ルカ19章 神的真理の迎え方 | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19:5)

取税人の頭ザアカイの話は、次のミナの喩えと共に、ルカ書にしか現れません。
当時、取税人は権力者に味方し、民衆から財産を奪う敵とみなされていました。そのため金持ちでもありました。
しかし、「ザアカイ」の原語には「純粋な」「無垢な」というニュアンスがあります。
ザアカイは、イエスがどんな方か見ようとしましたが、低い身長のため、群衆にさえぎられて見えません。低い身長は、善が不足しているという内意も持ちます(AE654-20)。彼の日頃の行いに問題があったと思われます。

しかし、ザアカイには主を見たい、すなわち理解したいという願望が強く、「走って先回りし、いちじく桑の木に登」ります。イチジクは、自然的な状態を意味します。低い身長を補うため、自然的な状態の、より上に登り、主を見て理解しようと努めます。

この彼の気持ちに、主は応じられます。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19:5)
家は、私達それぞれの心の状態を意味します。
天地の神である主が、私達の心にやってこられる光栄です。
主イエスのこの行為に対する、人々の反応は二種類でした。

一つは、嫉妬し、罪深いとさげすむ者。世的な、そして自分勝手な反応です。
もう一つは、ザアカイのように、「喜んでイエスを迎え」(19:6)る姿勢です、この姿勢があれば、さらに様々な効果が生まれます。
ザアカイは、立ち上がり、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と誓います。
財産の半分、すなわち自分と同じだけ隣人を愛するということです。
同時に、自分の行いも悔い改めるという宣言です。

この悔い改めの宣言に対して、主はザアカイの心が「救」われたと宣言されます。
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。」(19:9) 
さらに「アブラハムの子」であると宣言なさいます。

「アブラハムの子」は家系のことではありません。主の神的真理の種を蒔ける素地をもっているということです。
歓んで主を迎える者は、主の神的真理を受け入れる素地があることを意味します。
神的真理を「喜んで受け入れ」、そして、隣人に対する愛を実践し、悔い改める者は、救われます。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(19:10)
人の子である神的真理は、地獄にいる人を救い、天界に引き上げるためにこの世に来られています。
ザアカイ、無垢で純粋な者は、神的真理を歓んで迎え、そして主が心の中に宿り、悔い改め善を行うことで救われました。

失われた者は、主により救われますが、自分の行いによっても区別されます。民衆が思っているように、エルサレムに近づけば「神の国はすぐにも現れる」わけではありません。エルサレムで表される教義に近づくだけでは、神の国は現れません。
有名な主の「ミナ(ムナ)」の喩えです。

ここでの「立派な家柄の人」とは、「アブラハムの子」よりはるか上の家柄、すなわち神的真理の源である主のことを意味しています。
神的真理に対する、様々な行動により区別されることになります。
神的真理を拒み、「憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』」と徹底的に拒む人達、後で、「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。」(19:27)
主は決して拒む者を憎むわけではありません。主は誰をも嫌わず永遠にその幸福を願っておられます。
神的真理を拒んだ者は、地獄で、永遠の生命を送ることになることを言っています。地獄がその人の永遠の幸福であるからです。主と隣人に対して憎み、嫌悪し、自分だけの幸福を願います。それ以外の幸福は、自分の願うものではないため、求めていません。

しかし神的真理を十分活用した者は、十の町の支配権のように、完全な知性と知恵を得ることが可能となります。この支配権とは、他人を支配することではなく、知恵と知性で自分の生命を律し、支配することです。
真理を幾分かを活用できたものは、五つの町、すなわち得た知性と知恵の分だけ、自分を支配することができます。

しかし、神的真理を怖れるだけで、「布に包んでしまっておいた」者は、悪い僕と呼ばれ、持っている真理も取り上げられます。真理と知った上で行わない者には、主は厳しい態度をおとりになります。真理の冒涜となるからです。

『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。」(19:26)
悪を罪として避けない者には、真理はその人を永遠に苦しめます。この苦しみを避けるためには、その真理を取り上げなければなりません。これが主の慈悲です。主の真理を知りながら、あえて行わない存在は、真理を嫌っていること気づかせ、そこから遠ざけるしか方法がありません。

主イエスは、先に進みエルサレムに向かわれます。「まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。」(19:30)
ギリシア語原語は「πῶλον polos 仔馬」です。ザカリヤ書では「ろば אֲתֹנֽוֹת ヘブル語逆から」、マタイ書では、ろばと仔馬(21:2,5)となっています。いずれも荷物を運ぶ獣ですが、ろばは単なる記憶知を運び、仔馬に「乗る」場合は、合理的理解のニュアンスを持ちます。
ルカ書では仔馬とされています。これは、乗る人の状態を教えようとされたためです。
誰も乗ったこともないとは、誰も理解できなかった知識のことで、これに乗るとは、誰も理解できなかった知識を合理的に理解することが意味されます。

そしてこれに乗られたのは主ご自身でした。
主は自分を偉くみせるために、仔馬に乗られたのではなく、いにしえの知識を合理的にされたことを、特に真理を説くルカ書では、教えるため表象されました。
さらに旧約聖書で明かされているように、ご自身が王と裁判官であることを象徴するための表象でもあります。主が力を持って、裁きにエルサレムに入城されたことを伝えます。

その表象のため、『主がお入用なのです。』(19:31)と伝えるようお命じになりました。
そして、弟子たちにも同じ言葉を繰り返させます(19:34)。弟子たちも、主の合理的解釈を伝える必要があるからです。

弟子たちは、仔馬の上に「自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。」(19:35)
迎える人々も、道に自分たちの上着を敷き(19:36)、主の神的真理を合理性から受け入れなければなりません。

すると主イエスを神的真理として受け入れた弟子と、人たちは、平安を得ることが、預言されます。
こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」    (19:38)
栄光とはみ言葉の霊的意義であり、それは民の理解のはるか上のほうにあります。
詩編にもあることのみ言葉は、祝福だけのための言葉ではありません。神的真理を知って、迎える者への預言です。

パリサイ人は、叱って黙るようにと言いますが、これは神的預言であるため、聞かれません。
「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(19:40)

しかし、パリサイ人と同じように、神的真理を全く信じず、物質的・世的なものにこだわっている、当時の民衆、そして今の大多数の民衆に対して、主は嘆かれます。
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」(19:42)
神的真理によって当時の民衆だけでなく、すべての人類に教えられたかったのは、真の天界の平安でした。存在の奥底から湧き上がる本物の平安です。しかしこれは、偽りに気を取られている間は、知ることができません。

「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(19:43,44)
実際に起こった史実のことのように聞こえますが、それだけではありません。より重要な預言が含まれています。

敵である世間愛と自己愛が、私たちを囲み、攻め寄せて、その愛に囚われてしまいます。
すると、神的真理の訪れを知らず、せっかくの真理がすべて無駄になってしまうことを預言されています。

そしてその神的真理の訪れが、私達の審判の日です。霊界に入ってから、私達の愛は変えられず、最後の審判となります。
この世にいて、合理的に自由選択が可能な間だけ、悔い改めが可能です。神的真理の訪れを知って、これを受け入れなければなりません。その知らせを邪魔しているものは追い出さなければなりません。

主イエスは、宮に入られて、商売人を追い出されます。これは神の知識を商売に使っている商売人です。神聖な知識を、自分の利得のために使用すると、強盗と呼ばれます。大事な知らせや、情報を奪って、再生の機会も奪ってしまうからです。
たとえ正当な商売をしていたとしても、自分の利得の有無が働くようになると、それはもはや強盗の巣となってしまいます。

神的知識を使い、隣人と神の役立ちのために活用することで、初めて真の礼拝となります。心の中で祈りを繰り返すのが祈りではありません。

こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。(19:46)
しかし残念なことに、神的真理を滅ぼそうとする勢力、自己愛と世間愛に囚われ偽りと悪を説く勢力は、主の神的人間を滅ぼそうというたくらみを止めません。
それは今でも変わりありません。
しかし私たちは、主の神的真理に従うことで、私達自身を「祈りの家」とする努力を止めないように努めます。
これを人生の最後まで、続けることができれば、ザアカイのように、神的真理を私達の心に受け入れて平安と、神の栄光の賛美を行うことができます。

祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。(詩編118:26)
アーメン




ザカリヤ
9:9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

詩編
118:26 祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。

ルカ福音書
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

19:11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
19:12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。
19:13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
19:14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
19:15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
19:16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
19:17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』
19:18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19:19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
19:20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
19:21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
19:22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
19:23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
19:24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
19:25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
19:26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

19:27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19:39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
19:47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

黙示録解説 675:7
十人のしもべに与えた、商売をするための十ミナは、み言葉からのすべての真理と善の知識と同時に、それを受け入れる能力を意味します。これは「ミナ」が銀であり、通貨であり、真理の知識と、それを受け入れ気づく能力を意味します。商売をすることが、これらのミナを使い、知性と知恵を得るようにを意味しています。
多くを獲得した僕によって、一ミナから十ミナを得たことが意味され、五ミナを得た者によって、なにがしかを得たことが意味されます。町とは、それが彼らに与えられたと言われるとき、教義の真理を意味し、それを所有するとは、知性と知恵、そしてそこからくる生命と幸福を意味します。・・・
全く知性を得なかった者は、真理を記憶は持っているが、生命には所有していません。この世から出発した後、真理を奪われますが、真理と生命に真理を所有した者は知性を永遠に富ませることができます。そのため、「何も得なかった者から、ミナを取り上げて十ミナを持っている者に与える」と言われます。


AC5741-2
「ロバ」の意味するものが、乗用に使うものであるとともに、別の時は、荷を運ぶものであることを知らねばなりません。なぜなら裁判官、王、そしてその息子たちは雄ロバや雌ロバに乗り、あるいはラバに乗り、これらはその時、合理性や自然性、真理と善を意味します。(n. 2781)
そういう理由で主が裁判官そして王としてエルサレムに入る時、仔馬とともにロバに乗られました。なぜならこれが、裁判官の印であり、王権の印でもあったからです。しかしここであるように、ロバが荷を運ぶだけに使用されるなら、それは記憶知を意味します。またこれらの知識と異なるものでもありません。人の内的なものを考える者は、記憶に属する知識を超えて進むことはできず、人のすべてはこれらの知識からできていると考え、記憶知が人にある最低のものであることを考えません。そして身体が死ぬと、その大部分は捨てられると考えます。 (n. 2475-2480)
しかし、その中にある、いわゆる真理と善は、情愛と共になって残ります。そして、偽りと悪もその情愛と共に残ります。
記憶知はこれらの身体のようなものです。人がこの世で生きている間、真理と善、あるいは偽りと悪を
記憶の中に持ちます、なぜならこれらを含んでいるからです。そして記憶知が含みそして、それを内的なものとして運び、ロバが荷を運ぶものとして意味されます。