ペルガモ テアテラ | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。」(2:12)

主の周りにある、新教会になろうとしている七つの教会に対する勧告が続きます。これら七つの教会は、個別の教会ではなく、私達の内にある真理の受容状態を表します。そのため、いくつかの教会に対する受容の状態が、自分に対するもののように感じます。

前回、黙示録解説の第二章前半では、エペソと呼ばれる「生活の善ではなく、教義的真理を第一と」(AR73)する教会と、スミルナと呼ばれる「生活については善くなろうと努力しているが、教義については偽りに囚われている。」教会を概観しました。これに引き継き、ペルガモとテアテラに対する勧告と警告です。新しいエルサレムと呼ばれる教会になるための条件が、散りばめられています。

ペルガモは、教会に関係することをすべて善行に置き、教義的真理を顧みない人々を意味します。(AR107)
キリスト教会は大きく分けると、
善行だけで真理を考えない教会と、
礼拝だけで、行いと真理を考えない教会があります。
善行だけを考え教義の真理を考えないペルガモは、前者に属します。
そして後者の代表格は、第三章のサルデスで扱われます。

一般に、行いさえよければ、それで十分ではないかと考えがちです。
それでは、行っていることが偽りかどうか、わかりません。
そこで、主は『鋭い、両刃の剣』を持つ姿で現れ、偽りを取り除かれます。
ペルガモと呼ばれる状態には、偽りを取り払う真理、み言葉からの教義的真理が不可欠です(AR108)。

なぜならこの教会はサタンの王座のある所にあるからです。一般に偽りと悪は、サタンと悪魔で表されます。サタンの王座のあるところに住んでいるとは、偽りの暗闇の中に住みながら、善行を行っていることが意味されます。偽りの暗闇の中に住みながらも、善行を行っていることが「わたしの名を堅く保つ」によって示されます。
 「しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」(2:13)

この信仰は、一般的意味での信仰ではなく、神的真理を意味します。神的真理とはみ言葉そのものです。み言葉を神的真理として認めたことが、「信仰を捨てなかった。」によって意味されます。(AR111)
忠実な証人アンテパスは、個別の人名ではなく真理の告白を意味し、アンテパスは天使の言葉に由来します。またギリシア語では、殉教者と証人は同じ言葉です。その時の教会の偽りであらゆる真理が滅ぼされたにもかかわらず、み言葉を神的真理として認めました。

「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラム(ヘブライ語発音でベイラムBallam)の教えを奉じている人々がいる。バラム(ヘブライ語発音でベイラクBalak)はバラクBallamに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」(2:14)

バラムBalakはモアブの王で、 魔法使いのバラクBallamを雇いイスラエルを呪わせましたが、逆に三度まで祝福します。そこから教会の神の礼拝を、偽善によって汚すことが意味されます。(AR114)  バラクBallamは偽善者を意味します。
また、ニコライ派の教えは、エペソ教会にも出てきた功績を求める心です。エペソ教会は教義的真理を第一にするので功績を嫌いましたが、ペルガモ教会は、自分の功績を求めます。善い行いを求め、教義を第二とするからです。
功績を求める心と、善行だけで教義的真理にかまわない心、偽善的行いはすべてペルガモ教会の礼拝とつながってゆきます。(AR115)

これらの心や行いは、真理と結びついた善行を破壊してしまうので、悔い改めよとおっしゃいます。主の両刃の剣の神的真理が、それらの偽りと戦い、いかに意志し思い、愛し信じるべきかを教えます。(AR116)

教義的真理による善行は、生きた知恵となって、「隠れたマナ」となり(AR120),私達の霊的生命を支え、成長させます。この時与えられる「白い石」はそれを支える真理です。

主お一人に向かい、み言葉の真理に従った善行を行うなら、この世で、神の法の真理が生命に書き込まれ、第三界の天使になることができます(AR121)。
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』(2:17)

主は、悔い改めるなら、私達を第三界の天使にさえなることができるよう、導かれています。
次の教会はテアテラです。 
「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。」(2:18)

テアテラは仁愛から起こった信仰を持ち、そこから善行を行う人・教会。そして仁愛から分離した信仰にいて、悪行を行う人・教会の二通りが意味されています。(AR124)
結果としては、善行と悪行の二つです。しかし、それぞれ異なる信仰から生まれています。
そのため説かれる主は、「燃える目を持ち、光り輝く真鍮の足を持つ神の子」から説かれます。燃える目は、神的愛の神的知恵です。愛から説いて、私達に勧告されます。
足は自然的なものを意味します。愛からの知恵を、自然的なものに及ぼします。

テアテラに属する者は、「近ごろの行いが初めの行いにまさっています」。すなわち、最初に仁愛があれば、その信仰は育ってゆきます。純粋に仁愛から始めていれば、真理は継続的に成長してゆくからです。

ところが、仁愛と信仰が離れてしまうなら、その信仰はつまずきの石となります。つまづきの石は、イザベラです。 
「あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。」(2:20)
イザベラは列王記に出てくる女性で、異教を奉じるアハブ王と結婚し、主の預言者たちを殺し、犬に食われて死にます。聖書の各々の表現は、この教会の霊的な要素を描いています。あらゆる種類の欲念に仕え、仁愛から信仰を分離し、み言葉の教義からの真理を破壊します。
犬は欲念を表し、自分の持つ欲念によって信仰はなくなります。当時の改革派教会から、ローマカトリックの教会は、み言葉の善と真理を不純化し、歪曲してゆきます。
どの部分を不純化し、歪曲したかを言えば、その全体です。み言葉の目的は、主と隣人を愛することですが、これらの目的が見えなくなり、別の方向に歩み始めます。すなわち、仁愛からますます離れてゆきます。

「しもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」
み言葉の一つ一つには、善と真理の結婚があります。この善を真理から切り離すなら、不品行を行うことになります。結婚を切り離し、み言葉を自分勝手に解釈してゆくことが、霊的な不品行・姦淫です。み言葉を欲望により不純化し、歪曲して教え、誤りに導き、その誤りを礼拝するなら、偶像の神に捧げた物を食べさせることになります。

み言葉はいたるところで、「悪は断ち切らなければならず、そして善は行わなければならない、善を行なえば天界に行き、悪を行った者は地獄におちる、そして行為の伴わない信仰には生命はなく、奈落的である」と教えますが、その反対を教えることが不善化であり、不純化です。
み言葉の不純化と不善化とはどのような部分で、その具体例を挙げよと言われますが、主と隣人を愛する教えに反する教えすべてです。この二つに反する教えのすべてがみ言葉の不善化と不純化になります。なぜならみ言葉が教えるすべてが、この二つにかかり、律法と預言者と言われるからです。(AR136)

これらの不純化・不義化された教えから戻らず、とどまるなら、そこは 「病の床」であり、「大きな患難」(2:22)となります。それら偽りが全体にまん延してしまうからです。(AC137)
不純・不義化された教えは、み言葉全体を偽りに代えてしまいます。これが「この女の子どもたちをも死病によって殺す。」によって表されます。

「悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとし」ません。
信仰による救いだけを求め、さらに思いやりを持たない信仰に走ります。悔い改めて、仁愛を持つよう説きますが受け入れません。
 
「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。」(2:23)
思いと心の原語は、心臓と腎臓です。心臓と腎臓は、血液の偽りを浄めます。
信仰の真理が偽りを清め、愛の善が悪を清めます。(AR140)
行いのうちにある仁愛と信仰に応じて与えられます。与えるものは、仁愛と信仰です。(AR141)

しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。(2:24)

これら仁愛と離れた信仰、すなわち偽りに深く染まっていない者を、主が守られることを意味します。
仁愛と離れてしまった信仰が、サタンの深いところによって表されます。仁愛と離れてしまった信仰が、これほど凶悪なものとされているかは驚きです。
名がどんな名であるかにかかわらず、たとえ新教会と名乗っていても、思いやりを無くしてしまった教義・信仰は、偽りにしかすぎないことを思い出してください。その偽りを深く学んではいけません。

「ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」(2:25)
主の到来は、新しい天界と新しい教会の形成です。それは新しいエルサレムの教義ですが、その教義は主と仁愛を教えます。しかし、もし新しいエルサレムの教義が、主と仁愛を教えず、主がどんな方か知らず、仁愛がどんな行いかを知らないなら、知らないのも同然です。

この新しいエルサレムの教義、主と仁愛の教えが、しっかり理解に根付くまで悪と偽りと戦い続けるなら、地獄から来る悪、人の知性から出る「土の器」をものともしません。これを打ち砕きます。そして知性と知恵が与えられます。
与えられる知性と知恵は、次の言葉で表されます。
「また、彼に明けの明星を与えよう。」    (2:28) アーメン。


民数記
 24:10 そこでバラクはバラムに対して怒りを燃やし、手を打ち鳴らした。バラクはバラムに言った。「私の敵をのろうためにあなたを招いたのに、かえってあなたは三度までも彼らを祝福した。

列王記1
18:4 イゼベルが【主】の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った──

18:13 あなたさまには、イゼベルが【主】の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は【主】の預言者百人を五十人ずつほら穴に隠し、パンと水で彼らを養いました。


黙示録
2:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。
2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
2:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
2:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
2:18 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
2:19 「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。
2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
2:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
2:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
2:23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。
2:24 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
2:25 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
2:26 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
2:27 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
2:28 また、彼に明けの明星を与えよう。
2:29 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 黙示録解説 120. 「食べる隠れたマナを与える。」
これは知恵と天界的善の同化を意味するのは、その時、行った者と主の間に結合が起こることを意味しています。
 善行に従事し、同時にその行いに教義的真理を加える者に与えられる隠れたマナは、第三天界にあるような内密の知恵を意味します。この世で善行と教義の真理に同時に焦点を当てるなら、他の天使の持つ知恵を超え、内密の知恵を享受することができます。なぜなら、記憶ではなく、生命に彫り込まれるからです。
そのためこの性格は教義的真理から話すのではなく、それを知り、またそれを他人が話す時に知るから、行います。

愛の善は、善行に教義的真理を加え、主がご自身を結び付け、その善行に知恵を与えるときに、分け与えられます。そして隠れたマナが与えられるのは、次の主のみ言葉に見ることができます。

神のパンは天から降りてきて、世に生命を与えます・・私は生命のパンです・・あなたの父たちは荒野でマナを食べましたが死んでいます。これは天から降りて来たパンで、これを食べる者は死にません。私は天から降りてくる生きたパンです。このパンを食べる者は永遠に生きます。(ヨハネ 6:31-58)

主ご自身が隠れたマナであることは、主お一人に向かった時にその行いの内にあることが明かです。

主あるいは、天界的愛と知恵の善といおうが、その意味は同じです。しかし、自然的理解に落ちた時は困難を生じ、自然的概念で曇るため、秘義とされています。しかし「神の愛と知恵」の最初から最後までに見ることができるように、静寂と太陽の輝きのもとに落ちるなら、理解できます。