青服のすその回りに金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。アロンはこれを務めを行うために着る。彼が聖所に入り、【主】の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。28:34,35
日本の神社で参拝のおり、鈴を鳴らします。これは、天照大御神が天岩戸に隠れてしまったときに、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が鈴の付いた矛を持って踊ったことに由来するといわれています。この鈴は神楽鈴と呼ばれます。
賽銭箱の前にある鈴は、本坪鈴(ほんつぼすず)と呼ばれ、鈴を鳴らす紐を引いて鳴らせます。これは神様にいい音色を捧げ、紐によって神と自分をつなげるという意味があるとのことです。自分がお参りに来て、賽銭を入れたことを神様に知ってもらう
ためではありません。しかし神様に賽銭を投げたり、いい音を捧げ、紐でつながるだけで、何かいいことがあるのでしょうか?見返りを求めて奉仕することで、何か返ってくるのでしょうか?
アロンのローブの裾にも金の鈴がついています。ただし、その鈴は、ざくろの間につけられています。
金の鈴は、教会の礼拝と教義の全てです。教えが告げられ、伝えられるので、注目して聞き、受け入れてくださいということを告げています。
この鈴の音は、ヨハネ福音書にある主の声と同じです。主の声は、私達の性質を知り、そこから連れ出そうとしています。私達の性質が悪そのものであることを告げて地獄にいることを教え、そこから連れだそうとされています。
しかし、主の声に聞き従わない者、主を救い主であると信じて認め、その導きに従わない人は、悪魔の声に従います。
せっかくの主の教え・導きを知りながら、実際はその導きに従おうとしない人たちがいます。それは新教会であるからといって違いはありません。彼らは気づきさえしません。
主の声・教えを自分を救い出してくれる声と認めないからです。かえって自分の声に従い、地獄に居続けます。
自分の声だけに従い続けます。すると見返りだけを求めることになります。
「そのすそに、青色、紫色、緋色の撚り糸で、ざくろを作り、そのすその回りにこれをつけ、その回りのざくろの間に金の鈴をつける。」(出エ28:33)
アロンの青ローブの裾には、青・紫・緋色、三種類の色の糸で作られたざくろが置かれています。
ざくろ。これは善の記憶知を意味します。(天界の秘義9918)
ざくろは、熟すと割れ、中には多くの実が含まれる果実です。この果実にはポリフェノールなどの養分が多く含まれ、薬用にも用いられています。
小学生くらいの時に、友だちからもらって食べたことがありますが、ざくろの果実は、皮の中に赤い実が沢山詰まっていて、かなり水っぽいものでした。確かに甘味と酸味が混ざっていましたが、他の果実と比べると、バナナやミカンのほうを好みます。
そして、このざくろは、青色、紫色、緋色の撚り糸で作られ、仁愛と信仰の善を意味します(AC9919)。
幕屋の幕と同じ色が使われています。ただしリネンはありません。リネンは下着に使われています。
ざくろは記憶知として、アロンの青いローブの裾につけられていますが、つけられた飾りのままでは、食べることも薬とすることもできません。
裾の「周りにこれをつけ」(28:33)は、正確には「それらの真ん中の周り」で、真ん中とはその内側を意味します(AC9922, 参照1074, 2940, 2973, 5897)。
金の鈴で表される、教義と礼拝を聞き知ることが中心で、その周りに、ざくろがあることになります。
ざくろで表される記憶知の中心は、金の鈴で、その周りにざくろが配置されます。金の鈴の両側が常にざくろとなります。
ざくろで表される記憶知は、善の受容体であり、容器です。金の鈴である、教義と礼拝の善の容器とならなければなりません。もし教義と礼拝が善と真理からではなく、単なる記憶知だけであれば、そこに生命はなく、ただの飾りにすぎません。
教義と礼拝は、善と真理の記憶知から学びます。もし記憶知がなければ、何も知ることができず、人は「無知で」しかありません。記憶知がなければなにもできません。
しかしそれが善と真理から離れてしまってはなりません。そのため金の鈴と、ざくろは互いに順番に並びます。金の鈴、善から生まれる礼拝と教義の善があり、それを受ける受容体がざくろです。
人間には、外的な記憶と、内的記憶があります。外的記憶は自然界のもので、私たちが記憶がいい、あるいは悪くなったと呼ばれているものが外的記憶です。この外的記憶は、この世を去る時も、死後の世界に持ってはゆきますが、死後の世界では沈黙してしまいます。霊的なものでないからです。
内的記憶は霊界の中にあります。そして内的記憶に書き込まれたものは、記憶知とは呼ばれません。それは人間の生命に書きこまれていて生きているからです。
生命に書きこまれた時、信仰の真理、そして愛の善と呼ばれます。
善は真理から行います。なぜなら真理がなければ、何が善かわからないからです。真理は善の容器です。
しかし、たとえ真理の知識があっても、知識のままとしておくなら、それは真理ではありません。
内的人間は、記憶知によって開かれてゆきます。しかし記憶知は、賢明になるか、正気を失ってしまうか、これらどちらの手段にもなります。
記憶知は使用し続け、無意識の習慣のようになってゆくと、記憶から消えてしまいます。意識さえしなくなります。しかし実は、内的記憶の中に書き込まれます。霊界でこの内的記憶が生命を持ちます。命の書と呼ばれます。これはカタカムナと呼ばれるような怪しげな文字ではありません。私達の人生で歩んできたことが、生命に書きこまれたものです。その人生の歩みは善きも悪しきもあります。
私達がいくら真理と善の知識を学んでも、記憶しているだけで使わないなら、それは外的記憶であり、内的記憶ではありません。内的記憶こそが霊界に入って役立つものです。どんなに知識があろうと、それが外的記憶に留まっていれば、霊界では全く役に立ちません。静止してしまいます。(AC9922 2475-2486, 6931)
しかし、この世で、記憶知が全くなければ、善と真理を学ぶことさえできません。
そのため、「青服のすその回りに金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。」(28:34)
この裾に金の鈴とザクロが付いた、青いローブがなければ、アロンは職務を果たすことができません。
知識を与えながら、理解させ、実行の重要性を説き、具体的な行いを勧めます。
この職務は、主が行います。救いと贖いの職務であるからです。現実には聖職者が行いますが、実際に行うのは主お一人です。
「彼が聖所に入り、【主】の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。」(28:35)
アロンの職務は愛の善と、信仰の真理から礼拝し、これを宣教することです。
もし主の教えを伝えることができないなら、アロンの主の表象は亡くなってしまいます。
この表象が終わることが、「彼が死ぬ」ことによって表されています。
アロンが主の神的人間を表象することは、
「純金の札を作り、その上に印を彫るように、『【主】への聖なるもの』と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。」(28:37)
で表されます。被り物はミトラといいます。聖なるものは、主お一人しかいません。そのため主の神的人間を表します。
この純金の札がアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が【主】の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。(28:38)
アロンは主を表すため、主に聖なる捧げものをすれば、代わりに人類の罪を背負ってくれるというふうに読む人がいるかもしれません。しかしすべての行いは死後も残り、人は自分の行いによって裁かれます。自分の罪を他人に移すなどということはありえません。
「咎を背負う」とは、主が人のために地獄と戦うということです。
なぜなら人は自分から地獄と戦うことはできません。主お一人がこれをなさいます。しかし人が神的」善と神的真理の受け入れ方によるという差があります。
そして、主が地獄を取り除かない限り、地獄は絶えず人とともにあり、人を支配します。人が悪を止めるに応じて、地獄を取り除きます。(cf AC 9937 )
自己点検をすると、自分の罪の重さを知ることができます。そして私達は、さらに次々と罪を犯し続けています。そしてこれは誰も取り除くことができません。ただ自分が戦う覚悟を持って、戦ったとき、はじめて主がともに戦い、罪を隅に取り除くことができます。
この道のりが簡単ではないことは、考えてみればわかると思います。自分からは決して地獄と戦うことはできません。
アロンの青いローブの裾に、小さい金の鈴と、ざくろがついていたように、一つ一つ戦う覚悟をして、主と戦い抜きます。
主は世におられたころ、すべての試練で地獄と戦い、その全てに勝利されました。私達もこれらの試練に、勝ち抜かなければなりません。勝たない限り、改良も再生もできません。
人は一度、洗礼を受け、数回、聖餐を受けただけでは、再生することはできません。
洗礼も、私達は再生しなければならないことを思い出すための儀式です。聖餐は自分一人の力では戦うことができず、主の愛と知恵から戦い続けなければならないことを思い出します。
洗礼によって罪が流されて清くなり、主から愛と知恵であるパンとぶどう酒を受け、食べるだけでは何もいいことは生まれません。それは神社の鈴の音とさほど変わることはありません。
私達が自分の罪深さを知り、それを主とともになって戦おうと覚悟したときに、初めて改良と再生が始まり始めます。洗礼と聖餐は、その過程が始まり、またその途中であることを思い出させます。
日々主の愛と知恵を受け、主から戦います。自分から戦うなら、戦うことさえできません。なぜなら戦っているのは、自分にある自己愛と世間愛であるからです。明日から、あるいはいつかは戦う、では、再生はできません。今ある自分の怠惰も含めて、戦います。
アロンが聖所に出入りするとき、金の鈴の音が聞こえたなら、それは善と真理から、戦えという合図です。この音が聞こえ、あるいは主の声が聞こえる限り、主と共に戦うなら、アロンの主の表象は終わらず、私たちも死なずに改良と再生の道を歩み続けることげができます。
「彼が聖所に入り、【主】の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。」
アーメン。
出エジプト記
28:31 エポデの下に着る青服を、青色の撚り糸だけで作る。
28:32 その真ん中に頭を通す口を作る。その口の周囲には、織物の縁をつけ、よろいのえりのようにし、ほころびないようにしなければならない。
28:33 そのすそに、青色、紫色、緋色の撚り糸で、ざくろを作り、そのすその回りにこれをつけ、その回りのざくろの間に金の鈴をつける。
28:34 すなわち、青服のすその回りに金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。
28:35 アロンはこれを務めを行うために着る。彼が聖所に入り、【主】の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。
28:36 また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『【主】への聖なるもの』と彫り、
28:37 これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。
28:38 これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が【主】の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。
28:39 亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺繍して作らなければならない。
28:40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表すターバンを作らなければならない。
28:41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。
28:42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。腰からももにまで届くようにしなければならない。
28:43 アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行うために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って、死ぬことのないためである。これは、彼と彼の後の子孫とのための永遠のおきてである。
ヨハネ福音書
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
10:2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。
10:3 門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
天界の秘義9918
ざくろ。ここでは善の記憶知を意味するのは、「ざくろ」の意味が善の記憶知であることから明らかです(9552)。
ざくろがをローブの裾につけますが、裾は天界と教会の極限あるいは最果てを意味し、そして教会の極限あるいは最果てとは、記憶知であることは、上述、天界と人の善と真理の継続的秩序(9915, 9917)から明らかです。
善と真理の記憶知が、ザクロによって意味されるのは、み言葉からの教義事項が、外的そして自然的人の記憶の内にある限り、記憶知にすぎないからです。
しかし、内的あるいは霊的な人の記憶に入る時、人がそれらによって生きる時起こることですが、教義事項が信仰に属する真理となり、教義事項が思いやりとなれば、霊的と言われます。
これが起こると、外的あるいは自然的記憶からほぼ消え去り、生来のもののように現れます、なぜなら、日々の使用を通して、本人の性質のようになるように、その人の生命に植え付けられるからです。
ここから記憶知がどのようなものであるか、どんな目的に仕えるかが明かです。従って教会の教義事項の目的が、記憶の内に厳粛に保たれていて、知性と知恵の下に置かれ、登らないあるいは生命の中に入らない限り、記憶の中だけにとどめられ、内なる人の信仰そして仁愛とはなりません。
天界の秘義9921.
金の鈴。これは教義と善から出た礼拝の全ての事柄が教会に属する者に、渡されることを意味するのは、鈴の意味が、教義と礼拝の全てが教会にいる者に引き渡されることから明らかです。それが善から来ているのは、金で造られているからであり、金は善を意味します(113, 1551, 1552, 5658, 6914, 6917, 8932, 9490, 9510, 9874, 9881, 9884)。
鈴が教会に属する人に渡される教義と礼拝のすべてを意味するのは、鈴によって人々がアロンが職務に入っていることを聞いて知るからです。人々によって教会に属する人が意味され、アロンの職務によって、教義と礼拝の全てが意味されるからです。そのため次のように言われます。
出エ28:35 アロンはこれを務めを行うために着る。彼が聖所に入り、【主】の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。
ここから「鈴」で意味されることが明かです。これらの鈴が裾にあるのは、教義の神聖なものは極限にあり、そこから聞き知ることになるからです。(9824, 9905).