読書ブログ

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読書で幸せをみつけましょう

『採用基準 地頭より論理思考より大切なもの』(伊賀 泰代)の中で著者は

 

リーダーになるために、神がかったカリスマ性や生まれながらの卓越した能力、溢れるような人間的魅力が不可欠と言うわけではありません。

 

リーダーとは何をすべきなのか、そのためにどう振る舞うべきかを理解し、小さな場面でそれらを体験して成功体験を積み重ねることにより、ごく普通の人がリーダーとして活躍できるようになるのです。

 

と述べています。

 

著者のこの一文は、「リーダー=特別な人」という思い込みを静かに崩してくれます。

私たちはどこかで、リーダーとは生まれつき人を惹きつける力を持ち、圧倒的な能力や存在感を備えた人物だと考えがちです。けれども著者は、そうした“才能神話”を否定します。リーダーとは資質ではなく、役割であり、行動であり、習慣の積み重ねなのだと。

 

「何をすべきかを理解し、小さな場面で実践する」という言葉は、とても現実的です。大きな決断や劇的な変革よりも、日々の会議で方向性を示すこと、困っている人に声をかけること、責任を引き受けること。そうした小さな場面の積み重ねこそが、周囲からの信頼を形づくります。

 

実際の職場を見ていても、必ずしも声が大きい人や目立つ人がリーダーになるわけではありません。むしろ、自分の役割を理解し、周囲のために一歩前に出る人が、自然と中心になっていくことが多いように感じます。リーダーとは「選ばれる存在」というより、「行動によって結果的にそうなる存在」なのかもしれません。

 

この考え方は、年齢や立場に関係なく希望を与えてくれます。今いる場所で、小さくても責任を引き受ける。その経験を重ねることが、やがて自分自身の器を広げていく。

 

私自身、振り返れば、大きな肩書きを得た瞬間よりも、目の前の役割に向き合い続けた時間のほうが、結果として周囲との信頼を築いていたように思います。特別な能力があったわけではなく、「その場で何をすべきか」を考え続けただけでした。

 

リーダーとは、生まれ持った才能ではなく、日々の選択の積み重ねである。そう考えると、誰にでもその可能性は開かれているのだと感じさせてくれる一節でした。

 

 

 

『人生を変える読書 人類三千年の叡智を力に変える』(堀内 勉)の中で著者は

 

自分が誰なのかがわからず、ふわふわと漂っているような状態」から抜け出すためのひとつの手段として、読書があるのだと考えています。

 

それはいわば、自分が「正気であるため」の手段、つまり「自分が自分であるため」の命綱と言ってもよいでしょう。

 

と述べています。

 

著者のこの言葉には、読書を「知識を増やす行為」としてではなく、「自分を保つための営み」として捉える視点が込められているように感じます。

 

現代は、情報があまりにも多く、自分の立ち位置が簡単に揺らいでしまう時代です。ニュース、SNS、他人の成功談、それらに触れるたびに、どこか落ち着かない気持ちになることがあります。まさに「自分が誰なのかわからず、ふわふわと漂っている状態」とは、こういう感覚なのかもしれません。

 

そのとき読書は、単なる娯楽や教養の手段ではなくなります。本の中にある長い時間をかけて磨かれた思考や言葉に触れることで、自分の内側に静かな軸が戻ってくる。誰かの深い思索に向き合う時間は、自分自身と向き合う時間でもあります。

 

読書を「正気であるための命綱」と表現した著者の言葉は、少し大げさに聞こえるかもしれません。しかし、情報に流されそうになるときや、自分の判断に自信が持てなくなるとき、本を開くことで呼吸が整うような感覚を覚えることがあります。活字を追いながら、「自分はどう考えるのか」と問い直す。その積み重ねが、「自分が自分である」という感覚を支えているのだと思います。

 

読書は即効性のある処方箋ではありません。けれども、静かに、しかし確実に、内面の足場を固めてくれる行為です。外の世界がどれほど変化しても、思考する習慣があれば、自分を見失わずにいられる。

 

私自身、迷いが強い時期ほど、本に向き合う時間が増えていたように感じます。振り返れば、それは答えを探すためというよりも、「自分の輪郭を取り戻すため」だったのかもしれません。

 

読書とは、未来を変える技術である前に、まず「自分を守る力」なのだ、そんなことを改めて考えさせられる一節でした。

 

 

『マネジメントへの挑戦』(一倉 定)の中で著者は

 

“付加価値を一定の割合で労使に分配する”

のであるから、労使とも、もはや分配に対する争いはする必要がない。

 

そして労使とも、自分の有利になることは、付加価値そのものを大きくす

ることなのだ。

 

付加価値を大きくすることが、労使ともに自分の利益ならば、利害は完全に一致するのである。

 

労使は手をたずさえ、ともに付加価値の増大に専念すれば良いのだ。

労使の協働と相互信頼の姿が、ここから生まれてくるのである。

 

と述べています。

 

この一文には、経営や労使関係をめぐる議論で見落とされがちな「視点の転換」が凝縮されているように感じます。

 

著者が語っているのは、賃金や取り分をめぐる争いそのものを否定するというよりも、「争いが起きてしまう構造」に目を向けよう、という提案です。

 

付加価値を一定の割合で分け合う仕組みである以上、労使のどちらかが一方的に得をすることは本来あり得ません。それでも対立が起きるのは、「分配」に意識が集中しすぎているからなのでしょう。

 

視点を少し引いて考えると、本当に重要なのは「どう分けるか」ではなく、「そもそも何を、どれだけ生み出せているのか」という点にあります。付加価値そのものが小さい状態では、どれほど公平な分配を掲げても、不満や不信は消えません。逆に、付加価値が大きくなれば、分配をめぐる緊張は自然と和らいでいきます。

 

この考え方が示唆しているのは、労使の利害は本質的には対立していない、という事実です。付加価値を大きくすることが、労働者にとっても、経営側にとっても利益になるのであれば、目指す方向は同じになります。ここに気づいたとき、労使関係は「交渉」から「協働」へと質的に変わっていくのだと思います。

 

実際、現場で仕事をしていると、雰囲気や信頼関係が良い組織ほど、「誰がどれだけ取るか」よりも、「どうすれば全体が前に進むか」という会話が自然と増えていきます。信頼はスローガンで生まれるものではなく、同じ目的に向かって価値を積み重ねていく過程の中で育つものなのでしょう。

 

労使の協働と相互信頼とは、理想論ではなく、付加価値という共通言語を持ったときに初めて現実のものになる。そのことを、あらためて考えさせられる一節でした。

 

 

『世界一楽しい決算書の読み方』(大手町のランダムウォーカー)の中で著者は

 

「赤字が続くと、行きつく先は倒産」と言う先入観があり、赤字はネガティブなイメージを持たれがちです。

 

ただ、赤字が倒産につながると言うのは、実は少し違います。

 

赤字だから倒産するのではなくて、企業は現金が払えなくなったために倒産するのです。

 

と述べています。

 

本書で語られている「赤字=倒産ではない」という指摘は、決算書の知識というよりも、現実の社会や仕事を見てきた人ほど強くうなずける話だと感じました。

 

私たちはどうしても「黒字=安心、赤字=危険」と単純に考えがちですが、企業の生死を分けるのは、もっと生々しい「現金が回っているかどうか」という一点です。

 

実際、仕事を続ける中で感じるのは、数字がきれいに見える会社ほど、必ずしも余裕があるとは限らないということです。

 

利益は出ていても支払いが先に集中すれば苦しくなる。一方で、一時的に赤字でも、手元資金に余裕があれば次の一手を打つことができる。この違いは、損益計算書だけを眺めていては見えてきません。

 

著者の言葉は、「決算書を勉強する目的」を思い出させてくれます。それは知識を増やすことではなく、現実を誤って判断しないための目を養うことなのだと思います。赤字という言葉に必要以上に怯えるのではなく、その背景にある資金の流れを冷静に見ること。そこに気づくだけで、会社の見え方も、経済ニュースの受け止め方も大きく変わってきます。

 

決算書は、特別な人のためのものではなく、働く一人ひとりが「世の中の仕組み」を理解するための道具です。本書のこの一文は、その入口に立つための、とても実践的なメッセージだと感じました。

 

 

『メンタルの強化書』(佐藤 優)の中で著者は

 

霞が関の役人などのエリートたちは、何年後にAIがどの程度浸透し、社会がどう変わるかをしっかりと見極めているはずです。

 

なぜならそれに関わる法律を彼ら自身が作っているからです。

 

そしてそれに合わせた社会体制をどう再構築するかまで、すでに織り込み済みでしょう。

 

と述べています。

 

著者のこの指摘は、「AI時代は突然やって来るものではない」という事実を、静かに突きつけています。

 

私たち一般の生活者がニュースや報道を通じて「AIが進化してきた」と感じる頃には、すでに制度を設計する側では、かなり先の社会像までが想定されている、その現実を、この一文は示しています。

 

霞が関のエリートたちは、単に技術の進歩を眺めているのではなく、「どこまでを許し、どこからを規制するか」「人間の仕事とAIの境界をどう引くか」といった、社会の骨格そのものを法制度として形にしていく立場にあります。

 

だからこそ、AIの浸透度合いやスピードについて、私たちよりはるかに具体的な時間軸を持っているはずだ、という著者の見立てには説得力があります。

 

ここで考えさせられるのは、「知らないうちに決まっていく未来」に、私たちはどう向き合うのか、という点です。

 

法律や制度が先に整えられ、社会体制が再構築されたあとで、「気づいたらこうなっていた」と感じるのでは、精神的にも実務的にも対応が遅れてしまいます。

 

一方で、この文章は決して悲観だけを語っているわけではないようにも思えます。

少なくとも、社会の設計図は場当たり的ではなく、一定の見通しのもとで描かれている。

であれば、私たち個人も「いつ何が起きるか分からない」と怯えるより、「変化は段階的に進む」「準備する時間はある」と捉える余地があります。

 

メンタルの強さとは、根性論ではなく、変化を正確に理解し、自分の立ち位置を冷静に確認する力なのかもしれません。

 

AIが社会に深く入り込むこと自体よりも、「その変化をどう受け止め、どう備えるか」が、これからの時代を生きる上での本当の課題なのだと、この一文は教えてくれているように感じました。