森繁氏の好きな言葉は

「失敗が人間を作る」であるという。

 

また青年に期待を寄せつつ、

「成功の半分は忍耐」「結局、失敗を恐れず、忍耐に忍耐を重ね、どん底からはい上がってくるなかで人間は鍛えられる」と。

 

さらに、「厳しい鍛えなくして青年は育ちません」「困難を避けるな」「困難はつねに君のチャンスだ」とも語っている。

 

そんな氏のそばには、たくさんの俳優が集まってくるという。

 

その人たちに、いつも語っているのは、

「お金なんかに惑わされるな」ということだ、と。

 

「人間というのは弱いもので、金に負けたり、名誉に負けたりするんです。役者にはそんなもの何も関係ないと私は断言するんですがね。人間、金で動くようになったらおしまいですよ」 

 

まったく、そのとおりだと思います。

 

金は、人を狂わせる。心をむしばみ、破る魔性をもっています。

 

金で動くのも不幸、金で動いている人を見抜けないのも愚か。 

 

続けて、「私は江戸時代からの由緒ある家に生まれ、お金もいっぱいありました。その私が言うのですから信じてください。人間はお金がたまるほど、いばって傲慢になる。お金がなければないで、自分を卑下して人間を小さくしてしまう。ですから、きょうもあすも『ゼロからの出発!』――これが私の生き方です」と述べておられる。 

 

一流の″わが道″を歩んでおられる方の言葉には、

人生、社会の万般にわたる真理の響きがありますね。

 

また、森繁氏は、経済にばかり気をとられ、

文化に対してあまりに貧弱な日本の現状を強く嘆かれている。

 

「ヨーロッパでは、まず、文化を与えることを教えている。日本はもうけることばかり教えている気がします」――文化を愛する心を教えていない。それは人間を愛する心を失っていることではないだろうか。人間として肝心要かなめの急所を教えず、金がすべてになってしまっている――。

 

このことは、著書の中でも、

「よく金持ちに、それで儲かったらどうしますと聞くと、海外に工場を持ち云々という。(中略)一人ぐらい、『この金を一つ貴国の文化のためにお費つかい下さい』と、目のひらくような返事が出来ないものか」(『人師は遭い難し』新潮社)等と、しばしば論じておられます。 

 

繁栄させてくださった人たちに、ご恩返しを。

そんな心の豊かさを、なぜ日本人はもてないのか。

 

それこそ、人間らしい生き方ではないのか――。

 

「ヨーロッパでは、まず、文化を与えることを教えている」と語る森繁氏。

 

終戦直後の満州(中国東北部)でのエピソード。

 

ソ連兵が収奪しているところに出あった時のこと。「彼らがチェロを見つけると『音楽家がいるのか』と聞くんです。そして、全部返すから演奏してくれと。文化の幅広さの違いですね」――。 

 

豊かな心を育てたい。経済ばかりでは、あまりにも貧しい。文化に心潤う社会を、そして、人間が人間らしく生きる「人間主義」の世紀を――森繁氏は、「物の豊かさのなかで、人間の心が枯れている。心、精神の復興こそ、最大の課題」と語られている。

 

また氏は、新進女優の西條晴美さんに、あたたかい励ましの言葉を贈られている。

 

――文化を愛する人はいばらない。こまやかな心くばりを忘れないものだ。

 

「有名になったら、人が変わるのが多いからね。何があっても『いつに変わらぬ西條さん』であってください」。

 

名声や地位、財産を得て、人間が変わってしまう人はあまりに多い。それでは、名声や財産のあやつり人形になったようなものである。そのようなものに左右されず、人間として不変の自分をどう生きていくか。そこに人生の戦いがあり、生き方もある。

 

 

人間の本質とは何か。

 

古来、多くの人びとによって、

人間の特徴とか。

 

人間のまさに人間たるゆえん、

根拠についての考え方が提示されてきました。

 

思いつくままにあげてみても、

 

「道具を使う生物」 「社会的動物」 「遊ぶ人」

などの名称もあれば、

 

リンネのつけた学名では 

「ホモ・サピエンス(賢い人)」となっています。 

 

シャルル・リシエのように

「ホモ・ストゥルトゥス(愚かな人)」と皮肉たっぶりに呼ぶ人もいます。

 

東洋においては、 梵語で、人間を「末奴沙(まぬしゃ)」といいます。

これは、「思考する者」との意味ですね。 

 

もっとも、この呼び名は、

ドイツ語の「メンシュ」、英語の「マン」、 

フランス語の「オム」等と共通しています。 

 

私は、人間の人間たるゆえんの一つは、

やはり、理性をそなえ、

知性の発動をなしゆくことであると考えます。

 

他の生物と人間のなんといっても最も大きい相違点は、

理性、知性の有無にあるとするのが妥当だと思うからです。

 

また、理性とともに良心、愛なども、

人間の根拠となるのではないか。

 

愛情は、他の動物とも共有する面もありますが、

人間らしい聡明な精神的愛は、

人間生命特有のものと考えざるをえません。

 

しかし、人間生命と他の生物との相違は、

逆説的なようですが、人間行為の愚かな側面にも見受けられます。

 

つまり「ホモ・サピエンス」であるとともに

「ホモ・ストゥルトゥス」でもあると思うのです。

 

その愚行の本源を、

ニーチェやアドラーは「権力への意志」「権力欲」等ととらえていますが、

全くそのとおりだと思います。

 

二十世紀後半に入ってからは、

大脳生理学の成果が、人間の前頭葉をそのよりどころとする

 「殺しの血潮」を指摘しています。

 

前頭葉の発達は、

人間の肉体上の生理学的な特徴の最たるものであり、

理性の働きは、ここを主たる場としていることは、

ひろく認められているとおりです。

 

それとともに、権力意志にかられた殺戮への血潮は、

たしかに人間生命内在の特質の一つとしてあげることができましょう。

 

人間は、今をさる数百万年の昔からこれらの特徴をあらわし、

一方では生命の内に理性、知性、意識、良心、愛をはぐくみつつも、

同時に、殺戮への魔性をいだいて、

この地球上に、独自の生命体としての足跡を刻みはじめたのです。

 

理性、知性、良心、愛の胎動が、

道具の使用、社会生活の形成、技術の進展、

哲学、科学の成立をも可能にしたと考えられます。

 

しかし、同時に、権力意志、生命内在の魔性を引きずりだし、

他の生物にはみられない 殺戮の無残な愚行を繰り返すことにもなったのです。

 

こうして、人類の歴史は明と暗のしじまを織りなしつつ、

二十世紀後半の現代におよんでいます。

 

その間、外面的な社会、経済、風俗、習慣、制度などは、

各々の民族によって、

また時代の変遷によってめまぐるしく歴史を彩ってきました。 

 

時代により、場所によって理性や良心などの発現の仕方は変わり、 

その強度も千差万別でありましょう。 

 

また、人類の足跡が、地球上のいずこであろうと、 

血なまぐさい戦いの惨事に染められたことのない場所

それはないといってよいほどです。 

 

このような歴史をとおして、 

人間の本質に考察の焦点をあてるとき、 

今後一千年たとうと、善悪をともに内在している人間生命の基底、 

根拠が大きく変化するとは考えられません。 

 

もし、人間としての特質が消滅することがあったとすれば、 

それは、人間生命そのものの断絶以外には考えられないでしょうか。

 

 一千年後の世界の様相、政治、経済、習慣などは、 

現在の私たちには想像もつかないほどの変化をみせていることです。 

 

だが、人間が人間である以上、

本質的部分は、おそらく変わらないであろうと思うのです。

 

なぜなら、人間の人間たるゆえんを形成している善なるものと悪なるものとは、

そのあらわれ方の違いであって、 いわば表裏一体のものであり、 

一方のみをなくすことはできないからです。

 

人間は他の動物と異なり、

知恵ある人として特色づけられています。

 

その結果、飽くなき自由を求め、

創造性を発揮すべく活動しています。 

 

一見すると、一人ひとり、

無制限に自由と創造性が与えられているようにも思える面があります。

 

今日の人びとは、

むしろこの考え方に立って、その生を謳歌しているかに見受けられます。

 

たとえ制限を加えるものがあったとしても、

他の人間の自由との衝突、ひいては社会秩序との軋礫など、

あくまでも外部的な制約がその原因と考えられています。

 

さて、人間一個の内面で、

精神の自由と創造性をコントロールする、なんらかの力なり働きなり、

あるいは肉眼には見えないが厳として実在する法則なりがあるとあるのか。

 

もし、あるとすれば、それはいかなるものなのか。

 

人間のなかに、目には見えなくとも、

みずからをコントロールする力なり法則なりが働いているかどうかということ、

そういうものはあると感じませんか。

 

一般の動物をみても、

そういったものをあるていどもっているような感じがして、

人間はそれをはるかに高度に広い範囲で働かせていると考えられます。

 

それはどういうものか?

的確には言葉にしにくいとしても、

精神的良識と申しますか、人間的理性と申しますか、

いわゆる良心といったものではないかと思います。

 

良心というものは、

教えられて初めて身につくものだという考え方もできるかもしれませんが、

私はそうではなく、生まれながらにしてもっている、

いわば天与のものとしてそなわっていると思うのです。

 

ですから、それを意識するとしないとにかかわらず働いているわけで、

その意味では、いわゆる善人という人だけがもっているのではなく、

悪人も悪人なりの良心をもっているといえましょう。 

 

そういうものが、その人のもつ判断力などと総合されて、

そこに自制、コントロールがなされてくるわけです。

 

もちろん、そういった良心のあらわれ方は、

人により時代によって異なってくるでしょう。

 

非常にそれが強く働くという立派な人もあれば、

あまり働かずに、ともすれば自制ができず悪に走りがちになるという人もあると思います。

 

社会全体として、人びとの良心の働きが盛んであるという好ましい時代もあれば、

きわめて低調だという時代もありましょう。

 

そういうことを考えてみますと、

私は、良心を導き育てる教育、

良心を培養する政治というものがきわめて大事になってくると思います。

 

つまり、人間のなかに本来そなわっている良心をいかに引きだし、

涵養するかということが教育のうえで最も重要なこととして考えられなくてはなりませんし、

また政治のうえにそういう配慮がなされなくてはならないということです。 

 

もちろん、教育にしろ、政治にしろ、

本来、人間のなかに良心というものがないならば、

これを植えつけるのはきわめてむずかしいことでしょう。 

 

けれども幸いにして、そういうものがあるのですから、

そのことを正しく知って、

いかに適切にこれを培養するかを考えたらいいと思うのです。 

 

今日は非常に自由や創造性が伸びのびと発揮されている時代だけに、

それをみずからコントロールする良心というものの自覚と培養は、

きわめて大事だと思います。