イタリア出身のデンティチ家は長年、横浜でベーカリーを営なんだ。1874年頃、中華街の186番にプロヴァンス風ベーカリー店(Boulangerie provencale)を開業する。(『開港のひろば』109号より)
 
ダンテは初代ミシェルが日本に来てから3代目に当たるが、1943年の住所は新山下町1-1で、(おそらく)姉のマリア・デンティチ(家族2)も同住所に暮らす。ダンテの職業は会社員なので、戦時下パン屋は営んでいなかったのであろう。またダンテは母方の国籍を取りフランス人で、マリアはイタリア人である。
 
1943年9月にイタリアが連合国に降伏するとイタリア人は日本の敵国となる。横浜の外国人クラブ支配人であったエドワルド・デンチィチ(ダンテの父?)はイタリア国籍ゆえに愛知県で抑留される。(『敵国人抑留』より)
 
なおこの時抑留されるかどうかは、ドイツによって打ち立てられたムッソリーニの「ファシスト共和国政府」を支持するかどうかで、それに従わなかった民間人は総勢19名が抑留され、横浜ではデンチィチのみであった。(『外事月報』より)
 
新山下町1-1はバンドホテルの住所である。同ホテルは1943年ころはドイツ海軍宿舎となっていたので、同じ番地にダンテの暮らす別の建物があったのかもしれない。
1943年12月に姉弟で大磯に移転する。ダンテは戦後、イギリス人リナ・ソルター(山手町220、その後七沢温泉に抑留)と結婚する。
 
終戦間際には次のような記述がある。
「大磯在住のフランス人デンチシ夫妻(妻は80歳にして全身不随)は妻(注:正しくは母)の病状のため、疎開を希望しなかったが、警察よりは7月30日までに家屋を明け渡し、軽井沢に赴くべしと言われた。このような者は後回しにしてはいかがであろう」と、外務省軽井沢出張所の大久保所長は提言した。(外務省外交史料館)

終戦時、書記官としてデンチシ(軽井沢1459)の名前がある。(年齢等不明)一方大磯にもダンテ・デンチシ(45歳、フランス大使館雇)の名前がある。
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デンティチ家がベーカリーを営んだ山下町186番の現在の建物は、その番号を建物上部に掲げている。
 
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