Lk18 祈り | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(18:1)

主はやもめの裁判官への申し立てによって、祈りの一局面を教えられています。
この裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない」人間でしたが、うるさい「やもめ」に手を焼き、裁判を行なおうとします。

やもめは、真理という夫を失いましたが、それでも真理をもとめ続ける情愛を意味します。
夫を持たないやもめは、真理を求め続けて、祈ります。主は、真理を求め続ける重要性を語っておられます。

一方、祈りが聞き届けらえるためには、
「愛と信仰から祈り、天界的そして霊的なことだけを願う」必要があります。(AC2535)
愛と信仰から祈り、天的そして霊的なことだけを願うのは、真理を知った上でないとできません。しかし真理を知らないことを意味する「やもめ」にはできないことです。「やもめ」は祈り続けるしかありません。

しかし、神は祈りを速やかに裁くと教えられます。
「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(
18:8)
人の子が来るとき、地上に信仰が見出せるかどうか、問われています。
ここで言われる「人の子」とは、主の神的人間から発する神的真理のこと(AC9807-2)です。愛と信仰から、天的・霊的なことだけを祈っているか、ということを判断されます。自分のためだけのことや、一時的なことがら、その人の永遠の成長に役立たない祈りは聞かれることがありません。しかし、求めているのが神的真理だとわかるように、祈り続ける必要があります。

祈りの局面の第二はパリサイ人と、取税人の喩えです。これによって主は、「祈り」の姿勢を教えられます。
パリサイ人のように、自分のやっていることを挙げ、満足し、他人をけなす姿勢ではなく、取税人のように自分の悪を認め、卑下し助けを求める姿勢を主は評価されます。自分の行いを義とする、パリサイ人にはそもそも主のお力は必要ありません。取税人のように、深く自分の悪を認め、主へ助けを懇願する姿勢がなければ、主は助力することができません。

詩編にも、その祈りの姿勢が描かれています。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。(詩編51:17)
打ち砕かれ、悔いる心が、存在しなければ、いけにえは受け入れられません。祈りは神に届きません。
自分は戒めを守り、献金をしているから、大丈夫だと考えていないでしょうか?パリサイ人のように、自分の行いを義と考えていないでしょうか?それなら、神様の救いは必要ありません。

次に主は、乳飲み子を呼び寄せられます。乳飲み子は、親からの乳を口にしなければ、たちまち痩せて死んでしまいます。乳飲み子は自分からは何もできず、両親からの支えだけによって生きています。
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(18:17)

主は「はっきりとおっしゃいました」、自分の力によって神の国に入ろうとする人は、決して入ることができません。自分の知力と行いを過大視してしまうなら、無垢の状態で神の国を受け入れることができません。主はこの無垢の状態が必要であることを、明確に述べ、私達に警告しておられます。天界の教えを原語で何度読もうと、自分以外の人の苦しみを思いやり、幼子の無垢の心から手助けをしようという気を持たない限り、神の国に入ることはできません。神の国は隣人愛の国であり、知力の高低によって区別されていないからです。

さらにこれを明確にするため、主はある議員の言動を例に挙げられます。議員とか役人とか日本語聖書によって変わりますが、
原語はἄρχων、archōnで英語ではruler 支配者です。支配は議会や公的な機関を支配しているということではなく、自分を律し、支配していると信じ切っている用語ともいえます。

ある支配者がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。(18:18) 
イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。(18:19)
主は支配者の質問に、強烈な真理を述べられます。
「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」
あの人は善い人だ、その行いは善いと表現しますが、それは正しくないことを指摘されます。正しいのは神おひとり以外にはいないという指摘です。これは驚くべき指摘です。確かに、人の行いには、必ず自分からの視点が含まれています。そしてこの視点なしには、人は何の言動も起こすことができません。人が行うことは何等かの手前勝手さが必ず含まれていて、これが含まれている限り、それは悪と評価されます。

この「支配者」は、十戒はすべて守っている、その他に何をすればいいかと自信満々です。
イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(18:22)

持っている物とは、物的な所有物のことではありません。自分は何から何まで支配できいるという自負心です。自分がやることは全て善いし、自分からそれを行っているという自負心です。そんな自負心を捨て、自分から行っているという思いを消し、貧しい人達のように謙虚になり、自分は自分からは何も持っていないことに気づきなさい。その謙虚さから主に従うなら、天界に富を積み、自分の生命ではなく、主からの永遠の生命を得て、主に従うことができる、と教えられました。人が持っているものは、すべて悪と偽りにしかすぎません(AC5886:5-6)。

支配者が悲しむのを見ると、
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(18:25)と述べられます。
らくだとは、知る機能と知識一般を意味し、針の穴とは霊的真理を意味します。
この世の知識を自分で集めて、天界や教会の中に入ろうとすることは天界の秩序に反するため、こう言われています(HH365:3)。
啓示によらず、自分が集めた力で天界の知識を得ようとすることを意味しています。そして自分の力で天界を得ようとする姿勢を意味します。
「霊的意味では、知識と学識を豊かに持つ者は、霊的富者と言われ、天界のことや教会の事柄にこれらの知識によって入ろうとします。これは神的秩序に反しているため、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われます。霊的な「らくだ」は一般にに知的能力やそこから知ることを言い、「針の穴」は霊的真理を意味します。 (HH365:3)

「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(18:19)という主のみ言葉をよく味わいましょう。自分にはあらゆることを支配する力があると考え、自分の力で天界に入ろうとしてもそれは、不可能です。この支配者と同じく、自分の力に重きを置いて、自分の悪と偽りを捨てきれないため、悲しく主から去ってゆくことになります。この自分の力を徹底的に拒まなければ、天界には進めません。 
主は「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。(18:27)
自分の力を拒むことは、人間にはできません。本当に善そのものである神にしかできません。
自分の物を捨ててきたというペテロの言葉に、主は明確に確認されます。

「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(18:29,30)

ペテロが理解しているように、捨てるべき家、妻、兄弟、両親、子供は、実際の家族や家のことではありません。これらは、自分に近いものから考える、自分のものを大切にするという私達の思い込みや、自分勝手なこだわりです。これらを捨てなければ、天界に入ることができません。なぜなら自分の思い込やこだわりは、天界の知恵である無垢、主からの導きに自分を委ねることを真っ向から否定するものとして働くからです。

これらの思い込みを捨てよというと、人は家族を捨てよと言われた考え、大きく抵抗します。
これは神的真理を受け入れることができるかどうかの試練でもあります。
主は十二人を呼び寄せて、ご自分が試練に遭わなければならないことを、また預言されます。ご自身から出る神的真理である「人の子」は、「異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。」(18:32,33)
主の教えられる神的真理は、隣人を愛しなさい、といういわば簡単な真理ですが、実行は簡単ではありません。そのため、世の中にあっては誰も価値を置かず、唾をかけられて、忘れ去られます。これが、肉体の主イエスの十字架上の試練だけではなく、神的真理を表す者を待っている運命と試練です。私たちが与えられている神的真理を、頭だけではなく、行動で受け入れなければ、「人の子を、鞭打ってから殺す。」ことになってしまいます。

「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」(18:34)
私達も、実際に神的真理を神からのものとして行えるようになっているか?を理解しなければなりません。来世になってから行えばいいと考えるなら、それは当時のユダヤ人と現在のイスラエルのように、「人の子を、鞭打ってから殺す。」ことになってしまいます。

この神的真理を実行レベルまで理解するために、盲人の物乞い達の奇跡が与えられます。
「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」(18:35)
エリコはヨルダン川を渡り、約束の地への入り口であり、教会の入り口、である善の生活も意味します(AE700:15)
盲人は、誰が来たのかよく知っていました。
彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。(18:38) 
衣食住の物乞いではなく、最も大切な霊的理解力を求めて、主に希います。冒頭のやもめの喩えのように、主に願い続け、先に行く人達の叱りと沈黙の強要を、全く意に会しません。盲人の物乞い達は、心から主の助けを願っています。

「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。(18:41)
物理的な盲目だけではありません。彼は霊的な視力も主に求め願いました。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(18:42)

盲人が救われたのは、物理的視力が主の奇跡によって回復されただけではありません。
物理的な視力だけではなく、霊的視力である信仰の眼が開け、盲人は霊的にも救われるようになります。
「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」(18:43)
アーメン。


列王記上
3:9 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
3:10 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
3:11 神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。

ルカ福音書
18:1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
18:2 「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。
18:4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
18:5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」
18:6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
18:8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
18:20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
18:21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
18:23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
18:24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
18:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
18:27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
18:28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。
18:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、
18:30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
18:31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
18:32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
18:33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
18:34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
18:35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
18:37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、
18:38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。
18:39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
18:40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。
18:41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
18:42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
18:43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

天界の秘義 21世紀英訳
2535.「あなたのために祈り、」は啓示により示される、を意味することは祈りの象徴からわかります。

それ自身をみれば、祈りとは神との会話です。それは、その間、祈っていることを内的に見ています。
回答として、同じような種類の流入が直観あるいは心の思考にあり、内的深みを神へ開きます。
その経験は自分の気分や祈りの主題の性質によって変化します。もし人が愛と信仰から祈り、天界的そして霊的なことだけを願うなら祈りの間似た啓示のようなものが現れます。それは自らを希望や慰めや内的歓びを掻き立てます。それはなぜ祈るかです、内的意味ではここでは啓示を体験しています、なぜなら祈るのは預言者であり、預言者は主を意味するからです。主が祈るとき、単に内的にその神性の面に語り、啓示を体験するからです。
ルカには、啓示が含まれたことは明らかです。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け (Luke 3:21)

同じ筆者で
この話をしてから・・、イエスは、(ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れ)て、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。(Luke 9:28, 29)

ヨハネでは祈っているとき
「・・父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 (ヨハネ 12:27, 28)
明らかにここでの主の祈りにはその神的な面と会話し、啓示がありました。