続 ベトナム独立戦争に参加した日本人 フエ編 | nezumiippiki

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アジア再発見Blog

コロナパンデミック以降ベトナムに暫く行けていないので、新しい旅行ブログが書けていない。

そこで以前のフエ訪問を思い出して「ベトナム独立戦争に参加した日本人・フエ編」を書く。

 

第一次及び第二次インドシナ戦史上、最も重要なフエ

ベトナム中部のフエは世界的人気の観光地で、フエの建造物群が世界遺産になっており、ベトナムに訪れたことのある日本人のなかにもフエまで行かれた方は多いかと思う。しかし、フエのベトナム現代史における重要度は特筆もので、そこにベトナム独立に果たした旧日本軍人の事績と、それがベトナム戦争時のアメリカ軍撤退へと追い込むことになるきっかけを用意していたことはがあったことは、まず知られていない。

筆者は、アメリカのBattel of Hueの記事を読んでいて、思いもしない事実があることを見つけてしまったので、そのフエのことを紹介する。

 

 

王宮正面前にあるフラッグタワー。

フエのシンボルのためテト攻勢時には掲げる旗のため、フラッグタワーの争奪戦線が行われ、度々掲げられる旗が変わっていた。

 

テト攻勢

ベトナム戦争のターニングポイントとなる劇的な戦闘がある。

それは1968年のテト攻勢、中でもフエでの激しい戦いなのだが、そこにも太平洋戦争時の日本軍の影響が見て取れ、大東亜戦争は1975年に終わったと言われる所以の一つでもある。

 

19687年旧正月下の1968年1月29日の深夜に、解放戦線と北ベトナム軍は南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(*テト攻勢)を開始した。

*テトとはベトナムの旧正月で、第二次インドチャイナ戦争時には解放戦線側もサイゴン側もテト期間中は常に暗黙の了解で休戦としていた。

 

 

このテト攻勢でベトナム全土の南ベトナム44省の内34の省都、サイゴンやダナン、フエなど6つの指定自治都市の内5都市、64の地方都市、そして各地の米軍基地と南ベトナム軍基地が攻撃されている。各所での攻勢は数日から1週間の期間であったが、フエのみが一か月に及ぶ激戦を繰り広げている。解放戦線と北ベトナム軍の作戦開始から米軍による戦闘終了宣言まで32日間である。

 

Battel of Hueとは

 フエの戦いでは 、ベトナム共和国陸軍の 11 大隊、アメリカ陸軍 4 大隊、アメリカ海兵隊 3 大隊が、ベトナム人民軍10 大隊及び民族解放戦線の兵士たちが激突した。

 

 

1968年当時の人口14万人を擁する南ベトナム第3の都市フエは、海岸のすぐ西、非武装地帯から南へ約80Kmの国道1号線沿いに位置し、米軍への主要な陸上補給路のひとつであった。

市民の3分の1がフーン川の北側の王城内に住んでいた。王城の城壁のすぐ東側には、人口密度の高いジアホア地区があった。

王城は堂々たる要塞で、当時城内には空港もあり、旧市街と王宮を囲むフエ王城の城壁は一辺2.2km、高さ6.6m、幅21mに及び、外には濠が掘られている。*その城壁の多くの部分は、第二次世界大戦中に日本軍によって作られた掩蔽豪やトンネルで蜂の巣状になっており、城内は迷路のように入り組んだ旧市街が8㎢にも広がっていた。更に、王城の南端には、東西642m、南北568m、高さ6mの壁、その外側に壕で囲まれた王宮があった。*The Battle of Hue City By John Walker

 

この蜂の巣城は、おそらく、連合軍がベトナムに進出することを想定し、日本軍の戦い方で、敗北するにしても連合軍に多大な損害を与える準備をしていたものか、或いは舞い戻るフランス軍との市街戦で勝利することを想定してのものなのだろうか。結果として、太平洋戦争中に日本軍が米軍に多大な損害を与えたペリリュウ島や硫黄島のような戦闘が、解放戦線と北ベトナム軍によって、このフエの王城内で展開されたのだ。日本軍敗戦から23年後に米軍はまたもや日本軍によって苦しむことになったわけだ。確認のために他の記事を漁ってみたところ、やはり王城内城壁には多くの地下トンネルが迷路のように張り巡らされたと報告する他の記事も見つけている。

しかし、筆者、この事実をフエの観光した時点では知りえず、つい最近アメリカのBattel of Hueの記事を読んで初めて知った次第。

おそらく、今時の観光ガイドはテト攻勢の詳しい話はしないのだろうと思う。

今から20年近く前の筆者最初のフエ訪問の時ですら、フエの若者と話をしてもフエの戦争にあまり興味を示してはくれなかったな・・・。

 

王城内のメインストリート、かつてこの道路上を米海兵隊が這いつくばりながら北ベトナム軍、解放戦線側と死闘を繰り広げていた。

 

写真by沢田教一

 

一般のツーリストは、広い王城内でも王宮のみの訪問がほとんど。

フエは日本の京都に相当すると言われても、テト攻勢時での破壊でグエン朝時代からの建物は一部を除き殆ど残っておらず、王宮の多くの部分も戦災の被害を免れていない。

我々が見られるのは、運よく残された建物と修復、または復元した建物になる。

 

王宮正門

 

王宮の奥に進むと、戦災にあったままの状態を残している個所もまだ多い。

 

フエの戦いの結果 

(サイゴン政権側発表の数字)

サイゴン軍死者452人、負傷2,123人

米軍死者216人、負傷1,584人

北ベトナム軍死者1,042人、負傷その数倍

解放戦線死者・負傷者 人数不明 数千人規模

民間人死者844人、負傷1,900人とあり、4,856人が解放戦線によって処刑・行方不明とある。

(処刑された人数は発表の都度に変わっている。今では米軍の無差別砲爆撃の被害者とするのが、辻褄が合うと理解されている。)

戦闘により街の80%が破壊され、人工14万人のうち11万6千人が家を失う。

民間人の被害が多い理由として、特に米軍の無差別砲撃、空爆、艦砲射撃があげられる。

 

テト攻勢全体では、アメリカ軍の犠牲者は1526人、サイゴン軍の死者は2788人。一方、北ベトナム軍と解放戦線の死者は3万人を超え、6千人の捕虜を出し、戦術的には北・解放側の圧倒的な敗北に終わっている。

結果、テト攻勢は北・解放側にとっては大失敗の戦略であったが、しかし米本土から思わぬ風が吹き始めテト攻勢は政治的勝利へのターニングポイントとなっている。それは、3か月後にパリで和平交渉が始まり、5年後に米軍をベトナムから撤退させている。

 

 

フエでの戦いを準備していたのは旧日本軍?

1945年の日本軍による明号作戦により、仏軍をベトナムから追い出した後にフエに進出し指令部を置いたのは、陸軍第34独立混成旅団、陸軍少将服部尚志旅団長。そして、ベトナム独立戦争に自らの意志で積極的に、計画的に協力した最重要人物が旅団No.2の参謀井川省少佐。

この旅団は満州、南京、上海、高雄を経て44年3月にベトナムに上陸。

井川少佐は終戦となる年の5月にフエに着任。

彼はドイツを手本とする陸軍士官学校では珍しくフランス語を専攻した陸士47期の卒業。

その彼にとってベトナム勤務は、彼にとってもベトナムにとってもとてもラッキーなことだった。

井川少佐のことは、「続ベトナム独立戦争に参加した日本人たち 人物編」で紹介しているので、そちらの記事も参照してください。

https://ameblo.jp/nezumiippiki/entry-12679611346.html?frm=theme

 

井川少佐はフエ着任まもなく、地元のベトミン組織と密かに相互不可侵の協定を結び、ベトミン軍将軍グエン・ソン将軍と親交を結んでいる。

日本敗戦後は中華民国軍の武装解除を受け、ベトミンや中国軍との不慮の衝突を避けるために、ダナン西方の高原保養地バナーに第34旅団のキャンプを設営し、旅団主力部隊の招聘を自活させるため農業経営をさせた。これにより同旅団が管轄する中部ベトナムでは、46年の復員まで日本軍人とベトナム人との間のトラブルは皆無に近かったと、井川レポートにある。

 

そこで例の城壁下、周辺の掩蔽豪や迷路状の地下通路はアメリカのレポートでは日本軍が造ったことになっているが、この話は日本側からは全く出てこない。

フエに進出した日本軍は第34旅団以前にあったとは聞いていないし、そもそも、その時は仏軍が植民地軍として実質支配しているので、日本軍としてはそのような工事を行うことは不可能。

そうすると、やはり第34旅団が井川参謀の指示で密かに、仏軍や連合軍との戦闘を想定し造っておいたとしか考えられない。

井川少佐がフエにいるのが10か月なので、将来を見据えたその間の突貫工事だったのか、井川少佐がベトミン軍に武器の扱い方や壕の掘方なども教えていたので、もしかすると、井川少佐の戦死後に残留日本兵とベトミン軍が彼の方針に従って造っていたのかとも考えられる。

というのも、井川少佐はベトミン軍幹部に仏軍との戦い方、ベトミン軍の戦略・戦術の基本方針を提示している。

 

こうして見ていくと、残留日本兵の働きとその努力**が、結果として米軍をテト攻勢から5年後にベトナムから撤退させ、75年にはサイゴンを陥落させ、ベトナム南北の統一を実現する一助になっていたのか、と後の日本人としては誇らしく思っても良いのでは、と思う。

**(ベトナム独立戦争に参加した日本人たちhttps://ameblo.jp/nezumiippiki/entry-12607692978.html?frm=theme、続 ベトナム独立戦争に参加した日本人たち 人物編https://ameblo.jp/nezumiippiki/entry-12679611346.html?frm=theme

 

 

追記:

『フエ大虐殺』はなかった

映画フルメタルジャケット(1987年)の後半の舞台は、フエにおけるテト攻勢である。その中で「フエ大虐殺」が描かれているが、半世紀以上も経った今ではその虐殺事件は今で言うフェイクニュースであったと判断されている。

当初からその虐殺事件を疑う報道関係者はいたのだが、例によりアメリカや追随報道しかしない日本のメディはその事件を検証することもなくただ垂れ流し、事実化されていく。

フルメタルジャケットの映画が話題になっていた時にも、そのことに疑問を提起する人はいなかったと記憶している。

このフェイクニュースというのは、フエを一時占領した解放戦線がサイゴン政権の官吏、教師、聖職者、政権に協力民間人等の処刑リストを事前に用意し、フエから敗走する際に連行し3,000人とも4,000人ともいう数の人たちを処刑したというもので、フエ戦後旧南ベトナム政府軍第10政治戦大隊が最初に発表している。

当初、米軍はこの情報に直接は関知せず、後に追随発表をするだけ。

フエに集まっていた各国の報道関係者たちは軍に何度取材申し込みをしてもすべて拒否され、結果誰もその事実を確認していない。

そのためアメリカのメディアもその事件を無視しており、その後も証拠なるものが出されてくるがすべて如何わしいものか、明らかに嘘と分かるものばかり。

そこで、テト攻勢から2年近く経過した後、米国情報局職員のダグラス・パイクが新たな創作文を公式レポートとして書き上げ流布する。それが永く信じられていた「フエ虐殺事件」である。嘘も100回つくと真実となるという、アメリカが得意とする戦争マーケティングの実例である。

残念なことに、現在の日本でもこの虐殺事件なるものが紹介されている記事を見ることがあって驚かされる。南京虐殺のフェイクニュースの被害国である日本が、この程度のフェイクニュースに追随しているのって嘆かわしいですよ。