高杉晋作の生涯と石碑3 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

前回の続きです。

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同じ頃、幕府による第一次長州征討が始まろうとしていました。

長州藩内では、椋梨藤太ら俗論派が台頭。

晋作は萩を逃れ、一旦は福岡・平尾山荘の野村望東尼の元に

身を隠しますが、やがて下関へ帰還。

功山寺で俗論派打倒のための兵を挙げました。

「功山寺挙兵」または「回天義挙」と呼ばれるこの決起により、

時代は維新に向けて大きく転換し、

長府は「明治維新発祥の地」となったのです。

 

 

 

 「高杉晋作回天義挙像」

 

 

 

 「維新発祥之地」の碑

 

晋作は、翌1865年には藩の実権を握りましたが、

当時の晋作は下関開港を進めようとしており、

反発も強く買っていました。

そのため、晋作は一時、愛人・おうのと四国に亡命しています。

 

 

 

 この頃刺客に狙われた晋作が逃げ込んだとされる

 「ひょうたん井戸」

 

 

次回へ続きます。

 

 

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