サルデス | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

また、サルデスにある教会の御使いに書き
送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。(3:1)

先週まで、黙示録七つの教会のうち、エペソ・スミルナ・ペルガモ・テアテラを学びました。
これらはアジアにある実在の教会ではありません。新教会に導くことのできる教会を類型化したものです。それらの現状の真理の受け入れ方を示し、助言と警告を与えています。
教義的真理だけを大切にするエペソ教会。生活の善を第一とするスミルナ教会。行いだけで教義的真理を顧みないペルガモ教会。信仰によって仁愛を大切にするか、信仰と仁愛を分離するかで分かれるテアテラ教会です。

七つの教会で示されるものは、人の真理の受け入れ方を示しています。真理の受容の方法は現代でも同じく霊的なものであるため、現代の教会にあてはまります。また、新教会と称する教会の中でも、その中の特定の人々の受け入れ方を表します。出版を生業とする、「出版業」もいくつかありますが、これは教会とは全く別の存在です。生き方に全く関わらないからです。
黙示録に出る七つの教会は、決してアジアにあった二千年前の個別の教会ではありません。
聖書は神のみ言葉で、神は時間と空間などに拘束されないため、その受け入れ方は霊的です。
教会がこの真理の受け取り方へ違いを持ち、その教会に対する主からの勧告と警告が描かれています。

サルデスと呼ばれる教会は、「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」(3:1)教会です。
衝撃的な表現で始まります。生命のない礼拝を行っている、という指摘です。
どんな礼拝が生命のない礼拝なのでしょうか?熱気が欠けている礼拝のことを言っているのでしょうか?
天界の教えによると、生命のない礼拝とは、「礼拝自体を目的にしたものです。
教会に何度も通い、説教を聞き、聖餐に与り、み言葉や敬虔な本を読み、神様のこと、天界と地獄のこと死後の世界のことを語り、敬虔に朝に夕に祈ります。」
これが彼らの「礼拝」で、これを行っていると人は自分は熱心に礼拝を行っていると感じ、この礼拝を行ってさえいれば人は救われると信じます。この天界の教えによると、現代の教会のごく一般的な側面を描写しているようにさえ見えます。

しかし、教会の生命は、信仰の真理を知り、隣人愛の善を行うことです。もし生命のない礼拝を行っているのであれば、隣人愛と信仰を外に対して示しますが、人の内心は悪と偽りの間をただよっているだけかもしれません。これが、現在行われている礼拝の主流です。(AR154)

主イエスはこの教会は「実は死んでいる」と指摘されます。
主は「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方」(3:1)として現れます。
主は神的真理から判断されます。
神の七つの御霊とは、主から発する神的真理です。七つの星とは、み言葉のあらゆる善と真理の概念を意味します。
これらの善と真理に基づいて、神的真理として述べられます。
「礼拝は真理から生命を持ちます。それらの真理に従った時に生命を持」(AR155)つからです。

個々の礼拝の動作自体には生命はありません。ヨガ体操のように行っても、健康にはいいかもしれませんが、それは決して礼拝とはなりません。
礼拝によって真理とは何かを学び、その真理が主から来ていることを知り、その上で真理に従うなら、はじめて生きた礼拝となります。
例えば聖餐を考えてみます。教会が推奨している聖餐式に参加すれば、何か素晴らしいことがあると漠然と考えます。
しかし、ただパンとぶどう酒を聖句とともにいただくだけなら、聖餐式の生命がありません。
聖餐のパンとぶどう酒は、神の愛と知恵を意味します。聖餐式でパンとぶどう酒をいただくとは、パンで表される神の愛を自分のものとして行うことであり、そしてぶどう酒で表される神の知恵で、それを信じ、理解することです。
これをヒントにすれば、「聖餐式には、教会の性質のすべてと天界の性質のすべてが、一般的にも個別的にも含まれることが理解できます。」(TCR711)
これを深く考えずに行ういなら、聖餐式はただのパンとワインの飲み食いだけの儀式に終わります。
その教会がサルデスで表されています。外面的儀式だけなら、 「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる」教会となります。

この聖餐式の様子を霊界で見た様子が天界の教えに描かれています。その霊たちは、「何度も聖餐式があり、聖なるものを食べ、飲んだ、その度に罪が赦された」と言い張ります。毎日曜に礼拝に出て、牧師に聞き、朝夕熱心に祈ったとも述べます。
ルカ書にも同じような表現があります。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』(13:26) しかし彼らの心の内側が暴かれると、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』(13:27)と天界から追い出されてしまいます。
教えられた真理に従う生活をしてないからです。

霊界で霊たちは追い出された理由を尋ねます。すると、こう言われます「あなたたちは神的真理には全く関心がありません。しかし、神的真理に従った生活が天界に導きます」。(AR157)
なぜなら内的性質は外的性質を従わせ、内的なものに一致しないものをすべて否定します。死後、人は自分のこだわっていた内的性質そのものとなります。(AR157)内的性質に合わない外的なものは、なくなります。
これはイザヤ書ではこう描かれています。
「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は使者の霊を生き返らせます。」(イザヤ26:19)
外部だけが来世で蘇り、その外部が内部であったことを示します。

主はおっしゃいます。 「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」(3:2)
生命のない礼拝を行っているか、そうでないかは、外的には同じです。人が生命のない礼拝を行っているなら、真理を学び、それに従って生きなけばなりません。(AR159)
励まして、生かそうとしなければなりません。
主は私達の内面と外面を同時に見ておられます。外面だけの礼拝を行なえば、主の臨在がありますが、主との結合は生まれません。内面と外面で礼拝するなら、主が臨在し、そして主との結合が生まれます。(AR160)

「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」 (3:3)
礼拝はすべて、最初は自然的です。しかしみ言葉からの真理と、それに従った生活を通して、霊的になってゆきます。(AR161)
一般に、聖書からの教えは、み言葉の文字の引用から始まります。み言葉を通して真理を抽出し、その真理に従っていきます。
隣人を愛せよと言われれば、それは隣人を傷つけないことから始まります。人は隣人よりも自分を大切にするよう生まれついているからです。その教えは、十戒の表面的な文言に書かれていますが、より深く守れば、霊的な意味、天的な意味を知り守ることができます。人を傷つけないことが、物理的な殺傷だけではなく、人の心や名誉、そして主の御心まで広げると、天使と同じレベルで真理を行うことになり、死後天界で天使として受けいられます。この自然的なものから、霊的なものへの上昇は人間でしかできません。犬や猫のペットは愛らしいかもしれませんが、神を受け入れるように創られていません。

また隣人とは何か?困っている常習犯罪者を助けると、逆に犯罪を増やし、別の隣人を困らせる結果にはならないか?という疑問がわきます。もちろん知恵が必要です。この知恵も、社会の中で育って行く時に、育ってゆきます。
「礼拝のすべては最初は自然的ですが、み言葉からの真理と、それらに従った生活で霊的になります。人は自然的に生まれますが、教えられ、市民的、道徳的になり、後で霊的になります。これが生まれ変わることです。
『あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。』とはこのことを言っています」(AR161-3)
 
『それを堅く守り、また悔い改めなさい。』(3:3) このみ言葉によって生命のない礼拝が生命を持ちます。
しかし、『もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。』(3:3) 生命のない礼拝が続くと、主がやって来るのではなく、地獄がやってきて、これらのみ言葉の真理を失ってゆきます。礼拝によって、形だけにこだわり、真理とそれに従う生活によって自分の霊的生命を養わないなら、み言葉の真理がなくなってしまいます(AR164)
マタイ福音書でも、財産を預けられた僕のうち一タラントを預かった僕が地中に隠したことが、この主のみ言葉にあげられています。
 「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ25:29,30)

 「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」(3:4)
衣を汚さないとは、真理を持ち、ここに参列する悪い習慣と偽りに汚されずに礼拝したことが意味されます(AR166)。
白は真理を表し、彼らの礼拝が、悪とその着物である偽りによって汚されなったことが意味されます。

 「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」(3:5)
勝利を得るとは、改良され、霊的になることが意味されます。(AR168)
人は、悔い改めから始まり、考え方を改良されてゆき、最後には生命自体が生まれ変わります。再生をイメージするなら天界で天使に生まれ変わることです。この世の生の中で、再生できる人はごくごくわずか、ほとんどいないとさえ言われています。
しかし、悔い改めと改良、この世にいる間に始められなければ、霊界に移ってしまえばできなくなります。人の生命自体は簡単には変えられないからです。
私達は最初に自分が悪そのもの、偽りそのものであり、これを認めてせめて一点だけでも改めなければ悔い改めとはいえません。そして悔い改めとは、教会の儀礼の中では、洗礼となります。新教会の洗礼は、旧い教会の洗礼とは異なります。新しい真理・純粋な真理によって悔い改め、改良され、最終的には再生することです。
聖餐式は、自分は生まれ変わらなければならないと、時点、時点において覚悟を改め、主の愛と知恵である、パンとぶどう酒を受け取ることです。新教会では、パンとぶどう酒を聖職者が差し出し、信者は進み出て、それを自分の手で受け取ります。主の愛と真理を自ら受け取り自分のものとする覚悟がなければ、形だけのサルデスの教会となってしまいます。そして聖餐を受けるにふさわしいなら、聖餐を受ける者には大きな効果があります。それは主と結合することです。(AR167)

私達は、主が臨在されるだけはなく、「主と結合すること」が私達の目標であることを聖餐式で確認して再生の道を歩みます。
自分の状態を振り返り、正しい道を歩むため、主はそれぞれの教会に対して述べられます。
 「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」」(3:6) アーメン。


イザヤ26:19 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は使者の霊を生き返らせます。

黙示録
3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
3:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』



黙示録解説 167.  「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」
 これは、彼らが主からの真理で治められているので、、主の霊的王国で、主と暮らすことになることを述べています。

これが、み言葉の意味です、なぜならみ言葉で「歩く」とは、生きることを意味し、神とともに歩むとは、神とともに暮らすことが意味されるからです。また、白い衣を着るとは、真理によって導かれることを意味します。み言葉の色は、白については真理について書かれています、なぜならその源は、太陽の色彩から来ていて、赤は善を意味し、太陽の炎に源があり、黒は偽りについて言われます、その源が地獄の闇であるからです。

主からの真理によって治められる人は、主と結ばれるため、「ふさわしい」と言われます。なぜなら霊界でふさわしいとは、主との結合から来るからです。
「彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」 が、主からの真理によって治められているため、主とともに暮らすことになることを意味することが明らかです。

主の霊的王国で生きるとありますが、天界の全体は二つの王国に分かれています、天的王国と霊的王国です。天的王国で暮らす者は、主からの愛の善で支配されています、そして霊的王国にいる者は主からの知恵の真理で治められています。後者は白い衣で主と歩くと言われています。さらに彼らは白い着物を着せられています。