戦争と災害 | 新教会牧師書斎の窓

新教会牧師書斎の窓

新教会牧師が、善い生活とは何かと問い、実行しながら、綴るブログです。

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」マタイ28:18

本年、日本では初日から様々な出来事が立て続けに、起こり続けています。
また昨年以前から、世界で戦乱が続いており、何万何千もの犠牲者が生まれ、いまだ収束の兆しさえ見えません。
先の二つの世界大戦のような世界的拡大の怖れや、核兵器の使用の危険もまだ残っています。

冒頭の聖句では、主イエスが天地すべての権能をお持ちと宣言されています。
日本で新年の初日から起こり現在も救助活動が続き、昨年以前から世界の各所で起こっている戦乱に対して、主のお力は及ばないのでしょうか?
それとも、他宗教が捧げているような祈りが、私達には不足しているのでしょうか?

これらの事柄に思いを馳せながら、「神の摂理」を学びます。

聖書の中にも、様々な戦争が描かれています。
み言葉に描かれた戦争はイスラエル民族が様々な国々、アモリ人、アンモン人、モアブ人、ペリシテ人、シリア人、エジプト人、カルデア人、アッシリア人たちと戦いました。(DP251-3)
現在のイスラエルの姿を彷彿とさせる姿です。

現在のガザがある部分には、ペリシテ人がいたとされています。その後、イスラム帝国の支配が続き、イギリスの委任統治ののち、世界から集まったイスラエル人が独立します。しかしガザ地区には数百万ものパレスチナ人が残され、ハマスという組織が実効的支配を続けています。そこで今回の悲惨な戦争が起こっています。
日本の別の会派の新教会牧師が、学生のころ個人的にパレスチナを支援した点を咎められ、教会を自分のものとしたい勢力によって追放されるという話もあり、この戦争は、新教会とも無関係ではありません。
教会を自分の支配下に置きたいとする戦いは、霊的には明確で、日本の新教会は、大なり小なり常にこの戦争の中にあるように思えます。

人間は生まれながら、それぞれが小地獄のようであり、常に天界と争っているからです。
そして、重要なのは次の句です。
私達が地獄にいることを知り、かつそこから救い出してほしいと願わなければ、主は誰も地獄から救い出せません。(P251-3)

自分が地獄にいると、自覚できる人がどれくらいいるでしょうか?
茹でガエルという言葉があります。生きたカエルを突然熱湯に入れれば飛び出して逃げるが、水に入れた状態で常温からゆっくり沸騰させると危険を察知できず、そのまま茹でられて死ぬというビジネスの世界でも使われている言葉です。
私たちは、自分の環境に慣れ親しみ、実は自分が地獄にいることに気づいていないかもしれません。穏やかな環境に慣れ親しみ、自分が地獄にいることに気づかないでいます。

他人の苦しみを自分のものとして考えることのできない人も、自分だけ、自分には関係ないという地獄にいることに気づきません。主は良心の痛みによって気づかされようとしますが、面の皮が厚くなってしなったのか、何も感じないでいます。
先の別の会派の人々も、自分たちは正義にいて正しいとしか考えていないのかもしれません。
裁くのは牧師や教会ではなく、み言葉により、自分の行いが裁かれることを知らなければなりません。私達はみ言葉が主であると信じているからです。

自分がどこにいるかを知り、天界ではなく地獄にいることを知れば、助けだしていただくよう真剣に主に祈ります。
自分がどこにいるかさえ知らないようであれば、それはまことに茹でガエルとなって死んでしまう危機にいます。自分のいる場所は、自分とみ言葉によってしかわかりません。自分がどこにいるか、新年に改めて自分の立ち位置を知りましょう。

み言葉は、より大きな戦争の実体を描きます。より悲惨な結果を生み出し、キリスト教の教えに反する戦争を、なぜ主は抑えられないのでしょうか?
それらは天界の教会の状態を反映しているからです。(DP251-3)
み言葉に描かれたあらゆる戦争と、今日のすべての戦争でもそうであるという、衝撃的な啓示です。

例えば、ペリシテ人が表すのは、自らの知性による自惚れです(信仰の教義49)。
ペリシテ人とイスラエル民族との戦争は、長く続き、簡単には終わりませんでした。
ペリシテが意味する、知性による驕りは、私達、新教会にとっても大きな敵です。著作や聖書が他国語で書かれているせいか、他国語を読みこなすことが、新教会の第一のステータスのように考えられ、み言葉を行うことよりも、高く考える人が少なくありません。また教義の理解もステータスとして考えられ、自分は誰よりもよく教義を知り理解しているという人も多くいます。

残念ならが自分は誰よりもみ言葉の戒めに忠実に守っていると胸を張るより、教義を知っている、読んでいることで自分を高くしています。しかしこの自惚れは、主が最も嫌われることの一つです。「知っています」と一言でかたづけられ、本質的なこと、本人の敬虔さと主への敬虔を何も生み出さないからです。人の痛みを知り、なんにかしたいという気持ちがなければ、何も始まりません。
この自分の知性への自惚れは、私たちにも、難敵であり、それはイスラエルがペリシテ人と戦っていたころから何も変わっていません。

他にも、アッシリアとカルデア人が神聖さへの冒涜を表すため、アッシリアとカルデアによって偶像崇拝が罰されました。
日本の偶像崇拝はどうでしょうか?
日本人には、物や人を神格化する傾向が強く、昨年の大河番組でも「神の君」などという言葉が、テレビで普通に発されています。救いは、日本人が神聖なもとして受け入れていないことです。神聖なものをまだ知りません。

「全く知識がない者」に対しては冒涜とは言いません。(DP231)
知った上で、
1.    み言葉と教会の神的なものを軽く扱い冗談に使う。
2.    神的真理を理解し認めるが、生活においてそれに反する。
3.    み言葉の文字の意味を自分の悪と偽りを正当化するため使う。
4.    愛情表現のため敬虔な言動をするが、心では愛を信じずに偽る。
5.    神的性格を自分のものとする。
6.    み言葉を認めるが、主の神性を否定する。
7.    最初は神的真理を受け入れそれに従って生きるが、あとで後退し、否定する。
これらが冒涜の類型とされています。
新教会の真理を知った上で、後から否定することは最悪と言われています。教会を去った人々が、この最悪の冒涜とならないよう祈るだけです。

霊界での争いは、この世の戦争の原因となっていると言われています。
ロシアと西洋諸国との争いは、LGBTQを教会が認めるかどうかの論点を持っています。ロシアは侵略的行為をしていますが、一方LGBTQに関しては旧い価値観を保っています。
ジェネラルチャーチは一般的な多様性は認めますが、結婚愛を大切にしています。霊的成長に結婚愛は欠かせないと考えるからです。

ローマ教皇が同性の結婚の祝福を許したという記事が昨年末に出ていました。ジェネラルチャーチは結婚愛を大切にするという教義を持つため、時流に簡単に流されていることはありません。ローマカトリックの教皇が、あらゆる権限を持つと断じるのは、主イエスのみが天地の神であるとする私達の信条からみれば、驚きのことで、先の類型の神的なものを自分の帰するという定義から見ると、冒涜となります。黙示録の世界、バビロンの大姦婦の支配が再び繰り返されています。
もしこれがこの戦争の原因ならば、戦争は簡単には終わらないかもしれません。

しかし、良い知らせもあります。戦争の開始と終結は、人ではなく、主が支配されているということです。
戦争の勝利や敗北は、運や人間の思慮ではなく、主が支配されています。そしてその程度が苛烈すぎないよう、人の思慮を超えて神の摂理が働きます。二発の原爆の使用は、悲惨な結果を生み出しましたが、その後、核の使用は強く抑制されていることを知れば、何も善いことなしに、事が起こらないのが主の思慮であることがわかります。
神の摂理を信じるか否かが、霊的であり、人間の思慮のみを信じる者との差です。

霊的な心構えができている人は、主がこの世の戦争は主が神的摂理によって支配されていることに気づきます。しかし物質的な人間はそうではありません。(DP251-5)

抑えが効かなくなり、滅亡への道を進む危険性を常に隣り合わせですが、常に神的摂理の力が働いていると信じ、私達もその摂理の力に助力します。

「地獄の悪魔は攻撃し、天界の天使は守ります。たとえ悪い司令官を使ったとしても、すべてにとって自分の国や同胞を侵略者に対して守る、のは適切です。しかし理由なしに敵を作るのは適切ではありません。もし自分たちの栄光だけを理由とするなら、それは自己愛から来るので、本質的に奈落的です。」(DP252-4)

悪い感情を、それが悪魔から来ているから抑え、善い感情は、主から天界を通してやってきているから、推奨するのが教会の務めです。大きな災害での運命の分岐点は、私達には知りえないごく最小のことにいたるまで、主がすべて管理・支配されておられます。年の初めにあたって、主の摂理の力を知った上で、自分が善と悪のどちらを選択するのか心を定め、どちらの力に支配されるか、選択してゆきます。選択はこの世の最後まで、私達それぞれに与えられています。

すべては天界か地獄から来ています。地獄から来るのは許しの法則によって、天界からは摂理の法によってやってきます。(DP251-6)
アーメン。


士師記
16:1 サムソンはガザに行き、一人の遊女がいるのを見て、彼女のもとに入った。
16:2 ガザの人々は、「サムソンが来た」との知らせを受けると、一晩中彼を取り囲み、町の門で待ち伏せ、「夜明けまで待って、彼を殺してしまおう」と言って、一晩中声をひそめていた。
16:3 サムソンは夜中まで寝ていたが、夜中に起きて、町の門の扉と両脇の門柱をつかみ、かんぬきもろとも引き抜いて、肩に担い、ヘブロンを望む山の上に運び上げた。

16:21 ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた。

マタイ福音書
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

神の摂理251. 3. 
自らと世間を拝む者は、神的摂理の否定を正当化するとともに、多数の人が殺され、その富が略奪されるような戦争は許されているとさえ考えます。
戦争が起こるのは、神的摂理のためではありません。なぜなら戦争は殺人・略奪・暴力・残虐などのゾッとするような悪と分かちがたく、キリスト教の愛と真っ向から反しているからです。
しかし、それは絶対的に必要なものとして許されています、なぜならごく初めのとき、アダムとその妻(241以下参照)の時から、人の生の愛は基本的に他人を支配する愛となり、究極的には全てを支配し、世の富の所有権を得、究極的にはそのすべてを得ようとする愛となりつつあります。
これら二つの愛は、 71-97 [71-99]で説明したように、人が自由かつ合理的に行動するという神的摂理の意向である限り、鎖で縛ることはできません。
もしこの許しがなければ、主は人を悪から外に導きだすことができず、すると人は改良されず救うことはできないことにもなります。
すなわち、悪が表面的に許されなければ、人はそれらを見ることができず、承認することができません。そのためそれらに抗い、抵抗することができません。
悪が神的摂理の働きによって抑えつけられない理由です。
もしそれらがあるなら、それらは近くにとどまり、癌や壊疽のような病のように、広がり生きているものと人を貪ることになります。