藤原忠光卿 神霊(中山忠光墓) | ねりえ日和

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本州の西の端・下関から 石碑やモニュメントを中心に

このブログの中で、アクセス数が多い記事の1つに、

中山忠光とその子孫」という記事があります。

 

どうやら「中山忠光 子孫」でググっても、

「中山忠光 家系図」でググっても、

ありがたいことに、1番上にこの記事が掲載されるようなので、

それでアクセス数が多いのかなあと思っております。

 

 

公家・中山忠光は明治天皇の母・中山慶子の弟、

すなわち、明治天皇の母方の叔父にあたります。

尊王攘夷運動に身を投じ、

1863年、久坂玄瑞率いる光明寺党の党首として、

外国船砲撃に参加します。

その後天誅組の主将として挙兵しますが、失敗。

長州に逃れ、各地を転々とします。

そして、最終的には、1864年に田耕の地で暗殺され、

19年7箇月の生涯を閉じるのです。

 

 

さて、下関市内には、忠光を祀る「中山神社」が2箇所あります。

1箇所は、忠光が非業の死を遂げた田耕にある「本宮中山神社」。

こちらは以前ご紹介しました。

 

そして、もう1箇所が、↓ここ

 

 

綾羅木にある「中山神社」。

忠光の遺体が埋められた場所です。

 

中山神社は、1865年に長府藩が「中山社」として、

後述する忠光の墓の上に建てました。

明治19年(1886年)に「招魂社」に改称され、

翌明治20年(1887年)に、

現在の山口県道248号下関港安岡線(旧国道191号)上に

移転しました。

その後、国道建設のため、昭和3年(1928年)に現在地に移転。

「中山神社」となりました。

 

 

 

拝殿向かって右奥に階段があります。

 

 

 

その先にあるのが、中山忠光の墓です。

1865年に奇兵隊が建てました。

 

忠光の遺体は一旦田耕で埋葬されましたが、

幕府が忠光の遺体の検分を行うため、掘り返されます。

しかし、運ぶ途中に夜が明けてしまったことから、

人目につくのを避けるために、

やむを得ず、綾羅木の海岸に埋葬したと言われています。

 

 

墓には「藤原忠光卿 神霊」と記されています。

 

中山家が元々藤原家の出であること、

そして、暗殺した長州藩が、

当地に忠光が埋葬されていることを隠そうとした結果、

藤原姓とされたものと言われています。

 

 

墓の場所はこちらです。