フィラデルフィア | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

 「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。」(3:7)

黙示録七つの教会のうち、先週はサルデスまでを学びました。サルデスは生命のない礼拝、礼拝自体を目的とする教会です。
このサルデス教会かどうかはわかりませんが、ある教会の聖餐式が、ぶどうジュースと食パンで行われると聞きました。
著作には、カトリック教会では、聖職者はぶどう酒と聖餅を与えられるが、信徒は聖餅のみ与えられます。、信徒にぶどう酒が与えられないのは、聖書を与えられなかったことに相応していると書かれています。前述の教会が、ぶどうジュースと食パンを与えられると聞きましたが、新教会では種の入れないパンを聖職者が割って分け、信徒は自分で進んで食べ、ぶどう酒を自分で取って飲むという風にしています。主の愛と知恵を、みずから取って自分のものとするという意味が、聖餐式に象徴されるからです。
教会毎に、正確な相応が働いているのには驚きでした。その教会のやり方だと、「種」という偽りの入った食パンを食べ、発酵して霊的な真理になっていない「ぶどうジュース」を飲むことを意味するからです。
 
本日はフィラデルフィアについて学びます。ジェネラルチャーチの本部もフィラデルフィア近郊のブリン・アシンにあります。1897年にこの近郊で、天界の教えに基づく教会を建てようとする方が集まって始まったと記録にあり、この教会を目指いると思われます。
み言葉にあるフィラデルフィア教会は、主から由来する善からの真理によって治められる人々です。(AR172)
ここで治められるれるべき「真理」とは、どのようなものか、語られる方の表現から探ります。

『聖なる方、真実な方』(3:7)、これは神的真理における主を意味します。(AR173)
主の神的真理は、神聖と呼ばれ、主の神的善は「正と義」と呼ばれます。そして主お一人が神聖です。
聖書には、神聖とし、聖別しなければならないものが数多く出てきます。祭壇やアロンの衣装や息子、捧げものなどです。
「鰯の頭も信心から」などといいますが、ある新教会は、著作は神聖で、翻訳の複写も許されないと、極端に走ります。しかし、神聖なのは、主ご自身お一人だけです。そしてその神的真理が神聖です。
 「目の見えない者たち。ささげ物と、そのささげ物を聖なるものにする祭壇と、どちらが重要なのか。」(マタ 23:19)
この主の問いかけは、祭壇のほうが重要です。人からの捧げものではありません。自意識過剰なためか、自分の捧げものが重要であると勘違いされる方が出るたびに、この句を思い出します。
祭壇は油で聖別されており、油は愛の善を表すからです。愛の善をお持ちであるのは、私達ではなく、主お一人です。

神的真理はなぜ神聖とされるのでしょうか?
それは、「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、」からです。
これは主お一人が、救う全能の力をお持ちである(AR174)ことを示します。私達を救う力をただ一人がお持ちであり、主以外の何者にも帰すべきではありません。
ダビデは神的真理での主です。人を天界や地獄に恣意的に入れたり出したりされているのではありません。地獄から人を導き出し、天界に導きいれます。恣意的に自分の気に入った者だけを天界に入れたいとするなら、それは天地の神ではなく、自分は神の万能の力を持っているという狂人にしかすぎません。
人をすべて天界に導きたいという愛は、主お一人しかお持ちではありません。
自分だけは、自分が気に入った者だけを救いたいとするのが、人です。

しかし誰でも無条件に救うというわけではありません。天界に悪人と善人が混ざってしまう状況になれば、天界ではなく、混乱でしかありません。全ての人間の裏表を、知らなければなりません。

「わたしは、あなたの行いを知っている。」(3:8)
主は私達の外的な性格と内的な性格を同時に見てご存じです。
これを見たうえで、「わたしは、門を、あなたの前に開いておいた。」とおしゃいます。
主から由来する善から起こる真理によって治められる者には、天界が開かれることを意味します。
天界の教えは、今まで知られなかったこととして、こう述べます。
「主お一人が、天地の唯一の神です(マタ28:18)。従って主に直接行かない者は、天界の道を見つけること、門を見つけることができません。万が一近づくことを許されたとしても、門は閉まり、門をたたいたとしても開かれません。」(AR176)
天界とは、主ご自身で、主の神的真理によって導かれない限り、神的真理そのものである天界には入ることができません。
鈴木大拙のように方針変更して、主イエス・キリストではなく、仏教に救いを求めたり、あるカトリック教徒のように聖母マリアに祈ったりしても、天界は開かれません。求める相手が異なるからです。お救いになる力を持つ方以外に熱心に助けを求めても、効果はありません。
同じように、天界の教えを何冊か訳したり、何度も読んだりするだけでは、天界への道は見つかりません。主を天地唯一の神と、心から認めていないからです。
 
「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、」とは、他への力はなく、自分の無力を知る力です。
「主から由来する善から起こる真理に治められる者は、自分が悪と偽り、つまり地獄に対して、全く力を持たないこと、そしてさらに、自ら善を行う力、そして天界に入ることのできる力を全く持たず、主がお持ちであることを知っています。」(AR178)
自分自身には力がないと認めることは、フィラデルフィア教会の人間の大原則です。自分の無力を認めることが、この教会の力であると認めていらっしゃるからです。それにも関わらず、自分に力があると認めるなら、これを否定してしまいます。すると救われる余地がなくなります。

その上で、「わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかった」
すなわち、主の戒めを守って生き、主の礼拝によって動かされることを意味します。
時折、礼拝は必要なく、善を行なえばいいという方がいらっしゃいますが、それでは黙示録の別の教会となります。主の礼拝が必要ないとは、主の力が必要ないとするのと同じです。主の前に自分を低くするからこそ、主から力を得ることができます。自分の力だけで十分と考えるなら、礼拝もせず、自分の無力を信じないことになります。いずれもフィラデルフィアの教会ではないことになります。

それらの人々、フィラデルフィアの教会に属さない者は、「サタンの会衆に属する者」、すなわち、偽りの教義に囚われています。(AR181)
自分は教会を奉じていると言いながら、じつはそうでありません。
 「見よ。すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たち、」(3:9)
自分はこの教義を受け入れると口では言いますが、実は何も受け入れていない者のことです。ユダヤで意味される、愛の善が教会を産み出します。しかし、実は愛の善を持っていないのかもしれません。

新教会の教義を受け入れると口にする人は少なくありません。日本で何種類かの天界の教義の翻訳が出された時、これは本物の教えだと認め、受け入れた方、希望に燃え上がった方は大勢いて、当時は大変な勢いでした。
しかし年を経るごとに情熱は冷め、勢いは衰え、昔盛り上がった集会は、高齢化してゆき、若い人は稀となりました。そして、自分のペースで学びたい、原典のラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を学びたいという方が増えてきました。学究的で自分の知識欲やプライドを満足させるだけで、生活とは違う方向に進みます。
それと同時に、同じ仲間と共に学び礼拝をしようという人は、あっという間に減ってゆきます。自分が主導権を握り、思い通りに教会を運営したいという想いが多く、このような方にあふれかえっています。

しかし、真理は行わなければ全く意味がありません。どんなに学んで、どんなに素晴らしい翻訳をしようとも、そして天界の教えをどんなに多く出版しようとも、誰かが行わなければ、全く意味がありません。
教えの本を、誰かに無料で渡しても、実行された形跡を見たことがありません。読んでも正しく理解していると感心したことは、ごくごく稀です。自分勝手な解釈が進み、どこかで教えを歪曲します。

主はこれらの誤りが悪から出た偽りでなければ、新教会の真理を受け入れさせ、認めさせるとおっしゃいます(AR183)。
「わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」(3:9)
ある人の足元に来させて、ひれ伏させるのではありません。もし善からの真理を持っているなら、主によって受け入れます。(AR184) 自分勝手な思いを抑え、主に聞き従うという善が人の源になければなりません。
具体的には、
 「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、」(3:10)
忍耐とは悪と戦い、偽りを拒んだことをいいます、なぜなら忍耐は霊的な戦い、つまり最後の審判に試練に陥った時の内的に善であった者への主の守りを意味します(AR186)。すなわち、霊的な戦いで、進歩、少なくとも退歩がないことが求められます。
 
わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。 わたしは、すぐに来る。(3:11)
主がすぐに来るのは最後の審判の後、新しいエルサレムという新教会が設立されることを述べています。(AR187) 

「あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」(3:11)
冠、とは永遠の幸福が来る知恵を意味します。主から真理を通して得る善が知恵です。
神は愛と知恵と言われますが、この知恵は主ご自身です。そしてこの知恵は、人と主を結ぶ唯一の手段です。
知恵は知性や知識の源ですが、人が真理を実際に適用しようとする過程で生まれてきます。

直接、主を知るのはほぼ不可能です。
モーセに対して主は「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出33:20)とおっしゃっています。
主は愛と知恵ですが、主の愛は、人間の愛をはるかに超え、利己的に生まれついている人間には理解さえ及びません。主の愛を感じ、見ると言う人がいますが、知的なひらめきがありますが、心と魂に何かを感じるだけです(AR200)。人は、知恵を通して主と結びつきます。主が私達にされておられる無数のことを、知性と知識によって知ることで、少しずつ神的愛を知ってゆきます。

知恵をどのようにして得ることができるのか、天界の教えにヒントが描かれています。
「知恵は、人が真理を実行するのを止めれば、すなわち、人がそれに従って生きない時に滅びます。主はまた知恵を愛するのを止め、そして主を愛するのを止めます。」(AR189)

私達は、主の真理を実行することで、知恵を少しずつ得てゆきます。そして神的真理も少しずつわかってきます。真理を行うことを止めるなら、神的真理である冠は奪われてしまいます。絶えず真理を実行することで冠を奪われないようにします。

この冠である知恵を、行うことで自分に結びつけることができるなら、勝利を得ることができます。(AR190)
そして行う真理は、主の新しいエルサレムを支える真理となります。その真理は聖所の柱として、主の教会を支えてゆきます。行い続けていれば、神的真理は記憶ではなく、心と魂に刻み込まれてゆきます。
こうしてフィラデルフィアは、新しいエルサレムとなることができます。

 「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」(3:12) 
アーメン。


詩編
99:5 われらの神、【主】をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。

132:17 そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。
132:18 わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。」

黙示録
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8 「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
3:13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 黙示録解説189. 「あなたの冠をだれにも奪われないように」
これは、永遠の幸福が来る知恵を失わないように、を意味します。

人は主から真理を通して得る善を源として知恵を得ます。それ以外の源はありません。
人はこれらの真理を通して知恵を得ます、なぜならこの方法は主がご自身を人に結合し、人が主ご自身と結合するものであるからで、そして主は知恵そのものであるからです。従って知恵は、人が真理を実行するのを止めれば、すなわち、人がそれに従って生きない時に滅びます。主はまた知恵を愛するのを止め、そして主を愛するのを止めます。

知恵によって霊的な事柄における知恵を意味します。ここを水源として知恵が他の全てに流れ、知性やこの知識に流れ、真理と知りたいという情愛を起こします。

冠は知恵を意味します、なぜなら知恵は人の最も高い場所を占めて冠となるからです。王の冠が意味するのはそのためです、なぜなら王は霊的意味では神的真理(20)であり、神的真理からあらゆる知恵が来るからです。