私の根幹にある考え方なのだが、
苦難の存在はとても大きい。
ずっと昔からこれに近いことをずっと書いてきた。
例えば富士山に登るのでも、私は登ってご来光を見ることを心に決めた。
1回目はボロボロになり、2回目で見ることができた。
2回目も絶望すれすれで何とか見ることができた。このときの感動と
3回目は比べられないのだ。
つまりもっというと、例えば6回登って毎回頂上の天候が悪くて
7回目でご来光を生まれて初めて見た人は私よりも多くのものを得たの
ではないかと思う。失ったものも多いが、得たものもずっと多い。
CCIEでも自腹で5回受験して落ちました。もういくらつぎ込んだことか
この先いくらつぎ込めばいいのか。受けてもまた駄目なんじゃないかという
絶望が深ければ深いほど、それを乗り越えて手に入れるものは大きいと思う。
恋愛もそうかもしれない。
長い長い紆余曲折と困難の末にたどり着いた愛と
合コンで気軽に付き合う愛では、レベルが違うと思う。
つまり重みが違うのである。
病気もそうだろう、長い闘病生活の末回復すれば
健康に対する実感や重みは違う。普段から健康な人間はそれが
当たり前だから、ついつい重視することも忘れてしまう。
困難にぶつかると、何がいけないんだろう?と悩み苦しむ。
自分で自分に仕方なかったと説得をする。
私にとっての困難はまず、家庭が崩壊していて両親が離婚している
状況で育ったことにはじまり様々な困難があったし、
いつも人生には困難が付きまとっている。
私はここで困難に負けずにがんばろうという話をしているのとはちょっと違う。
大きな感動には困難は必要なように思う。
だからといって作為的に困難を設けても駄目だ。
私は2度目でご来光を見るに至った。これを7度目にするべきだったという
のはそもそもおかしい。
もし自分がドラマをつくっているなら、超不遇ドラマをつくるだろう。
でも、人生は作為的に本当の奇跡は起こらない。
少なくとも私には起こったことがない。
弟子がイエスにきいたことがあり、
「この人が盲人なのは、親の罪ですか?この人の罪ですか?」
それに対して
「親の罪でもなく、この人の罪でもなく、この人の上に神の御業が現れるためだ」
と言うのは有名だが、それに近い。
苦しんでいる人には、絶望しなければ
もっともっと偉大な何かが待っているのである。
と考えるならば、私はこれからどうすればいいのだろう?
わからない。