前回は奈良時代でしたが、地獄の税制度と中央での権力争いによって日本国内は乱れに乱れていました。また、仏教勢力も相当力をつけ、ついには政治に口出しするようにもなりました。

 

 

誰でもわかる日本史平安時代

 まず、平安時代は日本の時代区分の中で最も長いです(原子は除く)。ですので一気に覚えるのはしんどい範囲でもあります。そこで、平安時代は4つに分けましょう。分け方は政治の権力者が変わる時です。

 ①天皇の時代→②藤原氏の時代→③上皇の時代→④武士の時代 と移り変わっていきます。

 

 

 平安時代①(天皇の時代)

 まず初めは天皇の時代です。その天皇は桓武天皇です。桓武天皇は奈良での仏教勢力の政権介入に嫌気が差し、794年に平安京に遷都します。「鳴くよ(794)うぐいす平安京」は数ある語呂合わせの中でもアレと並んで最も有名なものですね。桓武天皇は奈良仏教の勢力を牽制しつつも、天台宗の開祖である最澄を唐へ派遣するなどと、仏教そのものを日本から消そうとしたわけではありませんでした。

 

 当時の大和政権の支配領域に東北地方は含まれておらず、そこに蝦夷(えみし)と呼ばれる、朝廷に従わない人たちが暮らしていました。これを討伐し、日本全域を支配したかった桓武天皇は討伐軍を差し向けます。坂上田村麻呂は、蝦夷を征服するための軍を率いる大将という意味で「征夷大将軍」に任命されます。こうして3度差し向けた討伐軍によって蝦夷を服従させます。4度目も考えていましたが超絶優秀な部下(菅野真道と藤原緒嗣)に諌められてやめました。ここまでが桓武天皇の時代です。

 

 

 平安時代②(藤原氏の時代)

 この時代、とある貴族が権勢を振るいます。それが藤原氏です。藤原鎌足の子孫である彼らは、自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を次の天皇にすることで、天皇家の外戚となります。さらにその権力を使い、摂政・関白の位を独占します。関白とは、摂政がついた子供の天皇が成人した時に政治をサポートする役職です。つまりずっと政治に口を出し続けるよってことです。このような政治を摂関政治と言います。

 

 さらに有能なライバルたちも朝廷から排除し、その権力は天皇を優に超えている状態でした。排除されたライバルの中で一人覚えておいて欲しい人がいます。それが菅原道真です。菅原道真は非常に優秀で、幼少の頃から大人も感嘆するほどの歌を作るような人物でした。ですので彼は「学問の神様」として現在に伝わっています。

 

 彼は894年に遣唐使の廃止を実行します。唐が滅びそうだからという理由でしたが、実際その後すぐに唐は滅びています。こうも優秀な人物は藤原氏の繁栄の邪魔になると考えたので、ありもしない罪を被せて九州に移動させてしまいます。この後菅原道真の祟りなのか、都では不幸が相次ぎ、日本三大怨霊の一人となりました。つまりですよ、彼の名前を忘れた受験生は、「学問の神」であり「日本三大怨霊」の名前を忘れたことになるのでしっかり覚えましょうね。

 

 話は藤原氏に戻りますが、藤原道長・頼通親子の時に彼らの権力は全盛期を迎えます。もはや並ぶもののいない状態に藤原道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠んでいます。「満月のように満ち足りた人生だなあ」という意味です。最強か。

 

 

 平安時代③(上皇の時代)

 天皇は通常引退すると上皇となります。上皇は院という場所で暮らすこととなります。また幼い皇太子に天皇位を授けることで、院から政治の命令を下すことが可能でした。これを院政と言います。

 

 朝廷に話を戻します。藤原氏を外祖父(母方の祖父)に持たない天皇である後三条天皇は、藤原氏の権威を落とすことを考えました。荘園の整理を行い藤原氏を牽制しつつ、皇位を子の白河天皇に譲り自らは上皇となります。その際に白河天皇の皇太子には藤原家の子供ではない者を指名し、ここでも摂関政治を牽制します。

 

 後三条上皇が亡くなると、白河天皇は意向を無視して自らの子(堀河天皇)に天皇位を譲り、自分は上皇となります。さらに摂政に堀河天皇の外祖父ではない藤原氏を指名し、ここに従来の摂関政治の慣例は失われ、摂関家が代々摂政・関白を継いでいくことになります。さらに堀河天皇が亡くなるとわずか5歳の鳥羽天皇を指名して即位させます。

 

 こうして権力を上手にコントロールした白河天皇はあらゆる重要事の決定権を有します。白河上皇のような実質的な支配者を「治天の君(ちてんのきみ)」と呼び、これこそが院政の始まりでした。院政では院からの命令が来るのですが、当時は誰も逆らえません。

 

 これを快く思っていなかったのがちょっと大人になった鳥羽天皇でした。二人は対立しますが、白河上皇の権力は圧倒的で、鳥羽天皇は19歳で退位させられ、崇徳天皇が即位します。この事件のせいで、鳥羽上皇は崇徳天皇に対していい思いは持っていませんでした(崇徳天皇は鳥羽上皇の子供です)。やがてその元凶とも言える白河上皇が亡くなります。

 

 ここで事件が起こります。鳥羽上皇は新たに生まれた自らの子を崇徳天皇の養子にします。そして自分がやられたように崇徳天皇を退位させ、養子にした子である近衛天皇を即位させます。崇徳天皇改め崇徳上皇は「将来院政できるからまあいっか」と思います。しかし、鳥羽上皇の発表は、近衛天皇は崇徳上皇の「子」ではなく「弟」ということでした。これは「皇太子」ではなく「皇太弟」への譲位です。一番最初に述べたように皇太子に位を譲らないと院政はできません。崇徳上皇は院政への道をたたれてしまったのです。

 

 

 平安時代④(武士の時代)

 朝廷が天皇と上皇の間でぐだぐだしている頃、各地の荘園では自警団が現れていました。その自警団は集団を作り戦いに明け暮れていました。彼らは武士と呼ばれその集団を武士団と言います。武士団は棟梁をリーダーとしてまとまり、徐々に存在感を出してきました。

 

 935年、939年に平将門(こやつも日本三大怨霊です)の乱と藤原純友の乱という反乱が起きます。関東と瀬戸内で起こった反乱ですが、武士によって鎮圧されます。さらに東北では前九年の役、後三年の役が起こりますがこれも武士によって鎮圧されます。そんな武士たちの間でも頭角を表したのが源氏と平氏でした。彼らは非常に強く、源氏は清和天皇、平氏は桓武天皇の血筋でもあり権力は徐々に膨れていきます。

 

 そんな頃、先に述べた崇徳上皇は、当時の天皇である後白河天皇に追い詰められ挙兵します。こうして上皇VS天皇となったのですが、藤原氏、源氏、平氏もそれぞれが二つにわかれ上皇側と天皇側につき争います。この戦いを保元の乱と言います。勝ったのは強力な味方である平清盛と源義朝を味方につけた後白河天皇でした。敗れた崇徳上皇は讃岐に流されそこで生涯を閉じます。一説では朝廷を超絶恨んでおり、その死後様々な厄災をもたらしたと言われています。なので日本三大怨霊の一人に数えられています。

 

 さてこれで後白河天皇の時代ですが、協力した平清盛と源義朝の待遇に差をつけます。これに激怒したのが源義朝でした。ここに平清盛VS源義朝の戦いが起こり、これを平治の乱と言います。勝ったのは平清盛で、源義朝は死に、その子の頼朝は伊豆に流されます。さらに平清盛は太政大臣にまで上り詰め、自分の娘を天皇の妃にすることで天皇家の外戚になるという鉄板の手法で権力をましていきます。ここからしばらくは平清盛の時代です。

 

 平清盛は唐から宋に代わっていた中国と貿易をはじめ(日宋貿易)、そのために大輪田泊という兵庫の港を改修しています。さらには安全祈願のため厳島神社を保護し、「平家納経」を納めています。平氏は平清盛の加護もあり、その権力は異常なまでに膨れ上がっていました。これらを快く思っていないのは平氏以外の武士たちです。それらの武士は、伊豆で成長し大人になった源頼朝(義朝の子)を担ぎ上げ平氏に対抗します。ここに源平合戦が始まりました。

 

 頼朝の弟に源義経という人がいました。この人なんですが、戦いの化け物みたいな人で、びっくりするような戦術をいくつも用いて各地で平氏を撃破します。勝ち続けた平氏は本州の西の端である山口県壇ノ浦に追い込まれ、そこでも敗北したことで平氏は滅亡しています。こうして平氏を倒した源氏は新たな権力者となって全国を支配することになります。

 前回の続きです。今回は奈良時代です。前回は日本に大和朝廷が誕生し、トップである天皇に権力を集めるべく、聖徳太子、中大兄皇子らが活躍しました。その続きです。

 

誰でもわかる日本史奈良時代

 

 

 

 奈良時代

 

 710年、元明天皇によって平城京に都がうつされてからを奈良時代と言います。奈良時代には国民の生活は非常に苦しいものになっていきます。それは税制度のせいです。以下にまとめます。

 

・・・収穫したの3%

調・・・地方ごとの特産品

・・・10日間の兵役か

・雑瑤・・・60日間の雑用

・衛士・・・都の警備

防人・・・北九州で3年間の防衛

 

 これらが奈良時代に課された税制度です。調・庸は都に納めなければならず、その道のりも非常に険しいものでした。天智天皇によって作られた戸籍をもとに班田収授法で口分田が与えられ、これらの税制度から逃れることは容易ではありませんでした。

山上憶良は『万葉集』に収められた『貧窮問答歌』に、その時代の厳しい生活の様子を残しています。

 

【低くつぶれかけた家、曲って傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊く事も忘れたふうで、かぼそい力のない声でせがんでいるのに、短いものの端を切るということわざと同じように、笞を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。】

 

 このような状況ではありますが、人口は増えていきます。さらに国民の中には口分田を捨てて逃亡したものも多く、もともとあった田畑も荒れ果ててしまいます。そうすると新たに与えるための口分田が足りなくなります。そこで朝廷(天皇たちが政治をする場所やその組織・政府のこと)は、口分田を増やすために新しく土地を耕す(開墾する)ように命令します。しかし口分田が増えると税金も増えるという地獄のシステムなので、誰もその命令を聞きません。

なので朝廷は、新しく開墾した土地はその後3世代に渡り私有地にしてもいい、という「三世一身法」を出します。しかし当時の3世代など今ほど長くもありませんし、最終的に国に取り上げられてしまうものをわざわざ開墾するか!ということであまり効果はありませんでした。

 そこで朝廷は苦肉の策で、新たに開墾した土地は永久に私有地にしても良いという「墾田永年私財法」を出します。これには国民も飛びつきます。そして全国各地に私有地=天皇所有ではない土地が多く誕生します。こういった土地を「荘園」と呼びます。荘園は口分田とは違い守るのも自分たちでやらねばなりません。ですので地域の有力者や寺院、貴族などに土地を渡してその使用料を払うことで守ってもらう人々も出てきました。この荘園を渡す行為のことを「土地を寄進する」と言います。貴族や寺院はこれに乗っかり、人々を利用して田畑を開墾させ、勢力を広げていきました。

 

 さてそんな頃、朝廷では熾烈な権力争いが繰り広げられていました。藤原鎌足(中臣鎌足)の子である藤原不比等とその子たちは権力を欲していました。藤原不比等がどうにか権力の礎を築きます。そして藤原不比等の死後、藤原氏(不比等の四人の子)は当時の朝廷の権力者であった長屋王を謀殺します。しかしここで、その藤原氏が相次いで病死し、さらには地震まで起こります。これに怯えたのは聖武天皇でした。これらの災いを長屋王の呪いと考え、僧の行基の協力を得て、全国に国分寺、国分尼寺を建て、総国分寺として東大寺を建てます(でっかい大仏も)。

聖武天皇はこうして仏教に頼ることで国内の災いを打ち消そうとしました。この考えを「鎮護国家」と言います。こうなると仏教の及ぼす力は非常に強くなり、僧はついに政治にも口を出し始めます。行基の他にも失明しながら日本にやってきた鑑真は唐招提寺を建てたりもして仏教の勢いは留まることがありませんでした。朝廷は皇族、貴族、僧が権力を分け合う混沌とした時代になりました。これを嫌い、桓武天皇は平安京への遷都を行うことになります。

 

 少し話は変わって、この時代はさまざまな書物が作られました。以下にまとめます。

 

日本書紀・・・日本最初の勅撰(天皇の命令で作られた)の歴史書です。

風土記(ふどき)・・・各地方についての情報をまとめた書物です。

古事記・・・現存する日本最古の歴史書です。

万葉集・・・大伴家持が編纂にたずさわり、実に4500首もの歌が収められています。

 

 

 こんにちは。前回の続きです。前回は弥生時代までやりましたのでその復習です。

旧石器時代・・・人々は移動しながら狩りをして暮らす。

縄文時代・・・定住をはじめるが、相変わらず狩りや採集をして暮らす。

弥生時代・・・稲作の伝来により貧富の差ができ始める。村同士の争い・吸収があり、「くに」ができ始める。

 

さて、その国ですが100余りあったものが統合を繰り返し、30ほどに減ってきました。どの国が1位を獲るのか見ていきましょう。

 

 

誰でもわかる日本史古墳・飛鳥時代

 

 古墳時代

 この時代、各国のトップは王とも呼ばれ、地方の有力な一族(豪族)を従えることで権力を保っていました。そんな王たちは立派なお墓を建てることが権力の象徴でもありました。そんなお墓は古墳と呼ばれそれが各地に建てられます。だから古墳時代です。また、古墳には様々な形があり、まんまるの円墳、四角い方墳、またそれらを上下や前後に組み合わせたものが存在しました。その中でも最も権力のあるものの作れる古墳が前に円墳、後ろに方墳の「前方後円墳」でした。鍵みたいな形をしているものですね。有名どころで言えば大阪の大山古墳(だいせんこふん=仁徳天皇陵)などがあります。

 

 さて、この時代にメキメキと力をつけてきた国がありました。それが大和政権です。呼び方は大和王権、大和朝廷などなど様々ありますが、とにかくこの大和政権が九州から東北地方南部までを掌握します。中心は奈良地方です。非常に支配的な力を持ったこの国はほぼ日本全土をおさめていましたが、そのトップを「大王」とかいて「おおきみ」と呼びます。この大王を中心に豪族たちが各地を治めるシステムでした。豪族たちは一つの集団ごとに氏(うじ)と呼ばれ、蘇我氏や物部氏などがいました。また、中央で働く豪族には姓(かばね)という役職みたいなものが与えられました。そして、その役職には仕事があり、ある姓を持つ氏に所属している者は代々その仕事につけることになりました。これらのシステムを氏姓制度(しせいせいど)と言います。

 

 例として、蘇我氏という有力豪族がいました。蘇我という氏の集団ですが、彼らは臣という姓を代々受け継いでいました。臣という姓を持っていると政治に参加できるのですが、蘇我氏のリーダーは蘇我氏であるということで、臣の姓を与えられているので、政治に参加できたわけですね。

 しかしこの制度、家柄さえあれば、氏のリーダーがどれだけアホでも姓を継承できますので、よくない制度であるとも言えますね。

 

 このころ日本には朝鮮半島の百済(くだら)という国から度々、渡来人という人がやってきて、様々な技術や文化を伝えてくれました。鉄製の農具や、カチカチの土器である須恵器(すえき)の製造法、他にも漢字や仏教などの文化も伝わります。この中でも仏教は日本を大きく変えます。

 それは仏教を受け入れるか否かという話です。日本には古来より、至る所に神様がいるという考えがあり、その神々を崇拝する、神道(しんとう)と呼ばれる日本特有の信仰がありました。千と千尋の神隠しで温泉に入りにきている八百万(やおよろず)の神々たちは神道が背景にあります。

 ここに他国から、神のいない神秘的な宗教である仏教が入ってきたわけです。この仏教を受け入れようと動いたのが蘇我氏でした。対して物部氏という有力豪族は仏教を拒否します。争いの末、蘇我氏が勝利し、物部氏は表舞台から姿を消します。こうして日本には仏教が受け入れられ、国家プロジェクトとして広がっていくことになります。

 

 

 

 飛鳥時代

 飛鳥時代は2つに分けて覚えましょう。前半は聖徳太子と蘇我氏の時代。後半は中大兄皇子の時代です。

 

 

 

飛鳥前半

 

 飛鳥時代になると、中国では400年ぶりに「」という国が中国を統一し、対外的な圧力を高めていきました。そんなこともあり、隋に対抗するために、大和政権ではリーダーである天皇(大王がこの辺りの時代から対外的に天皇と名乗る※諸説あり)に権力を集めようという動きが出てきます。

 そこで活躍したのが聖徳太子です。聖徳太子は日本初の女性天皇である推古天皇の甥にあたり、蘇我氏の血縁でもあります。当然ですが推古天皇も蘇我氏の血縁です。ですので推古天皇・聖徳太子・蘇我氏は血縁をもととした強固な団結で国を変える政治を行います。その政治には素晴らしい政策が2つあります。

 

冠位十二階・・・これまで氏姓制度を廃して、家柄ではなく個人を能力で評価するもので、優秀な人材を集めることができました。また昇進も可能で、中国のシステムを真似たものとなります。

 

十七条の憲法・・・役人の心構えをまとめたものです。政治をするにあたっての規定や道徳的規範を豪族に示しました。

 

 これらの政策(特に冠位十二階)は非常に効果的で、二つとも構成の日本の政策に大きく影響を与えました。またこのころ隋に対して使者を送っています。この使者は遣隋使と呼ばれ、初の遣隋使は小野妹子(という名のおじさん)でした。聖徳太子は小野妹子に手紙を持たせましたが、その手紙には

「日が昇る国の天皇が、日が沈む国の皇帝に手紙を差し上げます。」

と書かれており、隋の皇帝はこれを見て激怒します。隋の皇帝は、日が昇る=勢いのある国、日が沈む=没落する国と読み取ったからです。大帝国を怒らせたので日本は終わりか・・・と思いきや、隋は朝鮮半島の高句麗と戦争中だったのでセーフでした。しかも失敗して反乱起きて隋はすぐに滅びてます。その後唐になります。

 この無礼な手紙は聖徳太子が隋にへりくだるわけではなく、対等に外交関係を開きたいという意思の表れでした。まあ使者の小野妹子はきっとガクブルだったと思いますが。

 他にも聖徳太子は法隆寺や四天王寺の建立に携わるなど様々な功績を残しました。

 

 

 

飛鳥後半

 

 そんな聖徳太子も亡くなったころ、蘇我氏の権力は天皇を凌ぐほどになっていました。それを快く思っていないのは天皇家でした。そんな天皇家に中大兄皇子という人物がいました。645年、彼は中臣鎌足と協力して蘇我蝦夷・入鹿の親子を排除することに成功します(端的にいうと入鹿を殺害して蝦夷は自殺します)。こうして蘇我氏は表舞台から姿を消しました。

 ここから中大兄皇子の怒涛の政治改革が始まります。またこのころ日本で初の年号が定められ「大化」としました(そのシステムがずっと続き今は「令和」です)。ですのでこの蘇我氏排除の事件からの一連の政治改革を大化の改新と呼びます。また中臣鎌足は功績を認められ「藤原」という姓をもらって藤原鎌足と名乗ります。

 まず中大兄皇子は日本で初めての戸籍を作ります。戸籍とは誰がどこに住んでいるかを年齢・家族構成もこみでまとめたものです。この戸籍を庚午年籍(こうごねんじゃく)といいます。

 さらに蘇我氏のような豪族が2度と現れないように、中央集権化を強化します。皇族に力を集めることで豪族の力を相対的に削ぎ落とすというわけですね。こうして全ての土地と全ての民を天皇(国家)のものとする公地公民が発令されました。

 さらにさらに、班田収授法が定められます。これは、もう全ての土地は天皇のものになりましたが、天皇とその愉快な仲間たちだけでは田んぼや畑を耕せないので国民に貸し与えることにします。当然貸し与えるので死んだら返してもらいます。このような土地を口分田といい、先ほど作った戸籍を活用して管理しました。

 さらにさらにさらに、税制度も改革して新たに国民に負担を強います。この制度が次の奈良時代に国民を地獄に突き落とします。

 これらの政治改革は改新の詔(みことのり)と呼ばれ、日本のシステムは大幅に変えられました。またこれを法律として明記・整理したのが701年に定められた大宝律令です。

 

 そんな中大兄皇子も失敗はしています。それが白村江の戦いです。百済から救援要請を受けた日本は軍を朝鮮半島に派遣し、ここで唐(中国)・新羅(朝鮮半島の国の一つ)の連合軍と戦います。しかし日本軍は敗戦し、百済も滅亡します。逃げ帰った日本は敵が追って上陸する可能性のある北九州に守りの兵をおきます。その兵を防人(さきもり)といいます。

 

 さて、もう一つ。中大兄皇子は即位(天皇になること)して天智天皇となります。まあその後亡くなってしまったんですが、ここで問題が起きます。それは天智天皇の弟である大海人皇子が天皇を継ごうとしました。順当にいけば息子である大友皇子が継ぐはずです。しかし、これは歴史では避けて通れない問題で、天皇家も例に漏れず後継争いを始めます。この叔父VS甥っ子の仁義なき後継者争いを壬申の乱(じんしんのらん)といいます。結果は叔父が大人気なく勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位します。その後大宝律令が定められ時代は奈良時代へと移っていきます。ちなみに大友皇子は敗れて自殺しています。

 

以上が古墳・飛鳥時代でした。次回は奈良時代です。