曠代雲龍襄大業、千穐俎祀忠魂 | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

 

以前掲載した、下関市綾羅木の中山神社の写真です。

拝殿前に1対の碑が建てられています。

 

 

 

「曠代雲龍襄大業」「千穐俎祀忠魂」。

 

「天皇に代わって大業を成した。永く忠心を祀る」

といったような意味だそうです。

昭和55年(1980年)に、遷座50周年の祭りが行われたことを

記念して建てられたもので、愛新覚羅溥傑が揮毫しました。

 

 

愛新覚羅溥傑は、明治40年(1907年)、

中国清・醇親王の次男として生まれました。

翌年、兄・溥儀が2歳10箇月で皇帝に即位。

後に「ラストエンペラー」と呼ばれることになります。

明治45年(1912年)、溥儀は退位しますが、

王宮・紫禁城での生活を続けることは認められました。

溥傑が溥儀と初めて会ったのはこの頃だそうです。

 

大正13年(1924年)、溥儀は紫禁城を追われます。

その溥儀や、弟の溥傑を庇護したのが日本でした。

昭和7年(1932年)、満州国建国。

溥儀が執政(後に皇帝)に就任します。

日本に留学していた溥傑は、

昭和10年(1935年)に、満州国で陸軍に入隊しました。

 

溥儀は溥傑を日本の皇族と結婚させたかったのですが、

皇室典範の規定によりそれが叶わなかったため、

昭和12年(1937年)、

溥傑は昭和天皇と縁戚関係にある嵯峨浩

(中山神社の祭神・中山忠光の曾孫)と結婚します。

溥傑にとっては2度めの結婚でした。

その後、終戦までの間は、赴任先の関係で、

日本と満州を行ったり来たりしており、

その間に、2人の女の子を授かりました。

 

そして、終戦。

溥傑は溥儀らと共にソ連、そして、中国で収容されますが、

昭和35年(1960年)に釈放され、翌年、浩と再開。

その後は夫婦で中国に住みました。

 

平成6年(1994年)に死亡しますが、本人の希望により、

中山神社の摂社・愛新覚羅社に納められていた

妻・浩と娘・慧生の遺骨ともども、

遺骨は日中で半分に分けられました。

中国側の遺骨は妙峰山の上空から散骨され、

日本側の遺骨は愛新覚羅社に納められたとのことです。

 

書家としても人気があったそうです。

 

 

碑の場所はこちらです。