ラオデキヤ | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」(3:14)

前回礼拝時の主題フィラデルフィアに引き続き、七つの教会の最後のラオデキヤが今週の主題です。
今回の米での聖職者会議で、バスJr首席司教が聖職者宛てにされた説教のテーマは、七つの教会の最初の教会エペソでした。内容は天界の教えに沿ったもので、おそらく誰が行っても、同じ筋の説教となります。

説教は、主の教えを聖職者がかみ砕いて伝えるものです。ブリアシン本部の説教が特に優れているというものではありません。大聖堂の音響のすばらしさはありますが、それは二次的なものにしかすぎません。

そこで考えたのは、七つの教会の内フィラデルフィアが何故テーマとされなかったのかということでした。ジェネラルチャーチ本部があるのはペンシルバニア州のフィラデルフィア近郊のブリン・アシンにあるため、目標とすべき教会はフィラデルフィアではないかと思いますが、そうではなく、エペソでした。エペソは生活に関与しない教義だけの教会で、生活への適応をせず、教義だけに走りやすいことを戒められています。これは、ジェネラルチャーチの、特に聖職者に関する問題が、教義第一からなかなか抜け出せないことにあることかもしれません。

仁愛という仏教から拝借した訳語の問題はありますが、本来、仁愛の実行、思いやりの実行を第一にすべきです。
仁愛の実行は、第一に悪を避けること、第二に隣人に思いやりの業を行うことですが、今の日本の新教会の問題点は、第一の悪を主に対する罪として避けることが、ほとんどできず、第二の思いやりの実行も形だけになっていることにあるように感じます。「私はジェネラルチャーチの一員」と口にする方に、ほとんどこの二つの行動が伴わず、自称、会員しかいないような気がします。
急速な円高と言葉の壁の問題があったかもしれませんが、千人に近いジェネラルアッセンブリーへの全世界からの参加者の中に、日本からの参加者が牧師を除いて一人もいなかったことが日本の新教会の実情を表しているかもしれません。数年間のGAには、言葉の壁をものともせずに大勢の日本人が参加したという話は、もはや昔話になってしまいました。その時は、雰囲気と書籍以外だけを持って帰れただけでした。憎しみだけを持って帰った方もいらっしゃいました。

黙示録にある七つの教会の内意は、アジアに実在したと思われる教会ではなく、新教会になることが可能な個人の状態を含む教会に対しての、主からの薦めと真の教会になる手段が教えられています。
ラオデキヤは、自己の思考と、み言葉の双方に基づく教会です。この両方の間を行ったり来たりしているので、冒涜を犯していることになります。(AR198)

日本の新教会も、翻訳の問題があるのか、牧師の指導が不足しているのかがはっきりしませんが、自分の解釈に頼り、み言葉に頼らない姿勢のために、ラオデキアに属する状態かと思われる方が少なくありません。み言葉の解釈も旧教会の解釈のままで止まっている場合があるように思えます。

最終的に信じる、信じないは、自分の考えと都合に基づき、集団の中にいると回りの雰囲気で神や死後の生命を信じ、一人になると信じないという傾向があると著作には説かれています。過去は集団にいたため信じたが、一人になって改めて考えると、自然的・世的な思考に支配されるため、神やみ言葉の意味、死後の生命など教会を否定することになります。以前、ブリン・アシンで学んだと言う方にも、み言葉を信じず、自分の環境に流され、もはや教会や主を信じてない方が多いと思われます。

そのためこの教会には『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方』、すなわち神的真理の面からの主、すなわちみ言葉から語られます。
忠実、真実な証人は、主がご自身のことを証しているため、これ以上の証言はありません。さらに主ご自身が「アーメン」という神的な同意を加えられています。(AR199)
「神に作られたものの根源」はヨハネ福音書に「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」とすべてはこの神的真理によって創造されたことが明かです。

神的真理であるみ言葉の中に、神的生命があり、人はみ言葉によって真理への霊的情愛が生まれ、主と結ばれます。(AR200)
そのため、み言葉を通さないなら、主と結ばれず、永遠の生命である天界に進むことはできません。霊的情愛が生まれず、概念だけになってしまうからです。情愛が生命に関係し、概念は何かを加えなければ、生命とはなりえません。ブリン・アシンに学んだ方も、概念しか学ばなかった可能性があります。
み言葉を読まない、読んだとしても何も神聖なものを感じないなら、神的なものと結ばれることができず地獄と結ばれます。神を否定してしまうからです。

しかし、み言葉は天界のものであるため、天界と地獄が混同できないため、「なまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」と天界と地獄の双方から拒まれます。神的なものを一旦認めて、後から否定すると、否定するときは自我と世しか見ないため、これも同じです。
「わたしの口からあなたを吐き出」す、とは、主とも、地獄とも離れたところに行くしかなくなります。主は天界も地獄も支配されているからです。人間の合理的な生命は根絶され、最低の能力しか残りません。神的真理を冒涜した時の恐ろしさは、人間らしさを奪われてしまうので、想像を絶します。新教会から仏教に移った人間がどうなるかは明らかではありませんが、仏教は、人間の教えにしかすぎず、み言葉である天界の教えの文脈からいえば、ただ冒涜を心配するしかありません。あらゆるものから解放されたという解脱の状態をを自分で選択するからです。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(3:17)
自分では、教会や天界に関係する善と真理の概念を豊かに持っていて、もはや何も必要がないといいます。(AR206,207)しかし、それは教会から考えると何のものでもなく、思考の壁となっていて、みじめです(AR208)。なぜならそこに真理と善がないからです(AR209)。

世に対する知恵と知識はあったとしても、善と真理の知恵と知識には欠けています。なぜなら、善と真理は、すべて主お一人に属すからです。その他の知恵と知識は天界のものではなく、天界に行くためには役に立ちません。仏教の知恵は、輪廻からの解脱のための知恵であり、天界に行くためのものではありません。個人・個人の救いにはなったとしても、宇宙の全人類の救いとはなりません。創造者の愛と知恵ではないからです。
み言葉において「盲目で裸」とは、教会での真理が不足して真理を知らないため、あるいは理解不足で真理を知らないことを意味します(AR210)。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」 (3:18)
み言葉によって主から愛の善を得るように(AR211)、さらに知恵の純粋な真理を得るように(AR212)主は強く勧められます。純粋な真理とは、愛の善という天的な愛と対をなす真理です。
裸の恥とは、天的な愛の善を冒涜し、不善化することです。両性の生殖器は天的愛に相応するため、そういわれています。第三界の天使は、この天的な愛を持ち、この世の人間はこの愛に対立する愛の中に生まれています。(AR213)

創世記でノアが酔ってさらした裸は、この天的な愛に反する悪でした。今や人は、天的な愛に反する悪を公然と人前にさらしても恥じません。何が悪か知らない、あるいは知っていても世間体さえ守られていれば恥ではないと考えています。
主に対する悪は、隠れていても悪です。隠れて隣人を憎み、嫉妬したり、嫌ったりすれば、同じように天的な愛に反する悪です。まず内的にも表面的にも、主が禁じられた悪を拒まなければなりません。そうでなければ、隣人に思いやりを抱いて善をなす以前に、自分の隠れた悪に飲み込まれてしまいます。
そのためには、知性を癒し、真理を見て賢明にならなければ、人はみ言葉の純粋な真理を冒涜し、不善化してしまいます。(AR214)

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」( 3:19)
主の薦めに従って純粋な真理を得るなら、主から愛されて試練に入れられ、自分自身と戦うことになります。なぜ主に愛されるのに、試練に入れられるのでしょうか?
それは神的真理を否定して、その有効性に議論をする者は、試練によらなければこのしつこい偽りを根絶することができないからです。(AR215)
自分自身と戦い、自分の悪と偽りを根絶しようとしないなら、天界には入ることができません。主の否定、主の戒めの否定、み言葉の否定は、地獄がもっとも歓ぶ内容で、これらを根絶しない限り、決して天界には進めません。この世で根絶できなくても、霊界で必ず試練に入れられ、戦わなければなりません。

真理への情愛からそして偽りを嫌悪するようになるまで、人は熱心に悔い改めなければなりません。(AR216)
できれば、この世にあって、善悪、真偽のバランスが与えられている間に行うべきです。バランスが崩れた世界では、至難の業です。
主はみ言葉の中に存在されていて、受け入れるよう教えておられます。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)
戸を開けるとは、主を受け入れて、その御声を聞くだけではありません。それによって生きてゆくことです。(AR218)主の戒めを実行すること、悪と偽りを避け、隣人に思いやりを抱くことを実際に行わなければなりません。少なくとも実行をこの世で始めなければなりません。
そうすれば主との結びつきが起こります。ともに食事をするとは、聖餐式のおり、主の愛と知恵を共有することです。聖餐式によって、罪が赦されるとか、清められるという偽りを持っていては、聖餐とはなりません。聖餐式制定の意味がなくなるからです。洗礼を受けてない者は聖餐に与れないと旧教会では教えられますが、そうではありません。主の愛と知恵を分かちあうことができないなら、聖餐をしても相応が生まれないので、意味がないだけのことです。天界は主の愛の知恵を自分のものとしなければ行けません。

主のみ言葉の命令に従って生きることで、主と結びついて生きていることができたなら、それは天界と同じです。これを行なえた人は、天界に行くことができます。
ラオデキヤの曖昧な冒涜の状態から、主は私達を救う方法を教えられました。
み言葉を信じ、み言葉によって生きることが、主と結ばれ、勝利を得ることです。み言葉を疑うなら、すべての教えは灰燼と帰します。しかしみ言葉を信じて疑わず、その教えによって生きるなら、天界に進みます。
「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(3:21)

主の周りにいる七つの教会のすべてに対して、主は正しい方向を教えておられます。人の霊的状態は変化しますが、そのすべてに対して的確な指示が与えられます。他に途はありません。私達は自分がどの状態か把握して、主の勧告に従います。

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(3:22)
アーメン。

ジェネラルアッセンブリーYoutube 
https://www.youtube.com/watch?v=O5uyeoDDYaE
https://www.youtube.com/watch?v=6VG_J2FZqL4


創世記
 9:18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。
9:19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
9:20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。
9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。
9:24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたことを知って、
9:25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」

黙示録
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」


黙示録啓示222 (部分)
主と人の結合は、主の神的真理を通して起こり、この真理は人の内にある主のものです。そのため主は全く人のものではなく、主は人のものとはなりません。人は確かに自分のものであると感じますが、それでもそうではありません。なぜならそれは彼のものとはならないからで、ただ彼に添えられているだけであるからです。しかし父の神性では全く事情はことなります。これは主に添えられているのではなく、魂と肉体のように、結びついているからです。