高杉晋作の生涯と石碑2 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

前回の続きです。

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1863年、玄瑞らが下関で外国船を砲撃。

しかし、玄瑞が京に滞在している間に、

米仏2箇国の軍艦により報復を受けます。

長州藩は晋作を招聘し、下関の防衛を命じました。

それを受け、晋作は、白石正一郎邸にて、

身分にとらわれない奇兵隊を結成。

初代総督に就任しますが、

2箇月後に、奇兵隊士が藩の正規部隊・撰鋒隊(先鋒隊)の

隊士を斬殺する教法寺事件が発生。

その責任を取って、就任3箇月で総督を罷免されました。

 

 

 

 「高杉晋作奇兵隊結成の地」の碑

 

その頃、京都では八月十八日の政変が起こり、

長州藩が追放されていました。

晋作は翌1864年に脱藩。

京都に向かいますが、桂小五郎の説得で帰郷。

一旦投獄された後出所して、謹慎となりました。

 

間もなく、京都の禁門の変(蛤御門の変)で長州藩が敗北。

玄瑞が自害し、長州藩は朝敵となりました。

更に、英仏蘭米の四国連合艦隊が下関を攻撃。

晋作は、その和議交渉を命じられ、

家老・宍戸備前の養子・刑馬を名乗り、それに当たりました。

その姿は、連合国側通訳のアーネスト・サトウをして、

「魔王」と評させた堂々たるものだったそうです。

 

 

 

 四国連合艦隊に占領された前田台場の跡地に建てられている

 「史跡 長州藩下関前田台場跡」の碑

 

 

次回へ続きます。

 

 

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