新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。


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あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。エゼキエル36:26

新年を迎え、主の教会の発展と、個々人の再生の発展を深く祈ります。

霊的成長においても、新たな発展を着実に進めるため、目前に目標を立て、今現在の自分の霊的状態の確認が、私たちにとっては大切になります。霊的目標は十戒のある戒を日々守り抜くことでも、赦すことでも、夜寝る前に自分を振り返ることでも、毎日曜礼拝することでもかまいません。新年に達成可能な霊的目的を立てます。

自分の現在の状態を確認することも大切です。今日は新しい心と新しい霊を主からいただけるよう、自分の心が石となっていないかを確認します。

教義の知識の面においては、著作や聖書の読んだ量が多くなれば、知識は増えたかどうか、ある程度確認できます。
但し、それを正しく理解できているかは、別のことです。
これは同じ信仰を持つ、教会の仲間と交流を持つことで、自分の思い込みが混じっていないか、ちゃんと根拠を持っているかが、ある程度確認できます。
自分では正しく理解しているつもりでも、実はそうではなかったことに、時折はっと気づきます。それは他人から指摘されることもありますし、誰かに教えていて、自分で気づくこともあります。
さらに、それが身について、自分のものとなっているかは、これまた全く別のことです。
これは日々折々の自己点検によって確認しますが、最終的には天使や主によって確認されます。

みことばから得た、その教義自体が、教義ではなく生活が大切だと、繰り返し、繰り返し説きます。主の戒めに従って生きているかを確認するためには、定期的な自己点検が不可欠です。教会では、定期的に聖餐式を行うことで、その機会を提供します。
自己点検は、みことばを鏡として、自分の位置を反射させて確認します。「鏡はみことばから学んだ諸真理からできていて、それらに従った生活を送ることによって(諸真理が)深くしみこみます。」(真のキリスト教6-2)みことばに従った生活を送るにつれて、真理は明らかになります。みことばに従わない生活では、鏡に真理は浮かび上がってこず、曇ったままです。みことばを鏡とすることで、真理をさらに深く理解できると同時に、自分の行動や生活を確認することができます。

人を殺すなという戒めを守っているかを、深く明らかに知るためには、人の生命だけではなく、名誉も大切にし、さらに主から受ける霊的な生命であるその人の信仰も大切にしているかを考えます。するとただ肉体を殺してはならないと考えていた戒めは、自分以外の人の名誉や信仰も傷つけないように慈しむことであると、わかってきます。真理は、単語の集まりではなく、そして細かい命令の集まりでもなく、隣人を愛するための慈しみ、そして神の全人類に対する慈しみであると次第にわかります。おぼろげに見えていた真理、上から与えられた真理は、行うことによって、隣人への慈しみであることがわかってきます。みことばという鏡に、真理を浮き上がらせるためには、みことばに従った生活が必要です。みことばに深く従うことによって真理の理解は深まり、真理の理解が深まることによって、天界に向かう正しい生活も進むことになります。

しかし、私たちの動機には、必ず不純なものがかなり混じっているため、これら正しい理解と正しい生活の実践の原動力となるものは、実は、すべて自分以外からやってきます。よく吟味するなら、実は私たちの力では、ほとんど何もできないことがわかります。
これら正しい理解と生活を送り、私たちを改良し、再生させる力は、私たちは気づきませんが、実は神からやってきます。
「一般的には、聖霊によって意味される神的な行動と力強い効果は、私たちを改良し再生させる行為です。この改良と再生の効果によって、神的な行為とそれが生み出す力強い効果は、私たちを新しくし、生命を与え、清め分かち、義とします。次に、これらの効果によって、神的行為とその力強い効果は、私たちを悪から清め、私たちの罪を赦し、最終的には私たちを救います。」(真のキリスト教142)

再生の過程は、悔い改めから始まり、改良、そして再生と続きます。
悔い改めは、私たち自身の役割です。教会は、悔い改めから始まります。悔い改めを始めないうちは、どんなに教義を学び、理解しても、教会という名にすらふさわしくありません。教会のメンバー、主の弟子と名乗るなら、私たちが、この世で必ず行わなければならないことです。

私たちが行わなければならない悔い改めとは、自分自身を点検し、自分の罪を認識して認め、主に祈り、新しい生活を始めることです(真のキリスト教528)。一瞬で終わるようなものではなく、永い道のりです。
自分の罪を探し求め、自分の内に罪が間違いなくあることを発見して、深く反省します。口先だけではありません。もう二度と行わないと誓い、主に助けを求めて、後戻りしない生き方を始めます。主に助けを求めるまでは、私たちの業です。人間としての業です。主に助けを求めてから、やっと主の関与が始まります。主のお力を仰いだ時、漠然とではなく、私たちの個別具体的な悪と戦う覚悟ができたとき、主との関係が初めて生まれます。それ以前の主と関係は、お見合いで釣書を見るだけのようなものです。

そして新しい生活、過去の悪に二度と戻らない生活を送ります。悪に二度ともどらない生活を続けることで、初めて悔い改めとなります。自己点検と悔い改めはこの世を去るまで続く作業です。

さらに主の働きを強く求めなければならないのが、改良と再生の過程です。私たちは生きている内に改良の段階までに到達しなければなりません。そうで無ければ、来世での再生は難しくなります。人の働きだけでは、悔い改めの完成も改良も進みません。主の憐れみを乞い求め、聖霊・すなわち、主の働きを受け入れる必要があります。そして他の誰でも無く、イエス・キリストの働きを受け入れるのでなければ効果はありません(真のキリスト教560参照)。スウェーデンボルグでもなく、教皇でも牧師でもありません。そして父なる神でもありません。ただ、2千年前に地上に降りてこられ、今は全天界と全宇宙を支配されている救世主・贖い主であるイエス・キリストです。主がこの世でたどった道を、私たちもたどることで再生の過程と道が明かになるからです。漠然とした相手に助けを求めても道は見えません。

救世主・贖い主である主に、助けを求め続けることが、改良の進展でもあります。

私たちがまず主に求めるべきなのは、冒頭の聖句にある、「新しい心」と「新しい霊」です。主がお与えになることを約束されているからです。
「新しい心」とは、善きことを望む心であり、「新しい霊」とは、真であることを理解することを意味します。(真のキリスト教143)
主は善いことを行い、真であることを信じる者、善意と結ばれた信仰を持つ者に、これらの力を与えられます(同上)。私たちは、私たちの持つ役割を果たしながら、主ご本人に請い求めなければなりません。そうでなければ、「新しい心」と「新しい霊」は主からいただくことはできません。改良は人の業ではなく、主にお願いして初めて進みます。

そして、これらの「新しい心」と「新しい霊」を主から頂くには、私たちの役割を果たした上に、それを受け入れる謙虚で柔らかい心が必要です。尊大な心や、自らの功績を誇る心があっては、主から流入を妨害し、流入をはじいてしまいます。主の働きを受け入れず、主からの流入をはじく、これら尊大な心は「石の心」と呼ばれます。逆に、柔軟で謙遜する心、自らを低くする心は「肉の心」と呼ばれます。「石の心」は主からの流入を妨害し、私たちの霊的な成長を阻害します。

尊大な心や、功績を誇る心は、自己愛で一杯になった心です。地獄の愛でふくれあがった心です。そのような心は、主の愛や隣人愛と真っ向から対立するため、主からの流入ははじかれてしまいます。改良も再生もできず、善く生きるどころか理解も自分勝手な方向にねじ曲がってしまいます。

自己愛は悪そのものであり、悔い改めの過程に戻って、これを排除するしか道はありません。悔いた取税人をさげすむパリサイ人のように、人をさげすみ、自分を高くしようとする心が自分のうちにあれば、そのような心があることを認め、それは主の流入を拒む悪であると承認します。そして主に、贖い主であるイエス・キリストに力を求めます。

自分が尊大になったこと、功績を求める心で一杯になったのに気づきもしないならどうでしょうか?自分で気づかなくても、主は私たちにそれを気づかせようと、周りの人を動かして、それを気づかせようとされます。不思議な働きです。さらに周りの助けを拒み、自分一人に籠もってしまうようになれば、危険です。私たちを守り、主の教えを実行する兄弟姉妹の集合体である教会も拒むなら、主からの助け手をふりほどいていることに気づくべきです。

神殿に上がってきた、取税人は、神殿から遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』と言っただけですが、義とされて、家に帰りました。
天界の教えは説明します。
「遠くから」が心から来ることを意味するのは、人々が謙虚に感じる時、彼らは主から後ずさりするからです。なぜなら自らは、神、最高に神聖な存在のそばに寄る価値などないと考えているからです。彼らが謙虚に感じる時、自らは悪以外の何物でも無い、冒とく以外の何物でもないという考えにされてしまうからです。(天界の秘義9377)

私たちと天界の距離は、果てしなく遠いのです。再生というゴールは、遙か遠くにあります。
さらに主と最も高い天界と言われる第三界の天使の距離は、近づくことすらできません。第三界の天使の上の上のさらに上の階にいらっしゃる主と、私たち自身の距離の差がいかに遠いものか、いかに私たちは悪そのものであるかを認めることが、主から流入をいただくための第一です。

次に、主の流入を妨げる石の心、尊大な心を取り除かなくてはなりません。
新教会の私たちは、高い真理に接するため、知らないうちに、心が尊大になり、高ぶってしまう傾向があります。自分のいる位置、私たちは悪以外のなに物でもないことを忘れてしまいます。真理は決して私たちのものではありません。それは主のものです。そして、私たちは悪以外の何物でもありません。

新しい年の初めに、私たちが、自分の立ち位置、悪以外に何物でもないということに気づき、尊大な石の心を柔らかくし、肉の心とすることができるなら、主の流入、聖霊の働きを受けることができるはずです。
日々の生活で、謙虚になり、また主の御前に出る礼拝では、主と私たちの距離を確認して、深く跪き卑下します。言葉だけ、うわべだけの卑下や謙虚さではありません。心の奥底からの卑下です。
そうすれば、主からの流入、働きが豊にあり、私たちは、自分達での力だけでは難しい、主の戒めの深い部分が守れるようになります。悔い改めと改良が進みます。主が、その誓いの通り、主の霊、聖霊の働きを私たちに授けて下さるからです。

わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。(エゼキエル 36:27)アーメン

エゼキエル
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。

ルカ
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

天界の秘義9377
お辞儀をするの意味が、謙虚さ・卑下であることから明白です。礼拝がなぜ同様に意味されるのは、すべての礼拝とすべての祈りにある本質的な要素は、謙虚さ・卑下であるからです。謙虚さや卑下なしには、主の礼拝や祈りはありえません。なぜなら、神的なものそして主のものは尊大な心、すなわち、自己愛で一杯になった心には流れ入ることができないからです。なぜならそのような心は、頑なで、みことばでは「石の心」と呼ばれます。流れ込むことができるのは、ただ謙虚な心だけです。謙虚な心は柔らかく、みことばでは「肉の心」と呼ばれ、主から流れ込む善を受け入れることができます。すなわち主からの流入を受け入れることができます。これは「遠くからお辞儀をする」ことが心から出てくる卑下や謙虚さだけではなく、同時に主の流入をも意味する理由です。「主の流入」の言葉が使われるのは、主から注入する愛の善と信仰の善は、人と供に住まう主でいらっしゃるからです。「遠くから」が心から来ることを意味するのは、人々が謙虚に感じる時、彼らは主から後ずさりするからです。なぜなら自らは、神、最高に神聖な存在のそばに寄る価値などないと考えているからです。彼らが謙虚に感じる時、自らは悪以外の何物でも無い、冒とく以外の何物でもないという考えにされてしまうからです。これを心から認めるなら、真の卑下を持つことになります。ここから「あなたは遠くからお辞儀しなければならない」とは、謙虚・卑下と心からくる礼拝を意味し、同時に主からの流入を意味します。

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