これから、Y学部長の盗作について述べようと思う。ただ、盗作を扱う前に大学教員にとっての論文の持つ意味について述べてみたい。
大学教員の業務は教育と研究とされている。教育という言葉が先にあるのだから、教育が研究より優先されているといえるだろう。
しかし、一般に教員の意識としては、この順位は逆で研究の方を重視している。
教育が重視されるようになった今でも、研究の方に意識が向いている教員が大多数だと思われる。もちろん、これには実利的な意味合いもある。というのは、昇格条件にしても、教育業績という文言はあるが、教育の評価をすることは難しいので事実上評価の対象にならない。結局は研究業績によって決まることになる。こうした意味でも、論文発表(研究)は重視されている。
理系のことは分からないが、文系ではこの研究が、随分揶揄されてきた。業績作りのための、評価に値しない論文が乱造されるという揶揄である。大学紀要などはこの種の論文に満ちていると批判される。確かにそうした側面がないとはいえない。
私の経験でも、文部科学省の助成金を貰った研究を学内紀要の論文にして発表しても、問い合わせがあったのは、ほんのわずかである。だから、ほとんど誰の眼にも触れずに埋もれてしまう。 このように客観的には、評価を期待できないような論文を書いているとしても、ほとんどの大学教員は研究者(論文はその外に現れたしるし)に自己のアイデンティティを求めているものと思う。
だから、研究者として否定されることは、同時に大学教員としての否定でもある。そこで、絶対にやってはならないことは剽窃である。剽窃をすれば、大学教員がよってたつ根拠を失うからである。それをY学部長は犯した。