こんにちは。前回の続きです。前回は弥生時代までやりましたのでその復習です。

旧石器時代・・・人々は移動しながら狩りをして暮らす。

縄文時代・・・定住をはじめるが、相変わらず狩りや採集をして暮らす。

弥生時代・・・稲作の伝来により貧富の差ができ始める。村同士の争い・吸収があり、「くに」ができ始める。

 

さて、その国ですが100余りあったものが統合を繰り返し、30ほどに減ってきました。どの国が1位を獲るのか見ていきましょう。

 

 

誰でもわかる日本史古墳・飛鳥時代

 

 古墳時代

 この時代、各国のトップは王とも呼ばれ、地方の有力な一族(豪族)を従えることで権力を保っていました。そんな王たちは立派なお墓を建てることが権力の象徴でもありました。そんなお墓は古墳と呼ばれそれが各地に建てられます。だから古墳時代です。また、古墳には様々な形があり、まんまるの円墳、四角い方墳、またそれらを上下や前後に組み合わせたものが存在しました。その中でも最も権力のあるものの作れる古墳が前に円墳、後ろに方墳の「前方後円墳」でした。鍵みたいな形をしているものですね。有名どころで言えば大阪の大山古墳(だいせんこふん=仁徳天皇陵)などがあります。

 

 さて、この時代にメキメキと力をつけてきた国がありました。それが大和政権です。呼び方は大和王権、大和朝廷などなど様々ありますが、とにかくこの大和政権が九州から東北地方南部までを掌握します。中心は奈良地方です。非常に支配的な力を持ったこの国はほぼ日本全土をおさめていましたが、そのトップを「大王」とかいて「おおきみ」と呼びます。この大王を中心に豪族たちが各地を治めるシステムでした。豪族たちは一つの集団ごとに氏(うじ)と呼ばれ、蘇我氏や物部氏などがいました。また、中央で働く豪族には姓(かばね)という役職みたいなものが与えられました。そして、その役職には仕事があり、ある姓を持つ氏に所属している者は代々その仕事につけることになりました。これらのシステムを氏姓制度(しせいせいど)と言います。

 

 例として、蘇我氏という有力豪族がいました。蘇我という氏の集団ですが、彼らは臣という姓を代々受け継いでいました。臣という姓を持っていると政治に参加できるのですが、蘇我氏のリーダーは蘇我氏であるということで、臣の姓を与えられているので、政治に参加できたわけですね。

 しかしこの制度、家柄さえあれば、氏のリーダーがどれだけアホでも姓を継承できますので、よくない制度であるとも言えますね。

 

 このころ日本には朝鮮半島の百済(くだら)という国から度々、渡来人という人がやってきて、様々な技術や文化を伝えてくれました。鉄製の農具や、カチカチの土器である須恵器(すえき)の製造法、他にも漢字や仏教などの文化も伝わります。この中でも仏教は日本を大きく変えます。

 それは仏教を受け入れるか否かという話です。日本には古来より、至る所に神様がいるという考えがあり、その神々を崇拝する、神道(しんとう)と呼ばれる日本特有の信仰がありました。千と千尋の神隠しで温泉に入りにきている八百万(やおよろず)の神々たちは神道が背景にあります。

 ここに他国から、神のいない神秘的な宗教である仏教が入ってきたわけです。この仏教を受け入れようと動いたのが蘇我氏でした。対して物部氏という有力豪族は仏教を拒否します。争いの末、蘇我氏が勝利し、物部氏は表舞台から姿を消します。こうして日本には仏教が受け入れられ、国家プロジェクトとして広がっていくことになります。

 

 

 

 飛鳥時代

 飛鳥時代は2つに分けて覚えましょう。前半は聖徳太子と蘇我氏の時代。後半は中大兄皇子の時代です。

 

 

 

飛鳥前半

 

 飛鳥時代になると、中国では400年ぶりに「」という国が中国を統一し、対外的な圧力を高めていきました。そんなこともあり、隋に対抗するために、大和政権ではリーダーである天皇(大王がこの辺りの時代から対外的に天皇と名乗る※諸説あり)に権力を集めようという動きが出てきます。

 そこで活躍したのが聖徳太子です。聖徳太子は日本初の女性天皇である推古天皇の甥にあたり、蘇我氏の血縁でもあります。当然ですが推古天皇も蘇我氏の血縁です。ですので推古天皇・聖徳太子・蘇我氏は血縁をもととした強固な団結で国を変える政治を行います。その政治には素晴らしい政策が2つあります。

 

冠位十二階・・・これまで氏姓制度を廃して、家柄ではなく個人を能力で評価するもので、優秀な人材を集めることができました。また昇進も可能で、中国のシステムを真似たものとなります。

 

十七条の憲法・・・役人の心構えをまとめたものです。政治をするにあたっての規定や道徳的規範を豪族に示しました。

 

 これらの政策(特に冠位十二階)は非常に効果的で、二つとも構成の日本の政策に大きく影響を与えました。またこのころ隋に対して使者を送っています。この使者は遣隋使と呼ばれ、初の遣隋使は小野妹子(という名のおじさん)でした。聖徳太子は小野妹子に手紙を持たせましたが、その手紙には

「日が昇る国の天皇が、日が沈む国の皇帝に手紙を差し上げます。」

と書かれており、隋の皇帝はこれを見て激怒します。隋の皇帝は、日が昇る=勢いのある国、日が沈む=没落する国と読み取ったからです。大帝国を怒らせたので日本は終わりか・・・と思いきや、隋は朝鮮半島の高句麗と戦争中だったのでセーフでした。しかも失敗して反乱起きて隋はすぐに滅びてます。その後唐になります。

 この無礼な手紙は聖徳太子が隋にへりくだるわけではなく、対等に外交関係を開きたいという意思の表れでした。まあ使者の小野妹子はきっとガクブルだったと思いますが。

 他にも聖徳太子は法隆寺や四天王寺の建立に携わるなど様々な功績を残しました。

 

 

 

飛鳥後半

 

 そんな聖徳太子も亡くなったころ、蘇我氏の権力は天皇を凌ぐほどになっていました。それを快く思っていないのは天皇家でした。そんな天皇家に中大兄皇子という人物がいました。645年、彼は中臣鎌足と協力して蘇我蝦夷・入鹿の親子を排除することに成功します(端的にいうと入鹿を殺害して蝦夷は自殺します)。こうして蘇我氏は表舞台から姿を消しました。

 ここから中大兄皇子の怒涛の政治改革が始まります。またこのころ日本で初の年号が定められ「大化」としました(そのシステムがずっと続き今は「令和」です)。ですのでこの蘇我氏排除の事件からの一連の政治改革を大化の改新と呼びます。また中臣鎌足は功績を認められ「藤原」という姓をもらって藤原鎌足と名乗ります。

 まず中大兄皇子は日本で初めての戸籍を作ります。戸籍とは誰がどこに住んでいるかを年齢・家族構成もこみでまとめたものです。この戸籍を庚午年籍(こうごねんじゃく)といいます。

 さらに蘇我氏のような豪族が2度と現れないように、中央集権化を強化します。皇族に力を集めることで豪族の力を相対的に削ぎ落とすというわけですね。こうして全ての土地と全ての民を天皇(国家)のものとする公地公民が発令されました。

 さらにさらに、班田収授法が定められます。これは、もう全ての土地は天皇のものになりましたが、天皇とその愉快な仲間たちだけでは田んぼや畑を耕せないので国民に貸し与えることにします。当然貸し与えるので死んだら返してもらいます。このような土地を口分田といい、先ほど作った戸籍を活用して管理しました。

 さらにさらにさらに、税制度も改革して新たに国民に負担を強います。この制度が次の奈良時代に国民を地獄に突き落とします。

 これらの政治改革は改新の詔(みことのり)と呼ばれ、日本のシステムは大幅に変えられました。またこれを法律として明記・整理したのが701年に定められた大宝律令です。

 

 そんな中大兄皇子も失敗はしています。それが白村江の戦いです。百済から救援要請を受けた日本は軍を朝鮮半島に派遣し、ここで唐(中国)・新羅(朝鮮半島の国の一つ)の連合軍と戦います。しかし日本軍は敗戦し、百済も滅亡します。逃げ帰った日本は敵が追って上陸する可能性のある北九州に守りの兵をおきます。その兵を防人(さきもり)といいます。

 

 さて、もう一つ。中大兄皇子は即位(天皇になること)して天智天皇となります。まあその後亡くなってしまったんですが、ここで問題が起きます。それは天智天皇の弟である大海人皇子が天皇を継ごうとしました。順当にいけば息子である大友皇子が継ぐはずです。しかし、これは歴史では避けて通れない問題で、天皇家も例に漏れず後継争いを始めます。この叔父VS甥っ子の仁義なき後継者争いを壬申の乱(じんしんのらん)といいます。結果は叔父が大人気なく勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位します。その後大宝律令が定められ時代は奈良時代へと移っていきます。ちなみに大友皇子は敗れて自殺しています。

 

以上が古墳・飛鳥時代でした。次回は奈良時代です。