10時に予約していた歯医者へ かなり待たされたが・・・ふと手に取った雑誌に 立教新座高等学校 渡辺憲司校長の卒業生へのメッセージが載っていた(以下一部抜粋) 

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。
真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。
鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。


何度も何度も読んだ 愛に受け身はない・・・か 実に深いね 生徒や保護者から絶大なる信頼のある渡辺校長 最後に「大人になったら酒の呑み方を訓えてやる」と締めくくる 私もその教えを乞いたいものだ  

帰り道、足はダイシンへ向かい日曜大工の用品を購入して戻る 以前から気にはなっていた、震災で家電が転げ落ち陶器が粉々になりあちこち傷ついたフローリングを丹念に磨き上げることに 柱や出窓の板にもニスを塗り、家の傷が少しずつ消えゆくとこの6ヶ月間のこころの傷も癒されるようである 居間の電球をLEDに替え、網戸を洗い、障子を補修し、収穫を終えた野菜のプランターを片づけ、ベランダに人口芝を敷いて週末の満月を迎えるのだ・・・が、秋はまだ先 厳しい残暑に汗だくになる こんな汗はどこか気持ちがいい ここに父がいたら、斑なニスの塗り方に文句のひとつでもあるだろう もうすぐ昼寝を終えた母がきれいになった部屋をみたらなんというだろう あら、今夜は大雨ね、なんて言うに違いないが、今日はあのメッセージのお蔭でどこか優しい気持ちになれた 歯医者で待たされたことに感謝である

今回のビックイシューの「私の分岐点」はマギー審司さん 気仙沼出身の彼は今回の震災で大切な祖母を失ったそうで、その哀しみを乗り越え、被災地は最強のパワースポット、これからの日本を支えるのは東北の人間だと語る その一人として、この私もいま自分にできる限りのことを為したいと思うこのごろ 今週から講習も始まりフル稼働の中、ふと気が付くともう9月になっていた もしタイムマシンがあったなら、紀元前5・6世紀あたりに時代を遡り是非ともお会いしてみたい歴史上の人物のひとりにお釈迦様がいる 彼は、「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる 肉は増えるが、智慧が増えることはない」と 牛のように、が面白くて忘れられないお言葉なり(笑) 学ぶことは一生のことであるが、毎回受講生に寄り添うとき、その姿の美しさを痛感する しかし、ときに美しくないものにも出会う 共感する鏡と、すれ違う鏡 曲がったのや、歪んだのや、曇ったやつ そんなさまざまな他者がいるからこそ、私たちは多様な「自分」を見いだすことができる たくさんの、多様な鏡と出会うだけ、「私」が豊かに膨らんでいく 昨晩は、そんな仲間のひとり いつも穏やかな高木ちゃんが、実家のお母様のお手製茗荷の漬物をお土産にやってきて爆弾発言 なんと、来週から横浜へ転勤?! そこに居合わせた馬場ちゃんと二人、なにか心の底からぐっと込み上げてくるものがあった 「もう会えないわけじゃないし」と高木ちゃんは言ってくれるけど、そういうことじゃない 人生の中で別れというのは「泣ける」瞬間でもある 震災では多くの方が大切なひとを失いどれほどの涙を流したことだろう 映画や小説で涙を流すのもいいが、本当に価値があるのは、自分だけの涙だという そのためには、あがいていなければならない、何度も傷つきながら、いろいろな流れが一緒になって、最後にきれいな涙が人生を報いてくれることを信じて・・・  

今日も朝からおいしい?味噌汁と白いご飯で一日のスタートを切る 今、「江戸の想像力」という本を読んでいるが、むかしの人たちは米を炊くにも火おこしから始まっての大仕事だった タイマーをセットして目を覚ませばもうご飯が炊けているデジタル化の時代 今もこうしてパソコンを叩いている(叩くという表現自体アナログ)私であるが、超アナログ世代の人間である 一番ムカつくのが車のナビである 先日も、娘夫婦の車に同乗し蔵王ヨーグルト工場でチーズケーキを買いに行こうということになったときのこと 健が「蔵王ファーム」とナビに入力 ナビの指示はどこか違うかも・・・わたしはその時そう感じた 車を走らせること一時間、「目的地周辺です~」と堂々とアナウンスは流れたが、そこは見渡す限りの広~い牧場と健をみてせせら笑っているかのような牛くんたち(笑)工場などどこにもない あんなものが20万もするなんて有り得ない どんなに便利であっても文明の産物は時に間違いを犯す そこに気づき手動運転に切り替えられないのであれば正直意味を成さない 大体、太陽の位置で方角を確認し地図と睨めっこして周りの景色を海馬に収めて、ときに町民の方と触れ合いながら運転するのが愉しいではないか・・・ そんなの面倒? だから、動物的感覚が鈍ってくるのだ わたしは、ワードやエクセルのお陰ですっかり漢字が書けず計算もできない人間になってしまった そろばんや習字が必須だったあの頃を生きてきた人間の愚痴なんだろうか そう思っていたら、内田さんのブログにかくあった 「私は秀才が悪いと言っているのではない。そうではなくて、上から正解が示される前に、論拠も言い訳も立たない時点で、なお自己責任で決断が下せる人間を、統治の要所に一定数配備しておくことはシステムの保安状必須であろうと言っているだけである。別にオカルト的な能力が要るわけではない。身体感度と判断精度を体系的に涵養すれば、胆力のある人間は組織的に生み出すことができる。現に、武道はそのためのものである。それゆえ、胆力のある人間の育成は教育の最優先課題であると私は言い続けてきた。しかし、教育行政の要路にもメディアにも、私に同意してくれた人はひとりもいない・・・と 私は賛同致します! モンスターに少林寺を習わせるんだ、絶対