Ex29F①祭司の任職:主の栄化 | 新教会牧師書斎の窓

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あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。 (出エ 29:1)

出エジプト記9章の字義は、アロンとその息子達の祭司職への任職のための聖別と、家畜のいけにえの手順が記されています。イスラエルの子孫はこの手続きに従って、会見の天幕の前で、生贄をほふりましたが、その手順は、動物愛護家からみれば、残酷な表現が続きます。
しかしこれを内意から学ぶと、全く異なった姿が現れます。それは主の人間の栄化です。
十字架の死の後の主の栄化は、新約聖書では、かならずしも個別・具体的には描かれてはいません。
甦りの日、墓でイエスがマグダラのマリヤに言われたのは。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」(ヨハネ20:17)と主はまだ栄化されていません。
そしてガリラヤで指示された山に登ると、
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(28:18)
主イエスが、父なる神と結合されたことが描かれています。人間であった主が、創造主である父エホバと結合され、魂と体が一体であるようにすべてが神的なものとされるのが、この栄化です。
ただ、主が十字架の試練の後、一瞬にして父と合体されたわけではなく、何段階かの過程があったのがわかります。

その過程が、すでにモーセの時に描かれて示されていたことは、驚嘆以外の何者でもありません。そしてその栄化は、主が神的になるだけの過程ではなく、同時に人間の再生の過程も示しています。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ 1:1,2,14)
この栄光も主の神的真理が、人間となり、そして試練を通して神的なものになった過程を表しています。
主がこの世に来られ、そしてその人間を栄化して神的になされなければ、人間はだれ一人救われることができませんでした。

モーセの時に、描かれていた栄化は、「次のことを彼らにしなければならない。」と秩序の法として与えられます。過去に与えられたこの法は、その実行のため、用意がされ、そして実行されます。必ず実現する神的真理であるからです。父であるエホバが存在そのものなら、神的真理である「ことば」は実存(させるもの)です。み言葉がなければ、なにものも存在することができません。
人間の再生は、主の栄化の像であり、主の神的人間は天界の秩序であるため、人はすべてこの秩序に入って再生されます。(AC9987)

人は自らの力で再生するのではありません。いわば主の栄化の像に従ってゆくことを人が受け入れることで、「主が」再生されます。自分たちで「再生しよう!」は掛け声にしかすぎません。この再生は、霊界に入ってからも永遠に続き、主によって、より深く完成されてゆきます。天界は決してのんびりとした変化のないところではありません。変化と歓びにあふれています。

アロンとその息子が「祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。」
聖別は、主の神的人間について言われます。そして主のみが神聖です。祭司職とは、職業・職種ではなく、救いの業です。主の神的人間が、人間を救うために、聖別されます。

最初に用意しなければならないのは「若い雄牛一頭」で、自然的あるいは外的人間の無垢の善と仁愛の善を意味し、これを清めます。生贄とは、悪と偽りからの清めを意味します(AC9990)。
注意しなければならないのは、牛や羊を殺して臓器を分解するのは、あくまで象徴のためで、決して牛や羊の屠殺が求められているわけではありません。当時は牛や羊は貴重な財産であったため、自分が大切と思っているものを犠牲とするという意味であったと推測します。悪霊は、人の愛、最も大切とするものを攻撃してきます。常により高い上位のものを求め、低い自分を犠牲にして捧げます。

次は「傷のない雄羊二頭」です。雄羊は霊的・内的なものを意味し、これ清めます。

さらに「種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいとを取れ。」です。
パンは天的なもので、「種を入れない」ことで、清められることが意味されます。種は悪からの偽りです。この偽りは、善とそして真理も汚します。
例えば、なんらかの事業のためという利己的な悪があれば、たとえ善であっても、その事業のためにならないものは、役に立たないとして、本来の働きを汚してしまいます。この汚れは近づくと、本来の善と戦いを産み出し、善と衝突し、(AC9992)、純粋なものでなくなってしまいます。
聖餐式でも種の無いパンで行うのは、不純物を入れると余計な熱が生まれ、本来の善の目的が損なわれてしまうからです。

輪型のパン・ケーキは中間天界を意味し、「せんべい」と日本語訳された薄型パンは外的人間の天的なものを意味します。このいずも種がなく偽りから清められていなければなりません。さらに油である天的な愛が加えられます。これで主の栄化のための準備が整います。同時に人間の再生の準備が進みます。

自然的なものを意味する若い雄牛、次は霊的なものを意味する雄羊、そして天的なものである種の無いパン類の用意が求められ、ます。
この自然的・霊的・天的の三層の構造は、人間が創造された構造であり、また天界の構造です。霊的な進化はこの順でなされ、それぞれの層が清められ、信仰の真理、隣人愛、主への愛と進んでゆくことで、栄化・再生が図れるため、私達の清めの準備も、この順で行います。

「アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。」(29:4) 
アロンは神的善を、その子らは神的真理を意味し、彼らを会見の天幕、すなわち天界に連れてくることで、天界での結合が意味されます。
そして水の洗いで行われるその結合は、まず信仰の真理も実行で実現します。主の栄化はさておき、人の再生も信仰の真理の実行から始まります。信仰の真理を行わないなら、次の段階には進めません。

この後、アロンに様々な装束を着せてゆきますが、この装束によって、主の霊的王国が意味されます。
下着で意味される霊的王国の最奥部、ローブで意味される中央霊的王国、エポデで表される霊的王国の究極部、胸当ての主の神的善から輝く神的真理、神的知恵の被り物、聖別の記章をつけさせ、頭から油を注ぎ、主の全人間が神的善を表象します。(AC10011)

続いてアロンの息子によって、主の神的真理が表象されてゆき、息子達にも装束が着せられます。

そしてアロンとその子らを祭司職に任命することで、救いの業が表象されます。(AC10017)
アロンとその子らが、永遠に祭司職として永久就職したわけではなく、あくまで表象にとどまります。内意は、主の救いの業を表象します。

そして雄牛と、雄羊の生贄が始まります。
まず自然的・外的なものを表象する雄牛が、会見の幕屋の前に引き出されることで、存在と適用が意味され、神的なものからの善と真理の受容が可能となります。幼少時の無垢の善はこの時の状態を意味し、この無垢の善があれば、新しい生命である善と真理を素直に受け入れます。

「アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置」きます。
手を置くことによって、交流が意味されます。交流して意見や考えを交換できれば、善と真理を受け入れることができるかがわかります。

そしてその雄牛を屠ります。一般に、この生贄は、清め、真理の植え込み、善との結合の三段階によってできています。まず悪と偽りを除く清めがなければ、真理も善も植え込むことができません。主から善と真理が植え込まれれば、善と真理が結合する天界の結婚が始まり、再生に向かいます。

雄牛に手を置くことで、その人の性質を調べ、【主】の前に、その雄牛をほふります、これは主からの善と真理の清めの準備です。
 
例えば、主の十字架の試練、その血によっては誰も清めらません。
主の戒めに従った生活によって清められます。(AC10026)
主の戒めに従った生活を行なっているかどうか、交流によってある程度わかります。

「その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。(29:12)
主の神的善からの神的真理は、祭壇の角だけでなく、その人・教会のすべての基礎に行き渡ってなければなりません。神的真理の基礎が感覚的認識のレベル、最も低い生活のレベルに行き渡ってなければなりません。(AC10028 ) 

字義から理解できるみことばの真理を学べば、この神的真理の基礎ができてきます。
その後、さらに明るくされた人がみ言葉から集めたより内的真理、さらにより内的な真理を集め、もしこれらの真理によって生きてゆくなら、天界に上げられ、天使的知恵を与えられます。(AC10028 )
そのためには、祭壇の土台に神的真理である血が豊かに注がれている必要があります。

「その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。」(29:13)
「すべての脂肪」と言われます、なぜなら、外的あるいは自然的人間の清めと、真理と善の植え込み、その二つの結合が、ここでの主題であるからです。これらが生贄と全焼の捧げもので意味されます(AC10029)。
礼拝のすべての局面は悪と偽りの清め、真理と善の植え込み、この真理と善の結合、これら三つによって再生されます。
祭壇の上で焼く、とは主の神的愛からを意味します。祭壇は主の愛の善を意味するからです(AC10034)。

脂肪は善を意味します。しかし脂肪でない肉は、以前の愛の悪が意味されます。
余計なこだわりや、偽りを表す皮、そのほかの不潔な汚物は、天界を表す宿営で焼いて捧げてはなりません。地獄の火である自己愛が燃えあがるからです。そのため宿営の外で焼き捨てます。

他人に対する軽蔑や、好意を示さない者への恨み、そして最終的には嫌悪、復讐、残虐や冷酷、これらは地獄で燃え上がる炎です。
天界に進むなら、天界の中でこれらの自己愛の火を燃やしてはなりません。

「ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。」(29:14)
次回以降 雄羊の犠牲が続きます



出エ
 29:1 あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。
29:2 種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいとを取れ。これらは最良の小麦粉で作らなければならない。
29:3 これらを一つのかごに入れ、そのかごといっしょに、あの一頭の雄牛と二頭の雄羊とをささげよ。
29:4 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。
29:5 あなたは、装束を取り、アロンに長服とエポデの下に着る青服と、エポデと胸当てとを着せ、エポデのあや織りの帯を締めさせる。
29:6 彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に、聖別の記章を掛ける。
29:7 そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする。
29:8 彼の子らを近づけ、彼らに長服を着せなければならない。
29:9 アロンとその子らに飾り帯を締めさせ、ターバンを巻きつけさせる。永遠のおきてによって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたは、アロンとその子らを祭司職に任命せよ。
29:10 あなたが、雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く。
29:11 あなたは、会見の天幕の入口で、【主】の前に、その雄牛をほふり、
29:12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。
29:13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。
29:14 ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。

ヨハネ福音書
12:16 初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
12:23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
12:27 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
12:28 父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」 

13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。

天界の秘義 10026. 「その雄牛の血を取り」これは神的真理が自然的あるいは外的な人に受け入れられることを意味することが「血」が主の神的善から発する神的真理を意味し、「雄牛」が真理と善を植え込み、清められるべき自然的人間を意味することから明らかです。
ここで述べられることは最初「血」が取られ、祭壇の角の上につけ、その残りを土台に注げとされています。これはみ言葉の「血」が主の神的善から発する神的真理を意味し、これによって全ての清めがなされます、なぜなら 真理は人に何が善で、どう生きるべきかを教え、人がこれを知った時、初めて善の情愛あるいは愛が植え込まれることが可能になり、人が再生されるからです。人が信仰を持つことができるように知識が最初に来て、そして善の生活である信仰生活を送ります。(悪と偽りの清めのすべてが、信仰の真理によって行われる結果、すべてが再生されます。9959参照)