アジア読書 -3ページ目

中国の「核」が世界を制す 

伊藤 貫
中国の「核」が世界を制す
言ってることはまあ正しいのかも知れんけど、これはこれでちょっと強引な感じがしないでもない。著者は在米の「国際政治アナリスト」とのことだが、『シカゴトリビューン』、『ロサンゼルスタイムス』に執筆し、CNN,CBS,NBC,ITN,BBCにも出演して、解説をしているという。全然知らん人だったが、なんかスゴイ人らしい。その主張は分かりやすい反中反米保守で、要は「自主的核抑止力」の保持を訴えているのだが、この辺には、おいそれと同意はできない。たしかに私も80年代の反核至上主義の時代に思想形成された者ではあるのだが、後にそれが「平和運動」の仮面を被った東側の策略であった事を知った時はショックだったし、日本のソレはソ連が北朝鮮を下請けに、社会党を孫請けに、更に怪しげな団体を曾孫請けにして展開したものだったと分かった時は、己の無知を恨んだものだ。『アトミックカフェ・フェスティバル』を、なぜかピースボード関係者が仕切っていたり、野坂昭如がドタキャンしたのも(筑紫は予定通り登場)、尾崎豊が骨折したのもそれは深い理由があった訳だ。ただ、やはり「核」のトラウマはまだ残っており、「日本人は道徳的に問題があるから核の保有は認めない」なら、それはそれで結構だと思う。「核保有国」が道徳的だと思っていないなら、自ら非道徳的な道を選ぶこともなかろう。どうも日本では「核武装論」が主流になることはないと見越した共和党の老獪戦術の匂いもする。ただ、日本に適度なプライドを持たせ、中国の台頭を抑制するというのはいいだろう。日本が中国の核の傘下に入ったら、もう日本という国は無くなったも同然だ。その選択肢があり得ない以上、「現実」と「理想」のギャップにどう折り合いを付けていくのか考えなくてはならない時代になったこともたしかではある。

韓国道すがら 

嶋 陸奥彦
韓国 道すがら―人類学フィールドノート30年
文化人類学者が、70年代の韓国農村で行ったフィールドワークの思い出を振り返る。つい先日読んだ本と全く同じコンセプトという偶然なのか、対抗したのかよく分からん一冊。共に当時の韓国研究の希薄さを語っているわりには、互いの名前は出てこない。同じ時期に東大で学んでいる様だが、学部が違ったり、紛争で授業自体が成立しなかったとのことで、テーマは同じでも系統は別の様だ。私的には写真が多い先日の方が読み易かったのだが、どうも両者の思考は似通ったところが多い。それが「時代の精神」なのだろうが、身の危険に繋がる政治問題には距離を置いて、「過去」や「偏見」に関しては、反論はせず、出来るだけ軋轢を避けるという「生きる術」に長けている印象がある。逆にそれが「日本人はホンネとタテマエを使い分ける」という韓国人の日本人に対するステレオタイプを助長している面はあるとは思うが、まあ、そうでもしないと当時の韓国で日本人が「調査」を行うには無理があったろう。ただ、こちらの本は「人類学フィールドノート30年」ということで、1974年から2004年までの30年が範囲になっており、近年の都市露天商の調査なんかも入っていて、これは非常に興味深かった。こういうのなら良いのだが、儒教話は個人的に全く関心がないので、やはり私は韓国という国を理解するのは難しいかもしれない。ということで、キーセンツアー華やかし頃、若い衆に女遊びに誘われ、苦悩するという話も良かった。それが村の若者の仲間としての「通過儀礼」であった訳であるが、「買ってもいけない」「買わなくてもいけない」という当時の一日本人青年の葛藤は一考に値するものであろう。

韓国夢幻

伊藤 亜人
韓国夢幻―文化人類学者が見た七〇年代の情景
副題が「文化人類学者が見た七十年代の情景」となっているが、正にその通り、半分写真、半分文章で七十年代韓国におけるフィールドワークの思い出話。なんでも昨年度で東大を退官されたとのことで、お決まりの退官記念の書ではあるが、これはかなり貴重なものではある。当時の韓国は所謂T・K生の時代であるが、フィールドワークの場が珍島ということで、キナ臭い話はなく、夜間外出禁止令も関係なかったとのこと。もっとも電気自体が通じていなかったというから、たった三十年程前だというのに時代を感じさせる。我々の世代ではもはや「貧困の記憶」というものはないが、韓国の同世代ではこの辺が「貧しい思い出」を共有する境目であろう。となると三八六世代のちょっと後くらいまではまだ内面に運動の正統性を固辞しているとも考えられる。そうした「政治の空気」には著者は距離を置いていた訳だが、それについては幾つかの実体験を以て理由を窺わせる記述はある。研究者というものは感情に走らされたらアウトというものだろうが、七十年代韓国という、想像するだけで感情同士が激突する様な修羅な地で、葛藤も苦悩も何もないのも、あっさりし過ぎて物足りない。ただ、田舎ではこんなものかもしれないし、「日帝時代」を知る者が多く健在だったことは、決してマイナスではなかったことも窺われる。また、セマウル運動の実態とか、連絡船の情景は興味深い。ソウル名物の地下鉄車内物売りはだいぶ数が減った様だが、この連絡船物売りには笑える。成瀬のトーキー第一作『乙女ごころ三人姉妹』にも隅田川連絡船の物売りが出てくるが、こうした記録は後世にも是非残してもらいたい。

アフガニスタンから世界を見る 

春日 孝之
アフガニスタンから世界を見る
毎日の特派員が書いた本。まとまってる様だが、掴みどころがないという感じもする。そもそもアフガニスタン自体が「旬」ではなくなってしまったので、アフガン侵攻から、タリバン崩壊、新政権樹立の頃にワンサカ出たアフガニスタン本と同じ時代がテーマでは、「過去の出来事」のおさらいといった感は否めない。マスード暗殺などは「初めて明らかにする」というわりには、何度も語られている「真相」と大差がない。その背後がCIAとかISIだというのも、よく囁かれている説ではある。そうなると9.11は米国の陰謀だということになってしまうのだが、このイスラム圏では「常識」の説に著者がその可能性を全否定できないところに、著者のスタンスがよく表れている。冒頭はバーミヤンへの道中で捕まった著者がタリバンに「死刑宣告」されるという「武勇伝」から始まっているが、どうも「死を覚悟した者」が放免されるという体験が著者に与えた影響は大きかった様だ。タリバンへのシンパシーは隠さないが、それが反西洋、反米国という点に依拠するのには、青臭い気もする。たしかにタリバンの記者会見にBBCの女性記者がノースリーブで現れ、質問にパシュトゥン語が使われると、「イングリッシュ!イングリッシュ!」と叫び、質問を遮ったなんて話にはギョッとさせられる。幾分戯画的な光景にも思えるが、それなら一緒に日本人記者も「イングリッシュ!」と連呼したなんてオチもあり得るだろう。「反西洋」の座標軸でタリバンと連帯する「武闘派」の著者なら、その場でバカ女をやっつけるべきではないか。その辺にも「記者」の限界を感じる。とはいっても「おさらい」としては有意義な本であると思うし、この辺りで、アフガニスタン侵攻作戦とは何だったのかを問い直す作業は必要であろう。気になるのは「現在」のアフガニスタンがどうなっているのかを全く伝えてない点だ。テヘラン特派員に着任したばかりなので、今後に期待してくれということなんだろうが、これではアフガニスタンの時間が止まってしまっている様に感じる。アフガニスタンから世界を見る視点が5年前のままでは、ますますアフガンは世界から忘れられていってしまう。

ルソンばりばりサル知恵くらべ 

のなか 悟空
ルソンばりばりサル知恵くらべ
ここまで読んでいてムカムカした本も久し振りだ。帯に堂々と「フィリピンはサルの国」とか書いてあるが、全般に渡ってフィリピン人はサル!サル!サル!と人間扱いされない。PCの問題については日本でもだいぶ浸透しつつあるが、こんな本が出版されてしまうのも、ある意味スゴイことではある。のなか悟空とかいうオツムがサル以下の著者については言及することさえ無駄なのだが、これがフィリピンに対する愛情だとか、フィリピンの現実をそのまま描写しただけという言い訳には迎合するつもりはない。国家や個人の思想、行動、言動を批判するのはよいだろう。それは「民族差別」とは言わない。しかし、国も国民も相対化せず、サル山のサルたちとするこの本は「人種偏見」のお手本の様なものだ。この本の版元は第三書館。そう言わずと知れた日本赤軍系の出版社である。「第三世界」と連帯を叫ぶ連中の正体とはこんなもんだ。この出版社と浅薄ならぬ関係があるピースボードさんの寄港地や大使館にこの本の要約を配りたいとも思う。街に怪しいポスターを貼りまくる国際友好詐欺ビジネスの正体も知られてこよう。しかし、泉水博の豪華潜伏生活でもそうだが、何が革命だ。何が連帯だ。抑圧される人民は貴様らの正体はちゃんと見抜いている。反差別を叫ぶものが、一旦権力を握ると、それまで以上の抑圧者に豹変することは歴史も証明しているではないか。


戦争 ラジオ 記憶 

貴志 俊彦, 川島 真, 孫 安石
戦争・ラジオ・記憶
科研とかいろんな補助金を引っ張ってきて、数年かけて、何人もで調査しまくった研究まとめ本。この戦時ラジオ研究はわりと資料が揃っているものなのだが。「ソ連軍占領期北朝鮮におけるラジオの成立」なんて、やたらハードルが高そうなのも入っている。しかし、当時のラジオと同じ役割を担っているのが現在のインターネットだが、ネット検閲に躍起になっている中国に対し、脱北者放送など、北朝鮮への宣伝戦が今をもってもラジオだというのは国情を現しているとしか言い様がない。中国では天安門の頃、学生の亡命拠点があったフランスから、中国沿岸までラジオ船を出すなんて話があったと記憶しているが、例のドイツ人医師が北へ風船で携帯ラジオを飛ばすなんてパフォーマンスをやったのは最近のことだ(南の警察に捕まったらしい)。それにしても携帯ラジオなんて今でも売っているのだろうか。さて、本題に戻ると、研究まとめ本ということで、資料館紹介とか書籍紹介なんかも入っている。この書籍紹介なのだが、著者が自分で自分の本を書評するという異色のスタイル。その世界では自評というジャンルがあるのかも知らないが、自賛するわけにも、かといって批判する訳にもいかず、皆これこれこう書きましたという無害な内容紹介に終わっているのが面白い。ラジオと関係ない詩の本が一冊混じっているのも不思議。

完全敵地 

加藤 久
完全敵地
まあ時節柄ということで、キュウさんの本を一つ。本大会出場を決めたバンコクでの無観客試合と20年前の平壌決戦をクロスオーバーさせ、86年大会予選を振り返るというもの。そのほとんどが「紙の蹴球」なので、知らない人には辛いものだろうが、紙上で再現された試合のほとんどを生で見ている私には懐かしいものであった。そう、チケットぴあもない(あったかもしれんが)、ヤフオクもない、ダフ屋も商売にならないからいない当時の日本代表(全日本なんて呼び方の方が通りが良かった)の試合は当日、国立に行けばすぐ買えた。中学生のお小遣いで買えた。木村和司の伝説のフリーキックも観た。キュウさんが最悪の思い出としている読売が日本代表に勝った試合も観ている(西が丘)。今や好感度ナンバーワン女優の父として知られているテクニシャンが唯一?代表に招集されたシンガポール戦も観た。国立が総連の動員作戦でアウェーになってしまった泥んこ試合も観た。一介のサッカー少年はそれが一体どういうことなのか理解できなかった。香港戦のロスタイム決勝ゴールもNHKで衛星中継していた。試合後暴動が起きたとは知らなかったが。しかし、現在に至るまでビデオですらその試合を観たことがないのが平壌決戦だ。松井(GK)が日本を救っていたとは知らなかった。当時今は亡き「イレブン」を購読していたのだが、グラビアさえ無かった様な気がする。なんで一枚の写真すら出てこないのだろう。何か裏があるのかも知れないが、北朝鮮とか社会主義とか全体主義とか、何か得体の知れないものに関心を抱き始めた原点はこの辺にあるのかもしれない。当時聞いていた渋谷陽一のFM番組に金日成スタジアムの取材席に座ったというライター(佐山衆一という人か?)がゲストに来たことがあったが、その話になると口ごもったのが印象に残っている。平壌で辺見庸が森に土下座したなんて話も出てくるが、そんな異次元だった出来事を垣間みられたのは収穫。懐古話は尽きないのでこの辺で。そろそろ現実の試合が始まるし。

定年からは、中国で働く 

斎藤 彰
定年からは、中国で働く
ポスト団塊定年の時代を迎え、この手の本が大量生産されているが、たしかに中国は行き場を失ったこの世代の数少ない吸収地であることはたしかだろう。で、この本だけど、著者の近影からもその内容からも、シルバー世代の中国就職話かと思い込んでしまったのだが、よく見ると著者は1943年生まれ、これはまだまだ現役世代ではないか。ということで、定年退職→中国就職のハウツー本としては一応成立しているのだが、自分の経験を普遍化して、これこれこうだったからこうなんだ。というオッサンの自分語りの枠を出るものではなかろう。困ったら日本語の出来る弁護士に相談するとか、日系の不動産屋を利用するとか、人材派遣会社を利用するとか、実はそこの落し穴があるんだよということは、これっぽちも書かれていないし、スーパーの見取り図とか、酒蒸しとか、茶碗蒸しとか中国とは関係ない「オヤジのレシピ」まで載せてしまうのも、善かれと思ってのことだろうか、なんだか家庭内でも見られる熟年男性と他者の断絶を垣間みる思いがした。最後に中国人も日本の歴史に興味を持っているとかいうので、何かと思ったら、「中国には5千年の歴史がありますけど、日本は何年ですか? 中国が、文字を使い始めた時、日本は石器文化だと聞いたことがありますけど」と尋ねられたことがあるとか。齋藤先生、そ...それは..日本の歴史に興味があるというのとはチト違うんではないの?

北朝鮮を知るための51章 

石坂 浩一
北朝鮮を知るための51章
どうせなら出せばいいのにと前にここに書いたことがあるが、ホントに出てしまった「知るための」北朝鮮編。さすがに和田某とか吉田某とかの執筆ではないがその傍流で(ただし和田に依拠している箇所多し)、数少なくなった親北派の石坂浩一が編者。この編者が、まず核疑惑払拭から始め、崩壊論や暴発論を否定し、政治の仕組み(あくまでの公式の)を宣伝するという、まあ総連のラインに沿った展開。次に総連系(と思われる)の研究者の経済(同じく公式の)を担当しているが、文化は複数の「マニア系」の人が書いており、割と自由な記述。スポーツ編は結構面白い。「日朝」「拉致」は最後にもってきているのだが、「公式見解」から外れる実際の事件も扱う関係からか石坂ではなく、知らない「進歩派」の人が書いている。ここで拉致よりも「過去の清算」が重要で大きな問題とされているのはやっぱりなのだが、拉致被害者を一同に呼び捨てにするのには違和感を感じた。全般的に現在、北の代弁者となっている韓国の主張をそのまま流用した感じで、ベースは同じでも北や総連の硬直性は抑えた「たしかに北にはいろいろ問題あるが、過去があるから日本から歩みよりなさい」とか例の「日本は金正日が拉致を認めたことをもっと評価すべきだ」という類いのもの。このシリーズでは政府批判はやらないのが普通なので(チベット編の中国は例外)、北の批判がないのは許せるとしても、日本政府やマスコミ、「一部の右翼」への批判はタップリ。この国の特殊性や出版社や執筆者の傾向を考えると仕方がない部分もあるのだが、こう政治的に偏っていると今まで3つか4つ星平均のこのシリーズ初の星一つにしたくなった。まあ表紙に写っている音楽の先生の口の形が気になったので二つにしといてやる。

私の満州 思い出すままに 

福山 郁子
私の満州 思い出すままに
大正12年大連生まれの著者が正にタイトル通り思い出すままに書いた本。大連に生まれ、撫順、ハルピン、吉林、北安、通化、奉天と役人の父と共に移りすん だという満州満喫みたいな人だが、いかんせん70年以上前の少女時代の思い出ということで、近所の何々ちゃんとか何々さんとか何々先生とかの話ばかり。た だ、その中には白系、赤系ロシア人とか、八太太までいる満州官僚とか、満州らしい話もある。ロシア人がその実、アルメニアとかユダヤ人であったりとか、道 に赤ちゃんの死体が捨てられたいたなんて話はさもありなん。八太太の人は「解放後」どうなったんだろう。ちょっと気になったのは「中国人」「シナ人」「満 人」「満州人」の呼称が混用されている点だが、時代が建国前と建国後に跨がってはいるのだが、そのニュアンスの違いを知りたいものだ。いずれにしても表紙 にある様な、老人が幼少時代を懐かしむセピア系の自分史なので、政治的なものは一切なし。引き上げについては続編があるらしく、そっちの方が気になるが、 福岡にあるというこの出版社の最後の広告ページに紹介されている上野英信の妻と息子が書いたという本の方が気になったりする。