1943年当時、ヘルマン・バウムフェルト(Hermann Baumfeld)はドイツ系の名前でありながら無国籍であった。白系ロシア人を除くと、この頃山手の無国籍者は他にアルメニア人のアプカー家と歯科医ステファン・レーベだけである。
 
バウムヘルトは1885年ウィーンに生まれた。そして1908年ユダヤ教を抜けるので元はユダヤ人であろう。無国籍なのは1938年にドイツがオーストリアを併合した際に、ドイツ帝国民となることを阻んだからか、元々ユダヤ人であったためか?
 
彼が日本に来たのは早く、伊藤武雄の『満鉄に生きて』という本から、バウムフェルトが来日当初の状況を知ることが出来る。 「ついでに満鉄に雇用されていたヨーロッパ系外国人を紹介しておくと、(満鉄の調査機関のひとつである)東亜経済調査局には、他にバウムフェルドというドイツ人の助手がいました。
 
かれは 現職のダンチッヒ高等工業学校教授ドクトル・チースについて日本にやってきた人で、以来ずっと日本にいました。調査機関の資料整理の基礎は彼の手で出来上がったのでした。かれは現在も存命で日本で生活していると思います。」(2019年4月8日加筆) 
 
東亜経済調査局の仕事は明治44年(1911年)に任期満了となる。その後1920年から1943年頃まで三菱経済研究所に勤務したようだ。1943年、三菱経済研究所の所長として外事警察に登録されている。山手から東京まで通った。
 
そして山手の退去を命じられると軽井沢1071番に移る。ドイツ人としての配給を受ける事も出来ずに、終戦までひっそりと暮らしたのであろう。妻はカネコ・バウムヘルト、日本人だ。無国籍者と結婚すると、彼女も無国籍になったのであろうか?
 
戦後は極東軍事裁判でA級戦犯として起訴された東条内閣内閣書記長、星野直樹の裁判の証人として呼ばれ、1930年から35年の経済危機に関し、証言を行った。
彼に関し、断片的な情報はあるが、まだはっきりとした輪郭はつかめない。
(ウェッブの”Meiji Portraits”を参考にした)
 
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今の山手236番地。
 
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