前回の続きです。今回は奈良時代です。前回は日本に大和朝廷が誕生し、トップである天皇に権力を集めるべく、聖徳太子、中大兄皇子らが活躍しました。その続きです。

 

誰でもわかる日本史奈良時代

 

 

 

 奈良時代

 

 710年、元明天皇によって平城京に都がうつされてからを奈良時代と言います。奈良時代には国民の生活は非常に苦しいものになっていきます。それは税制度のせいです。以下にまとめます。

 

・・・収穫したの3%

調・・・地方ごとの特産品

・・・10日間の兵役か

・雑瑤・・・60日間の雑用

・衛士・・・都の警備

防人・・・北九州で3年間の防衛

 

 これらが奈良時代に課された税制度です。調・庸は都に納めなければならず、その道のりも非常に険しいものでした。天智天皇によって作られた戸籍をもとに班田収授法で口分田が与えられ、これらの税制度から逃れることは容易ではありませんでした。

山上憶良は『万葉集』に収められた『貧窮問答歌』に、その時代の厳しい生活の様子を残しています。

 

【低くつぶれかけた家、曲って傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊く事も忘れたふうで、かぼそい力のない声でせがんでいるのに、短いものの端を切るということわざと同じように、笞を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。】

 

 このような状況ではありますが、人口は増えていきます。さらに国民の中には口分田を捨てて逃亡したものも多く、もともとあった田畑も荒れ果ててしまいます。そうすると新たに与えるための口分田が足りなくなります。そこで朝廷(天皇たちが政治をする場所やその組織・政府のこと)は、口分田を増やすために新しく土地を耕す(開墾する)ように命令します。しかし口分田が増えると税金も増えるという地獄のシステムなので、誰もその命令を聞きません。

なので朝廷は、新しく開墾した土地はその後3世代に渡り私有地にしてもいい、という「三世一身法」を出します。しかし当時の3世代など今ほど長くもありませんし、最終的に国に取り上げられてしまうものをわざわざ開墾するか!ということであまり効果はありませんでした。

 そこで朝廷は苦肉の策で、新たに開墾した土地は永久に私有地にしても良いという「墾田永年私財法」を出します。これには国民も飛びつきます。そして全国各地に私有地=天皇所有ではない土地が多く誕生します。こういった土地を「荘園」と呼びます。荘園は口分田とは違い守るのも自分たちでやらねばなりません。ですので地域の有力者や寺院、貴族などに土地を渡してその使用料を払うことで守ってもらう人々も出てきました。この荘園を渡す行為のことを「土地を寄進する」と言います。貴族や寺院はこれに乗っかり、人々を利用して田畑を開墾させ、勢力を広げていきました。

 

 さてそんな頃、朝廷では熾烈な権力争いが繰り広げられていました。藤原鎌足(中臣鎌足)の子である藤原不比等とその子たちは権力を欲していました。藤原不比等がどうにか権力の礎を築きます。そして藤原不比等の死後、藤原氏(不比等の四人の子)は当時の朝廷の権力者であった長屋王を謀殺します。しかしここで、その藤原氏が相次いで病死し、さらには地震まで起こります。これに怯えたのは聖武天皇でした。これらの災いを長屋王の呪いと考え、僧の行基の協力を得て、全国に国分寺、国分尼寺を建て、総国分寺として東大寺を建てます(でっかい大仏も)。

聖武天皇はこうして仏教に頼ることで国内の災いを打ち消そうとしました。この考えを「鎮護国家」と言います。こうなると仏教の及ぼす力は非常に強くなり、僧はついに政治にも口を出し始めます。行基の他にも失明しながら日本にやってきた鑑真は唐招提寺を建てたりもして仏教の勢いは留まることがありませんでした。朝廷は皇族、貴族、僧が権力を分け合う混沌とした時代になりました。これを嫌い、桓武天皇は平安京への遷都を行うことになります。

 

 少し話は変わって、この時代はさまざまな書物が作られました。以下にまとめます。

 

日本書紀・・・日本最初の勅撰(天皇の命令で作られた)の歴史書です。

風土記(ふどき)・・・各地方についての情報をまとめた書物です。

古事記・・・現存する日本最古の歴史書です。

万葉集・・・大伴家持が編纂にたずさわり、実に4500首もの歌が収められています。