Ex24モーセ シナイ山に上る | 新教会牧師書斎の窓

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新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。(マタイ11:7)

バプテスマのヨハネを覚えておられますか?福音書と黙示録を著したヨハネではなく、主イエス誕生の直前に、祭司ザカリヤと妻エリザベツから生まれたヨハネです。
ヨハネは、荒野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説き、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(マタイ3:1,4)

洗礼者ヨハネには、この荒々しい容貌で、荒野で悔い改めを説き、主イエスを洗礼しました。それ以外に大きな業が記録されていないように思えます。
しかし、より大きな役目について、天界の教えに記されています。「みことば」の表象です。
天界の秘義によると、
真理の神的なもの、すなわち「み言葉」について主を表すものは多いですが、その者の中で主な者は、モーセとエリア、エリシャと、洗礼者(バプテスマ)のヨハネです。(以下AC9372参照)

そしてみ言葉は、世界のどの教義や、どの真理よりも優れています。天界では、その知恵は、あらゆる人間の理解を超えてるほど優れています。み言葉を神からのもの、預言者以上のものとして受け入れねば、教会は始まりません。
「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。・・・はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。](11:9,11)

主が現れ、洗礼者ヨハネによる主の表象と王国は、主の到来によって終了します。
「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」(11:13)
ヨハネが、人間として優れていたかどうかは、わかりません。しかしヨハネが表象するものは、聖なるもの、主のみ言葉の神的なものを象徴しており、その表象そのものに価値がありました。どんなことを表象していたか、衣装と食物によって記されています。

「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」(3:4)
一般的な記憶知である「らくだ」の、最も一般的な真理である「毛衣」をまとい、外的な絆を意味する「革帯」を締め、最も一般的な真理を自分のものとし、野蜜である歓びとしていました。
外的な知識によって、人と神のつながりが生まれ、そのつながりのうちに歓びを見出します。そのつながりを生み出すのが、み言葉、神的真理です。

洗礼者ヨハネは、「悔い改め」を説きました。「悔い改め」がなければ、人は生まれ変わることができません。
「悔い改めとは、自らを点検して、自分の罪を認識して、認め、主に祈って、新しい生活を始める」(TCR528)
ことで、教会の初めです。何が悪かを知り、それが自分の中にあることを認め、そこから清められるよう願います。
悔い改めがなければ、教会も人の成長の、再生もすべてはじまりません。悔い改めは、み言葉、神的真理を知って始まります。粗いらくだの毛衣のような真理であり、曖昧に見える真理であって、その真理によって悔い改めを行うなら、教会が始まります。

主イエスが現れると、主イエスは「み言葉」そのものとなられます。天地の神である方が、生命を捨て、人間とのつながりをとりもどす覚悟で、ご自身の愛のこと、天界の王国のこと、死後の生命のこと、死後永遠に幸福になるためは何をすればいいか、これらを伝えるため地上にお生まれになりました。

モーセのころから、これらのことを伝えるための主の努力は、ずっと続けられていました。すべて人類を救済して、地獄から引き揚げて、ご自分のもとに引き寄せたいという強い愛からです。

しかし、主の元に近づくためには、邪魔をしている自尊心、身勝手さを自分から捨てなければなりません。

主はモーセとアロン、ナダブとアビブ、イスラエルの長老70人をお呼びになります。
モーセはみ言葉の内的意味を、アロンは外的意味を意味します。アロンの息子のナダブとアビブは、内的意味から導き出された教義と、外的意味から導き出された教義を意味し、長老たちは主要な真理を意味します。

主はモーセだけをお呼びになり、そのほかは、遠くで自分を深く恥じ入り、礼拝せよと命じられます。(24:1,2)
自己卑下はあらゆる礼拝に不可欠です。なぜなら自己愛で一杯の誇り高い心に、主は流入することができないからです。(AC9377)
以前、礼拝に時間を割くことが、時間がない自分の最高の犠牲であるという方がいらっしゃいました。残念ながら、主の礼拝のためではなく、自分の霊的成長のために必要なのが、礼拝の自己卑下です。祭壇のみ言葉の前に膝まづかなければ、自分が高ぶっていることにさえ気づけません。自己愛で一杯のままでは、どんな状態であっても礼拝は成立しません。

ここで取り上げられた、モーセ以外の人物の象徴の中にも、まず心からの自己卑下なくしては、主に近づくことができません。アロンで意味されるみ言葉の外的意味や、教義や主要な真理も、自己が高い状態であれば、主には近づけません。主は「愛の善」以外によって近づくことができないという力、摂理によって守られているからです。

「主に近づく」とは、主と結合することを意味します。しかし実質は、人は主に近づくことはできず、主が私達を引き寄せます。「これは人が悪を止めた時に可能となります。なぜなら悪を止めるとは、人の意志から去り自由になることを意味します。(AC9378-2)
人が悪を止めることは簡単ではありません。自分のやっていることは悪であると教えられても、身勝手な理由を生み出し、悪に突き進みます。これは残念ながら事実のようで、落ち着いて静かに、自他を観察すれば、見ることができます。

観察するときに、聖書のみ言葉を基準としているかどうかが、基準となります。
「主との結合と近接はみ言葉を通して行われます。なぜならみ言葉は、人と天界との結合であり、天界を通して主と結合するからです。み言葉は主から発する神的真理であるからです。」(AC9378)

自分に自信を持ち、天界の教義を読み、自分はその通り実行している、さらにあることを実行すれば世界を変えることができると主張しました。そのあることがみ言葉以外なら、アロンの息子のナダブとアビブが、異なった火を取って主に捧げたところ、焼き尽くされて死んだように(レビ記10:1-2)、自己愛と世間愛の火に焼き尽くされて滅びます。自分を深く卑下し、み言葉に頼る以外に、生き残る道はありません。

そのため、モーセ以外は主に近寄ることなく、「遠く離れて、ひれ伏さねばなり」ません。(24:1)
彼らの内にある自己愛が、主に会って、主を拒まないようにするためです。

モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。(24:3)

これが民の答えです。民の気持ちは一つになっているように聞こえます。しかし、内は決して一つではなく、それぞれの事情によって異なっていました。
人は皆、その真理への情愛に従って、その望みに応じて、そしてそれを受ける力に応じてみ言葉から啓蒙され、教えられることができます。(AC9382)
もし、真理の情愛と望みがなければ、受ける力があったとしても、世への愛しかなければ、スポンジに吸い込まれるように世への愛、そして自己愛に吸い込まれてしまい、学んでも得ることができません。後で、残った民は黄金の仔牛の像という偶像を作り、目の前の主に逆らって罰されます。
本当に教会であろうとする者だけが、受け入れることができます。(AC9384)

「モーセは主の言葉をすべて書き記し、」(24:4)
たんに記録として残したのではありません。主の言葉を心に刻み込み、記憶ではなく、意志のものとしました。人の生命に書きこまなければ、意志し生命となりません。(AC9386)

モーセは民に祭壇に石の柱を立てさせ、全焼の生贄と和解の雄牛を捧げます。
「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかける」(24:6) 
これらは表象的教会の設立を物語っています。祭壇は主の神的人間を表し、振りかける血は神的真理を意味します。
現在のキリスト教会は、血は主の十字架上の試練を意味すると考えていますが、これは彼らの「発明」で、誤っています。血は、聖餐式のワインも含めて、神的真理を意味しています。聖餐式での「キリストの血を飲む」という吸血鬼まがいの行為の、象徴ではありません。主から発する真理の神的なものを、自分のものとして理解し、意図し、実行することで、自分のものとする、というのが正しい象徴です。(AC9393)
鉢に入れるのは人間の記憶に入れ、常に理解して実行に移すことを意味し、残りの血を、主の神的人間の象徴である祭壇に振りかけるのは、人が受け入れた真理の神的なものは、主の神的人間から発していることを確認し、誓約となります。誓約は結合を意味します。(AC9395)

主の真理の神的なものと、人との結合です。過った象徴を思い浮かべるなら、すべての儀式は意味を失います。
マタイ福音書の山上の垂訓にある、主のみ言葉を思い出しましょう。
 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(5:17,18)

み言葉は、単なる象徴ではありません。天界と地上の「相応の実在化」です。新旧両聖書のみ言葉がなければ、天界と地上の教会の結合はありえません。(AC9396)

私達も、旧約聖書を相応の科学によってその内的意味を学びながら、新約聖書の主のみ言葉によって、心を新たにして天界の天使に近い理解から真理を実行します。相応の科学は天界の教えの中に随所に明かされています。
相応の知識によって、神的真理は天的なものから霊的なものそして霊的自然的なものとして下ります。これは宝石のサファイアの働きとされています。誰も思考と目的なしには何もできません。神的真理が三重の天界を通って、私達の知性に届き、それを実行するなら、主の意図が明らかになり、内的真理から透明のように澄んでいます。(AC9407)

「彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。」(24:10)
ここから結合が行われますが、外的な真理だけに留まっている者とは結合することができません。
「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかった」(24:11)

モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」(24:13,14)

外的な真理にとどまっている者には、真理の神的なものが、神的真理を得て神聖な媒介として伝えるまで、そこから動かずに留まっていなければなりません。自分から動けば、必ず悪と偽りを求めて動き出します。

「教会の教義のすべては、み言葉から来ておらねばならず、そしてみ言葉以外の他の何かからの教義は、教会のものではなく、ましてや天界のものでもありません。」(AC9424-2)

これら自分から動き出す者は、必ず教会のもの、天界のものではないものを持ち出し頼ります。それは悪と偽りであることを教え、み言葉、神的真理にもどるよう説得が必要です。

モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。(24:15,16,17)

モーセは、天界の最初の入り口にやってきます。霊界の教えにもモーセは天界の入り口にいて、天界には入れないというという記述がありますが、モーセ本人の話か、象徴としてのモーセの話かはわかりません。
シナイ山の上に留まった主の栄光は、神的愛そのものですが、イスラエルの人、内的なものから離れた外的なものにだけいる人々には、傷を負わせ、荒廃させる炎のようにしか見えません。(AC9434)

モーセは天界に上がり、神聖なる媒介となるよう、教えと流入が完全になるまで、そこにとどまります。
「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。」(24:18) アーメン

出エジプト記 (新共同訳)
24:1 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。
24:2 しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」
24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
24:4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
24:9 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。
24:10 彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。
24:11 神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。
24:12 主が、「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」とモーセに言われると、
24:13 モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった。モーセは、神の山へ登って行くとき、
24:14 長老たちに言った。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルとがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」
24:15 モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。
24:16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。
24:17 主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。
24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた。

マタイ
11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
11:15 耳のある者は聞きなさい。



天界の秘義9424
[2] ・・
み言葉からの教義によって、み言葉が支えられていることについて簡単に述べます。天界の秘義について知らない者は、み言葉からの教義なしにみ言葉が支えられていることを信じなけれなりません。なぜなら、文字のみ言葉、あるいはみ言葉の字義が、教義そのものであることを想像することができないからです。
しかし、教会の教義のすべては、み言葉から来ておらねばならず、そしてみ言葉以外の他の何かからの教義は、教会のものではなく、ましてや天界のものでもありません。
しかし、教義はみ言葉から集められなければならず、集められている間、その人は主から啓蒙されています。そして人は真理のために真理を愛するとき、啓蒙されていて、自分や世のためのときは、そうではありません。
み言葉を読んでいるとき、啓蒙される者もおり、真理を知る者もおり、そこから自分のために教義を作る者もいます。
この理由は、天界と交流し、そのため主と交流しているからです。このようにして主によって啓蒙される者は、天界にいるようにみ言葉の真理を見ることで導かれます。なぜなら主が天界を通して、彼らの知性の中に流入して、人の内的知性が啓蒙されるからです。そして同時に主は信仰にも流入し、新しい意志に協力することで、真理のために真理に影響されるようになります。
このすべてから、真理と善の教義が、いかに主によって与えられるかがわかります。