2 教員は事なかれ主義的な態度を取りがちである。
教授会で発言するということは、提案が学部長からされるために、学部長の提案に対する修正ないし、異論になる。提案に賛成ならわざわざ発言するまでもないからである。したがって、程度はいろいろあるが、どうしても学部長に逆らう形になる。本来、教授会は審議の場だから、異論や批判が出ることによって機能するとも言える。しかし、この学部では、異論や批判はいかに建設的なものであっても「学部長に逆らう」ものと受け取られる。だから、陰で批判することはあっても、学部長の機嫌を損ねてまで実際に教授会で発言する教授はほとんどいない。
反論すると、側近の教授は、ある時には「形式には問題が多少あるが、内容的には問題はないので、賛成である」という。またある時には「内容的には多少の問題はあるが、制度をきちんと踏んでいるので賛成である」という。
教授にあるまじき非論理的なことをいって、やみくもに学部長を支持する。ほとんどの教授は沈黙しているので、沈黙は賛成とみなし、自分は多数派に属していると安心している。
漱石が「愚見数則」だったと思うが、「馬鹿は百人寄っても馬鹿なり、味方が大勢なる故,己れの方が智慧ありと思ふは、了見違いなり、牛は牛伴れ、馬は馬連れと申す、味方の多きは、時として其馬鹿なるを証明しつつあることあり、こ此程片腹痛きことなし」と述べているが、失礼を承知で言うのだが、漱石と同じ思いに何度も陥った。
制度上規定されている採決ということが、行われるのならば、自分の意思をはっきり表明しなくてはならないのだが、採決を要望しても採決をしたことは、記憶によれば一度しかない。
教授たちは下を向いていれば、自分の意思表示をしなくても済んでしまう。こういう状態を見ると、日頃、学生たちに、きちんと自分の意見を述べよと教えていないのかと疑ってしまう。
こういう沈黙の教授たちは、いかなる不正が行われても態度は、変わらない。明らかに不当で、異議が出て当然ということが幾度もあった。
例えば、大学院では、ある教授が、某教授に向かって「知的犯罪者」という言葉まで使って罵倒したことがあった。しかし、この時にもこんな品位のない出鱈目な発言を批判するような教授はいなかった。
一に述べたように教員は、教授会の議事などに関心を持たないともいえるが、とにかく自己の身を守るための「事なかれ主義」の教授が多すぎる。