という人か?)がゲストに来たことがあったが、その話になると口ごもったのが印象に残っている。平壌で辺見庸が森に土下座したなんて話も出てくるが、そんな異次元だった出来事を垣間みられたのは収穫。懐古話は尽きないのでこの辺で。そろそろ現実の試合が始まるし。
定年からは、中国で働く
- 斎藤 彰
- 定年からは、中国で働く
北朝鮮を知るための51章
- 石坂 浩一
- 北朝鮮を知るための51章
どうせなら出せばいいのにと前にここに書いたことがあるが、ホントに出てしまった「知るための」北朝鮮編。さすがに和田某とか吉田某とかの執筆ではないがその傍流で(ただし和田に依拠している箇所多し)、数少なくなった親北派の石坂浩一が編者。この編者が、まず核疑惑払拭から始め、崩壊論や暴発論を否定し、政治の仕組み(あくまでの公式の)を宣伝するという、まあ総連のラインに沿った展開。次に総連系(と思われる)の研究者の経済(同じく公式の)を担当しているが、文化は複数の「マニア系」の人が書いており、割と自由な記述。スポーツ編は結構面白い。「日朝」「拉致」は最後にもってきているのだが、「公式見解」から外れる実際の事件も扱う関係からか石坂ではなく、知らない「進歩派」の人が書いている。ここで拉致よりも「過去の清算」が重要で大きな問題とされているのはやっぱりなのだが、拉致被害者を一同に呼び捨てにするのには違和感を感じた。全般的に現在、北の代弁者となっている韓国の主張をそのまま流用した感じで、ベースは同じでも北や総連の硬直性は抑えた「たしかに北にはいろいろ問題あるが、過去があるから日本から歩みよりなさい」とか例の「日本は金正日が拉致を認めたことをもっと評価すべきだ」という類いのもの。このシリーズでは政府批判はやらないのが普通なので(チベット編の中国は例外)、北の批判がないのは許せるとしても、日本政府やマスコミ、「一部の右翼」への批判はタップリ。この国の特殊性や出版社や執筆者の傾向を考えると仕方がない部分もあるのだが、こう政治的に偏っていると今まで3つか4つ星平均のこのシリーズ初の星一つにしたくなった。まあ表紙に写っている音楽の先生の口の形が気になったので二つにしといてやる。
私の満州 思い出すままに
- 福山 郁子
- 私の満州 思い出すままに
大正12年大連生まれの著者が正にタイトル通り思い出すままに書いた本。大連に生まれ、撫順、ハルピン、吉林、北安、通化、奉天と役人の父と共に移りすん
だという満州満喫みたいな人だが、いかんせん70年以上前の少女時代の思い出ということで、近所の何々ちゃんとか何々さんとか何々先生とかの話ばかり。た
だ、その中には白系、赤系ロシア人とか、八太太までいる満州官僚とか、満州らしい話もある。ロシア人がその実、アルメニアとかユダヤ人であったりとか、道
に赤ちゃんの死体が捨てられたいたなんて話はさもありなん。八太太の人は「解放後」どうなったんだろう。ちょっと気になったのは「中国人」「シナ人」「満
人」「満州人」の呼称が混用されている点だが、時代が建国前と建国後に跨がってはいるのだが、そのニュアンスの違いを知りたいものだ。いずれにしても表紙
にある様な、老人が幼少時代を懐かしむセピア系の自分史なので、政治的なものは一切なし。引き上げについては続編があるらしく、そっちの方が気になるが、
福岡にあるというこの出版社の最後の広告ページに紹介されている上野英信の妻と息子が書いたという本の方が気になったりする。