前回の続きです。
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同じ頃、幕府による第一次長州征討が始まろうとしていました。
長州藩内では、椋梨藤太ら俗論派が台頭。
晋作は萩を逃れ、一旦は福岡・平尾山荘の野村望東尼の元に
身を隠しますが、やがて下関へ帰還。
功山寺で俗論派打倒のための兵を挙げました。
「功山寺挙兵」または「回天義挙」と呼ばれるこの決起により、
時代は維新に向けて大きく転換し、
長府は「明治維新発祥の地」となったのです。
「高杉晋作回天義挙像」
「維新発祥之地」の碑
晋作は、翌1865年には藩の実権を握りましたが、
当時の晋作は下関開港を進めようとしており、
反発も強く買っていました。
そのため、晋作は一時、愛人・おうのと四国に亡命しています。
この頃刺客に狙われた晋作が逃げ込んだとされる
「ひょうたん井戸」
次回へ続きます。
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