釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~ -227ページ目

『動的平衡』 By くいだおれ太郎

最近『動的平衡(どうてきへいこう)』という本が出ました
(木楽舎刊、福岡伸一著)。
釈迦むに・スーパースター ~そのうち悟りたい~-福岡
著者の福岡先生(右写真)は、『生物と無生物のあいだ』という、
地味そうな本が奇跡のベストセラーとなった、分子生物学の先生です。
福岡先生の本は、とっても面白いです。


実は『動的平衡』は、まだこれから読むのですが、
今日(2009年3月9日)の同書の新聞広告に、
福岡先生のこんな言葉が掲載されています。


「私たちは、自分は自分だ、自分の身体は自分のものだ、
という風に、確固たる自己の存在を信じているけれど、
それは実は思うほど確実なものではない


私たちの身体は、タンパク質、炭水化物、脂質、核酸
などの分子で構成されている。しかし、それらの分子は
そこにずっととどまっているのでもなければ、固定され
たものでもない。(中略)


実体としての分子はそこにはない。
1年前の私と今日の私は、分子的に言うと全くの別物である。
(中略)

つまり、私たちの身体は分子の『淀み』でしかない。
それも、ほんの一瞬の。私たちの生命は、分子の流れの中
にこそある


これは、『生物と無生物のあいだ』の中でも書かれていた、
分子生物学の現在到達した地点です。


もうおわかりかもしれませんが、
恐ろしいほどに、お釈迦さまの言ったことと同じなのですね。


すべてのものは、常に一定ではなく変化するという「諸行無常」。
すべてのものは、不変の本質を持たないという「諸行無我」。


自分探しなんて、しても仕方ないのです。
確固たる自分なんて存在しないのですから。


福岡先生は、ここ数年、メディアなどから、
「仏教者と対談してほしい」という依頼が増えているそうです。


今から、約2500年前に、お釈迦さまが考えたことが、
現在の最先端の科学と一致するというのは、恐るべきことです。
釈迦には電子顕微鏡とか、コンピュータとかもなかったのに。


だから、釈迦の仏教は、「信じる」かどうかという問題ではなく、
だって本当なんだからしょうがねーじゃん、という、
真理、覚醒の世界なのですね。


しかし、福岡伸一先生は、
道頓堀の、今は亡き「くいだおれ太郎」そっくりと思うのですが、
いかがなものでしょうか。







シッダールタ(ヘルマン・ヘッセ)


お釈迦さまの生涯について、いろいろな研究書・解説書はあるのですが、
「小説仕立て」はそれほど多くありません。
そのうちの一つが、この『シッダールタ』(新潮文庫)

中学の課題図書で『車輪の下』を読まされたりする、釈迦むに・スーパースター ~そのうち悟りたい~-ヘッセ
あのヘルマン・ヘッセの小説です。


仏教界でどう評価されているのかは知らないのですが、
わたくしとしては、大変に好きな一冊です。


これは、釈迦の一生と銘打っているわけではなく、
仏教者の悟りへの道を小説にしたと言ってますが、
まあ普通に考えて、お釈迦さまの生涯の小説化でしょう。
ただ、学問的・歴史的な厳密さより、
文学性を重視している、ということなのでしょう。


シッダールタは、なかなか悟りません。
女を見て欲情に悶々としたり、
捨ててきた息子への愛=執着が捨てきれなかったり・・。


しかし、最後にシッダールタが浮かべる微笑は―ー


「静かな、美しい、はかり知れぬ、おそらくやさしい、
おそらく嘲笑的な、賢い、千様もの仏陀の微笑であった。」


「その顔は、今しがたまであらゆる姿、あらゆる生成、
あらゆる存在の舞台であったが、その表面の下で千差万別の
深い神秘が幕を閉じた後は、不変不動であった。」


(高橋健二訳)



「嘲笑的な」というところが、好きなのです。
とにかく、美しい小説であります(書かれたのは1922年)。


たとえば「愛」と訳されている言葉は、、
ヘッセにとって、仏教にとって、どういう概念か? とかいう、
考えるべきことはたくさんあるのでしょう、でもとにかく美しく面白い。


少し前に、世田谷の「東京禅センター」で、
「シッダールタを読む」という講義があったのに
寝坊して行き損ねたのが悔やまれてなりません。




阿修羅展と元ヤン

国立博物館平成館で6月まで行われている「国宝・阿修羅展」が
大人気のようです。
私は何度か興福寺で拝観したので行かないつもりですが、
興福寺では、無粋なガラスケースに入っているので、
今回博物館で見られるのは行く価値ありでしょう(混んでるけど)。釈迦むに・スーパースター ~そのうち悟りたい~


阿修羅展の主催者が仕掛けた「阿修羅ファンクラブ」は
会員が8000人だそうで、なんで日本人はこんなに阿修羅が好きなのか。


◆ 阿修羅は元ヤンみたいな感じ? ◆


阿修羅は仏教では、とんでもなく深い海底に住む元・悪神ですから、
仏像業界において、かなり位が低い存在です。
以前は興福寺でも、この阿修羅像は隅っこにほうっておかれたそうです。


興福寺貫首・多川俊映さんの講演で聞いたのですが、
「位の高い僧侶は、阿修羅像のあるお堂に行かなかったので、
 その存在を知らなかった」そうです。

だから阿修羅人気は歴史が浅いのでしょうが、
人気に気づいて阿修羅で「村おこし」ならぬ「寺おこし」をした人は、
賢いですよね。


人間・釈迦むにが説いた仏教には、阿修羅はもちろん、ナントカ天とか、
阿弥陀さえ存在しなかったのが、時代とともにキャラが多様化しました。
さまざまな地域のさまざまな神が、仏教にまじりあったりもしました。

阿修羅は、悪い神さまだったのが、反省して釈迦に帰依したと。


そういうところが人気の理由なんだと思います。
元ヤクザが目覚めて神父になったとか、元ヤンキーが教師になったとか、
そういう「悪人が悔い改める話」は、普遍的に人気があるんですね。


◆ 阿修羅で思い出すゾロアスター教のこと ◆

もともと阿修羅が何だったのか諸説ありますが、よく言われるのは、
ゾロアスター教の最高神「アフラ・マズダー」ら、ペルシア起源の神が
インドに伝わり、めぐりめぐって「阿修羅」になったという説です。
ahura(アフラ)とasura(アスラ=阿修羅)、名前も似てますけどね。


出た、ゾロアスター教!
ゾロアスター教は、紀元前6~7年にペルシャ(今のイラン)で生まれ、
私たちにはほとんど関係ないはずですが、
思い出した頃に、この名前を聞くことがあるのです。例えば、


・1910~1962年頃まで、どこの家でも使われていた東芝の「マツダランプ」。
 MAZDA Lampは、ゾロアスター教の光の神「アブラ・マズダ」が由来だった。


・読んでチンプンカンプンだったニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』。釈迦むに・スーパースター ~そのうち悟りたい~-フレディ
 このツァラトゥストラとは、ゾロアスターのことだと後に知ってびっくり。
 じゃあニーチェは、一応神であるアフラ・マズダに「神は死んだ」と言わせて、
 キリスト教にケンカを売ったわけなのか?

・クイーンのフレディ・マーキュリー(本名:ファルーク・バルサラ)は、
 ゾロアスター教系ペルシア人の末裔らしい。インドでイスラムへの改宗を拒否
 したペルシア人「パールシー」の子孫だという。HIVで亡くなった。

・10年ほど前にイランに行ったら、まだゾロアスター教徒がいるらしい。
 岩がゴツゴツした恐ろしい山の前で、ガイドさんが
 「あの頂上に、ゾロアスター教の埋葬場があります。死人をあそこにおいて、
  鳥がきて、まず右の目を突いたら悪人、左ならいい人です(左右は逆かも)」
 と言っていた。いまだに鳥葬なんですね・・。



全く知らないのに、たまーに意識に浮上してくるゾロアスター、
阿修羅もそのうちのひとつです。