盗作と判断した実例を示しておこう。ただし、ブログの性格上匿名にしたいのでごく一部のみに留めておく。あまり書くと大学名が分かってしまうからである。私は、Y 学部長は、許し難いと思っているが、大学そのものは、非常に大切に思っているので、大学は少しでも傷つけたくない。そこで、これでは判断できないと言われるかもしれないが、ほんの一部の例でお許し願いたい。

盗作論文不法移民問題を巡って、アメリカ社会では中南米系の移民層と黒人層との間で新たな軋轢の火種を発生させた。・・・・・・ロサンジェルス市内の学校などでは、乱闘騒ぎが発生した。」

原著不法移民問題をめぐり、米社会では中南米系と黒人層との新たな軋轢も懸念されている。・・・・・・ロサンゼルス市内の学校などでは、両者の若者らによる乱闘騒ぎが相次いでいる。」


上の二つの文を比較してもらうとよく分かると思うが、「めぐり」が「巡る」と漢字になっていたり、「米社会」が「アメリカ社会」になっているなど変えてはいるが、内容は同じである。


私が学生の論文を指導したときのテキストには、次のように書いてある。



 「多少変えたとしても、他人の文章を自分の文章として用いた場合、引用と自分の文章との区別がない場合は盗用、盗作、剽窃になる」


上の例は内容が酷似しているばかりでなく、引用と自分の文章の区別がなく、また引用文献もないので明らかに盗作といえよう。


なぜこのようなことが起るのであろうか。次に取り上げたい。




 これから、Y学部長の盗作について述べようと思う。ただ、盗作を扱う前に大学教員にとっての論文の持つ意味について述べてみたい。

大学教員の業務は教育と研究とされている。教育という言葉が先にあるのだから、教育が研究より優先されているといえるだろう。

 しかし、一般に教員の意識としては、この順位は逆で研究の方を重視している。


 教育が重視されるようになった今でも、研究の方に意識が向いている教員が大多数だと思われる。もちろん、これには実利的な意味合いもある。というのは、昇格条件にしても、教育業績という文言はあるが、教育の評価をすることは難しいので事実上評価の対象にならない。結局は研究業績によって決まることになる。こうした意味でも、論文発表(研究)は重視されている。

 理系のことは分からないが、文系ではこの研究が、随分揶揄されてきた。業績作りのための、評価に値しない論文が乱造されるという揶揄である。大学紀要などはこの種の論文に満ちていると批判される。確かにそうした側面がないとはいえない。

 私の経験でも、文部科学省の助成金を貰った研究を学内紀要の論文にして発表しても、問い合わせがあったのは、ほんのわずかである。だから、ほとんど誰の眼にも触れずに埋もれてしまう。 このように客観的には、評価を期待できないような論文を書いているとしても、ほとんどの大学教員は研究者(論文はその外に現れたしるし)に自己のアイデンティティを求めているものと思う。

 だから、研究者として否定されることは、同時に大学教員としての否定でもある。そこで、絶対にやってはならないことは剽窃である。剽窃をすれば、大学教員がよってたつ根拠を失うからである。それをY学部長は犯した。

 希薄な危機意識

 学部長がボーナスが出るのが不思議なくらいの財政状態だと述べ、事務局長が×億の支出超過だと繰り返し述べているのにも関らず、教員の危機意識のなさには驚くべきものがある。これは、なんといっても大学という巨大組織がつぶれるわけがないと思っているからだろう。私は、教員の危機意識を目覚めさせるために、何度も学部の財政が破綻したら、誰かが救済してくれるのかと質問し、学部長からは、それは期待できないという回答を貰った。にもかかわらず、先生方は危機意識がない。

 学生の定員割れを起している大学が半数近くになろうとし、破綻した大学が見られ始めたというのにである。

 現代はこんな大企業がと思われる企業が破綻する時代である。JALなど象徴的であろう。出社してみたら、破綻していたという悲劇がいたるところで起った。現在アメリカでも起りつつある。こうした世間の動向に教員は鈍感だと思わずにいられない。

 こうした現実感覚の無い教授が、これから社会に出てゆく学生にものを教えるというのは恐ろしいことだ。

 母校が消滅し、なにより悲しむのは教授ではなく、卒業生や在校生だろう。

 教員は封建的人間関係に弱い。

 大学は一見自由人の集まりで、主義主張で動いているように感じるかも知れないが、人間関係は前近代的である。副手の方が、学部長選について「先生方はご恩と奉公の関係なんですね」といったというが、適切な表現だと思う。

 すでに述べたように、世話をする・世話を受けたという人間関係が、大学を支配しているからである。大学教員が請われてその職に就くものは非常に少ない。オーバードクターで知られているように研究職は、万年供給過剰である。そこで大学への就職を斡旋されると、その人には一生頭が上がらなくなる。私の経験からもそうだし、世界的学者であるマックス・ウェーバーですら、大学に職を得たのは運がよかっただけだと述べているように、大学の門は狭いから、斡旋者には大きな義理を感じてしまう。

 この関係が無反省に心を占めると事の是非に関わらず、職の斡旋者の意向に逆らえなくなる。この封建的な主従関係といえるものは、就職の斡旋だけでなく、学会への推薦、学内での役職や研究費の便宜などを契機として発生する。

 こうして信じられないような学部長の行動でも、教授達は無反省にあるいは封建的な自縛にとらわれて受容してしまうのである。

医学部の内幕を暴いた小説「白い巨搭」は、学部長選挙の票を得るために金や地位の提供が描かれているが、こうした利害と共に、この封建的な人間関係が大学を支配しているのである。

 教員職としてのモラル感覚が乏しい。

 現代に於いては、聖職という言葉は古びたかもしれないが、職業モラルは依然として生きている。教員が犯罪行為を犯せば、通常の人より社会的批判が強いのは当然のことである。

 学部長に対する姿勢を、私と同じくする教員とそうでない教員との差は、職業モラルに対する感覚の差であるとつくづく思った。私と考えを一つにする教員とは、「Y学部長の行為は社会正義からいっても許せない」と一言いえば、それですーつと理解しあえる。ところが、そうでない教員とは、「正しいか、正しくないか」ではまったく通じない。


 かって、福沢諭吉は『学問のすすめ』の中で「独立の精神なき者は、つねに他人をあてにする。・・・こうして、常にあいてを気にし、ゴマをする者は、いつかそれが習性となり、面の皮が厚くなり、恥知らずの人間となる。言いたいこともいえず、人に会えばただ腰を曲げ下手に出るだけだ。」そして、こうした性格は「習い性となる」と述べている。

 こうした職業倫理を失った教員が少なからずいる。もちろん、大学とても人間の社会であるから、時にはゴマをする必要もある。だが、通常そうした行為をするときには、心の中で屈辱を感じているはずなのである。しかし、「習い性となった」教員は、屈辱どころか、それを自分の優れた才能だと思っている節がある。こうした教員は自分の利害で巧みに泳ぐことを誇りにしているとしか思えない。

 こうしたタイプの教員はえてして、権威主義者で自分より下と見る人には、横暴になりがちなので、学生に対しても愛情を持って接することが恐らく出来ないだろう。

 大学にあっては、規範やモラルが優位をしめ、規範やモラルを基準にして語れる社会であって欲しいとつくづく思う。「美には、利害があってはならない」というのは、アリストテレスの美学の中の言葉だそうだが、教育もまた利害関係があってはならないだろう。

 このように述べても、世間一般では、大学の教員は利害ではなく信念で行動し、自由に発言していると思われているようだが、実態は残念ながら非常に異なる。