人間は他の動物と異なり、
知恵ある人として特色づけられています。
その結果、飽くなき自由を求め、
創造性を発揮すべく活動しています。
一見すると、一人ひとり、
無制限に自由と創造性が与えられているようにも思える面があります。
今日の人びとは、
むしろこの考え方に立って、その生を謳歌しているかに見受けられます。
たとえ制限を加えるものがあったとしても、
他の人間の自由との衝突、ひいては社会秩序との軋礫など、
あくまでも外部的な制約がその原因と考えられています。
さて、人間一個の内面で、
精神の自由と創造性をコントロールする、なんらかの力なり働きなり、
あるいは肉眼には見えないが厳として実在する法則なりがあるとあるのか。
もし、あるとすれば、それはいかなるものなのか。
人間のなかに、目には見えなくとも、
みずからをコントロールする力なり法則なりが働いているかどうかということ、
そういうものはあると感じませんか。
一般の動物をみても、
そういったものをあるていどもっているような感じがして、
人間はそれをはるかに高度に広い範囲で働かせていると考えられます。
それはどういうものか?
的確には言葉にしにくいとしても、
精神的良識と申しますか、人間的理性と申しますか、
いわゆる良心といったものではないかと思います。
良心というものは、
教えられて初めて身につくものだという考え方もできるかもしれませんが、
私はそうではなく、生まれながらにしてもっている、
いわば天与のものとしてそなわっていると思うのです。
ですから、それを意識するとしないとにかかわらず働いているわけで、
その意味では、いわゆる善人という人だけがもっているのではなく、
悪人も悪人なりの良心をもっているといえましょう。
そういうものが、その人のもつ判断力などと総合されて、
そこに自制、コントロールがなされてくるわけです。
もちろん、そういった良心のあらわれ方は、
人により時代によって異なってくるでしょう。
非常にそれが強く働くという立派な人もあれば、
あまり働かずに、ともすれば自制ができず悪に走りがちになるという人もあると思います。
社会全体として、人びとの良心の働きが盛んであるという好ましい時代もあれば、
きわめて低調だという時代もありましょう。
そういうことを考えてみますと、
私は、良心を導き育てる教育、
良心を培養する政治というものがきわめて大事になってくると思います。
つまり、人間のなかに本来そなわっている良心をいかに引きだし、
涵養するかということが教育のうえで最も重要なこととして考えられなくてはなりませんし、
また政治のうえにそういう配慮がなされなくてはならないということです。
もちろん、教育にしろ、政治にしろ、
本来、人間のなかに良心というものがないならば、
これを植えつけるのはきわめてむずかしいことでしょう。
けれども幸いにして、そういうものがあるのですから、
そのことを正しく知って、
いかに適切にこれを培養するかを考えたらいいと思うのです。
今日は非常に自由や創造性が伸びのびと発揮されている時代だけに、
それをみずからコントロールする良心というものの自覚と培養は、
きわめて大事だと思います。