カオバンの戦いとは
ベトナム戦史に詳しい人なら、「カオバンの戦いといえば2つ」である。
第一次インドシナ戦争時、1950年に北部山岳地帯の支配権をめぐるフランス植民地軍との最終決着の戦いがあった。それはレ・ホン・フォンⅡ作戦(RC4の戦い)で、カオバンからランソン間のルート・コロニアル4号線上での戦い。勿論ベトミン軍に参加した残留日本兵も活躍しているし、普段戦場には出ないホーチミンも督戦のためここには来ている。其れほどにカオバン戦は重要な戦いだった。この戦いはいずれ機会を見て紹介できればと思う。
もう一つが前々回から紹介している1979年の中越戦争の、カオバン省での戦いだ。
中越戦争をランソンの紹介だけにしようと思っていたが、今回改めて中越戦争を調べ直していくとカオバンでは「虐殺」の表現が度々出てくる。其のためつい深堀してみると、やはりここで起きたことは追加編として書いておこうと思った次第。
バンゾック滝、世界第4位は本当か?
昨今の日本人ツーリストにとってカオバンといえば「バンゾック滝」になると思うが、筆者はまだカオバンには来ていない。
最近、親しい後輩がバンゾック滝を見たくてカオバンに来ているが、カオバンのバスターミナルでどのバスに乗って良いのやら、適当に乗ったらラッキーにも目的地域のバスだったと経験談を聞いている。個人でベトナムの地方を旅する時は、やはり異言語同士でのコミュニケーション能力が求められる。
川の中央が中国との国境線で、写真に写っていない左側ベトナム側にも滝が続いている
世界第四位の規模を誇るバンゾック滝を楽しみにしている観光客の皆さんには暗い話で申し訳ないが、今から46年前(2025年時点)、このカオバン省では一般人、女も子供も年寄りも含めて中国軍との血みどろの戦いが繰り広げられた戦場であったことは、記憶の片隅にでも置いといてくれればと思う。
大兵力だが大苦戦する中国軍
中国軍が国境を越えてベトナム側に越境して来るのは1979年2月17日朝5時。
一斉に砲撃を開始しベトナムに侵入するのだが、不意を突かれた前哨基地では直ぐに陥落するところもあるが、それでも反撃し中国軍を撃退できている基地もある。
数時間後には組織的に高地に陣取り中国軍に反撃できているのは、パニックに陥っていないない証拠だ。
ベトナムには、ベトナム戦争当時の捕獲した米国製の武器やもともとのソ連製の武器も豊富にある。
一方、中国軍の装備は古く不十分なうえに、朝鮮戦争時と同じ人海戦術で闇雲にベトナム兵が守る高台の塹壕に向かってくる。
これでは死傷率が高くなるのは仕方がない。
筆者、当時の民兵のインタビューを印象的に覚えているが、「撃っても撃っても次から次に兵士が向かってくる」というものだった。
民兵にとって女性兵士も当たり前。
中国軍の戦い方は第一次世界大戦レベルである。
中国軍前線部隊の連絡には伝令が戦場を走り、戦闘部隊への命令はラッパである。
砲兵隊は前線部隊のニーズには対応せず、戦車隊は歩兵を伴わない攻撃で無駄な損耗を受ける。
兵站は人力にたより、兵員補給すら苦労している。
全線戦でこのようなお粗末さを示している中でも、カオバン戦線は東部戦区司令官許世友が認めざるを得ないほどの杜撰な戦い方であった。
カオバンにおける低レベルな中国軍
カオバン省の場合は中国と通じている道が何か所もあり、作戦図を見ると六ヶ所からのようだ。
中国軍のカオバン省侵攻の総兵力数は20万人。
対してベトナム側は総兵力1万5千人。一応346師団の一部がいるが10ヶ前に戦闘部隊に改変された元は経済建設部隊というから、民兵部隊と大して差は無いかもしれない。
実際、中国軍側のレポートではカオバン省で正規軍部隊とは遭遇しなかったとある。後にベトナム側は増援部隊を追加して総兵力は2万にはなっている。
しかし、絶対数では中国軍に適わない。
カオバンまで3Km。援軍が来た時には省都は陥落。
しかし、カオバン省では28日間戦いは続く。
ところがである、カオバン省各戦線で中国軍は想定外の大苦戦に陥る。
当初、中国軍はカオバン省での戦闘は3-5日で決着する容易な戦場と見ていた。
省都カオバンは二日後には占領する予定であったが、実際は9日後25日の占領だ。
最初の3日間で中国軍は3個大隊を失い、数十両の戦車と装甲車を失い、ある戦線では一個師団が12日間もくぎ付けにされ4,000人以上の兵士が戦死する、とある。
他の戦線と同じく表向きには3月6日には戦闘は終了したことになっているが、カオバン戦においては中国軍が国境の向こうに去るまで戦闘は継続している。
最終的に中国軍18,000人以上がカオバン戦で戦死という数字が上がっている。
中国軍は何を勘違いしていたのだろうか
カオバン省は山が多く、地形が複雑で密林で覆われたところも多い。
にもかかわらず中国軍は道路事情や地形の事前調査をしてこなかったらしい。
結果、中国軍の多くは頻繁に道に迷い、ベトナム民兵部隊の待ち伏せ攻撃に会ったり、ベトナム軍の上手な誘導に引っ掛かり味方部隊を砲撃したりと散々な目に遭わされている。
更に、負傷兵の多くが11日以内の治療を受けられなかったとレポートにあり、其のため不必要な犠牲者を増やしている。
負傷者が発生することを想定していなかったとは、許世友将軍が激怒するのも納得。
地図無しでこの地形に侵入するのは無謀としか言いようがない。
ベトナム人に教訓を与えようと血気にはやる司令部連中は、全てのべトナム人は兵士であることを忘れている。
ベトナム民兵は世界最強と言って間違いない。
彼らは素晴らしく組織化された民兵であり、正規軍とも緊密な連携を持っている。
ベトナムの人びとは第一次インドチャイナ戦争以来、豊富な戦闘経験を積んでいる。
ベトナム北部、山岳地帯の年寄りも第一次インドシナ戦争での経験を持つ。
ベトナム戦争では最新・最強の兵器を持った米国の空爆に耐えた経験も持つ。
ベトナム戦争20年間の豊富な実戦経験を持った多くのリタイア兵士は、次は当然民兵となる。
中国軍はそれらを軽視していた。
カオバンの戦いに参加しようとする親子の写真。いずれかの少数民族(女性の服装からして)の家族と。父親は間違いなくベトミン軍で戦った経験を持つ年齢だ。子供達男女5名はそれぞれ正規軍としてベトナム南部で戦ったであろうし、民兵として北部でアメリカ軍と戦った経験を持っているに違いない。
カオバンの民兵の数は5万~10万と随分と大雑把な推定だが、中国側のレポートでは10万人以上となっている。
恐らく、多く報告しておかないと自分たちの苦戦を説明できない、ということだろう。
カオバンの戦場が中国軍の死傷率を最も高くしている。
フートォ省から駆け付けた女性兵士。彼女は一人の子供を保護した場面。
戦場に食料を届けるタイ族の女性達
ベトナムはカオバン作戦を "虐殺 "と呼んだ
中国軍の拙さもさることながら、ベトナム民兵の実力は正規軍を超えるものがあったと幾つものレポートに出てくるが、これに苛立ったのが中国軍上層部であり、現場の兵たちはベトナムの一般人にも恐怖を感じることになる。
なぜか?
ベトナム人は老若男女皆が兵士である。
女や老人の避難民と思いきや、時に彼らは隠した武器で突然中国軍兵士に遅いかかる。
無邪気な子供は兵士の警戒心を緩め、簡単に戦車を破壊する。
中国側のレポートでは彼らは「ベトナムの特殊工作員」と説明されている。
このことが、後に「虐殺」の単語が出てくるカオバン戦の特徴になる。
中国軍にとっては避難民も特殊工作員に見えてきたということなのだ。
ベトナムに教訓を与えた、中国軍は勝利した、ということで6日以降撤退を開始するが、カオバンにおいて中国軍は焦土作戦を行いながら撤退戦の様相を呈している。
破壊されつくすカオバンの街
そのさなか、1979年3月9日集団虐殺事件はトンチュップ(カオバン市郊外フンダオ村)の養豚場で発生する。
犠牲者43名。大半は何人もの妊婦を含む女性と子供。
遺体の多くは後ろ手に縛られ、目隠しをされ、竹や斧で殴り殺されたりしたようで、頭が内側に窪んでいた。そして井戸に投げ捨てられていた。
(中国の反日プロパガンダで描かれる日本軍の蛮行とされるものは、中国軍によってカオバンで実行されていた。)
嘗ての井戸には今は魚が泳いでいるそうだ
この現場では生存者はいないので詳細は知りえないが、一般民間人が中国軍と遭遇することの恐怖や、実際に目の当たりに犠牲者が発生したケースを語る人々の証言を聞くことで、大よそのことは想像できる。
43人の犠牲者のうち37人の身元は特定できているが、6名がどこの誰なのかが分からない。
2023年に遂に嘗ての虐殺現場に記念館がオープンする
中国軍の焦土作戦を行いつつの撤退戦で、多くの避難民が発生し逃げ場を求めている。
撤退中の中国軍部隊は逃げ遅れた避難民をトンチュップの農場、養豚場に連行する。
彼らが純粋に一般民、農民であることは犠牲者の大半が女性や子供達、妊婦らであったことで明らかなのだが、にもかかわらず全員が火器を使わずに殺害されているところを見ると、これは明らかに意趣的な仕返しと見て取れる。
恐らく、少人数の一般避難民に対するこれに類すること行われていたのだろう。
中越戦争におけるベトナム側の死亡者数は未だ不明である。
撤退しながらの焦土作戦。あらゆるものを破壊していく。
実際、後に中国軍による中越戦争の総括レポートReassessing the Sino-Vietnamese conflict 1979には「中国軍が直面した課題の一つは、敗走した北ベトナム軍兵士と民間人難民を区別することだった。兵士たちは軍服を脱ぎ捨て、難民に紛れ込んだ。こうして変装した北ベトナム軍兵士は、ベトナム民間人を脅迫して中国軍への攻撃を扇動したのである。」だから、中国軍は場合によって民間人をヤッテしまったかもしれないと言い訳しているのだ。
東部戦区の司令官許世友将軍は79年3月4日ランソンへの総攻撃の開始に以下のように激を飛ばしている。
「夜明けの攻撃開始後、ランソンには一軒の家も残すな。草一本生えぬようにし、ランソンを血で染めろ!」これは苦戦が続くカオバン戦においては尚更共通認識になる。
カオバン戦は6日以降の撤退発表後も継続し最も激しい戦場となり、そこで中国軍は熾烈な掃討戦を採用する。
その結果の一つの例がトンチャップでの虐殺事件なのだ。
勿論、中国軍はトンチュップ虐殺事件を決して認めていない。
中越戦争における戦死者数はお互いが、自分は小さく、相手は大きく発表する。
そこで、第三者の外部研究による中国軍戦死者数は26,000人。
ベトナム軍は30,000~35,000人と推定。
民間人の犠牲者数は全く不明。













