モーニング娘。その9 | One of 泡沫書評ブログ

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さて、長らくぶつぶつと気色悪い語りをしてきたが、ここで気持ち悪いついでに「モーニング娘。」の楽しみ方について考察してみたい。おそらく、「えー、アイドルとかまじキモい」という人が殆どであろうが、ここは一つ、人生なにごとも楽しんでみようじゃないか、という前向きな気持ちで考えていただきたい(笑)。何だかいつもの書評のノリになってきた。

たしかに一部の先鋭的なファンには色々問題があるのかもしれない。そこまで極端な例はともかく、基本的にはオッサンが主たる消費者であることを考えると、わたしのようなオッサンが若い娘に、下手すると本当に自分の子供と同じ年頃の女の子たちにきゃあきゃあ言うという構図は、原理的に気持ち悪い絵になってしまうことは否定できない。これはエロゲやアニメなどのテーマでも同じなのだが、一般に気持ち悪いという価値判断は「当然」であろう。だが、できるならこうした世間の声を真摯に受け止め、かといって感情的になることもなく「好きなものは好き」「いいものはいい」とした上で、分別ある行動を心がけ地道に「キモい」イメージを改めていきたいものである。

ところでアイドルといっても色々である。あまり詳しくは知らないのだが、見た感じ「AKB48」のファン層とハロプロのファン層の間には深い断絶があるように感じられる。一方で「ももいろクローバーZ」などはまったく新しい市場を開拓しているようにも見える。(ももクロのファンは本当に楽しそうである。)この辺は派閥同士が色々なところで「神学論争w」をしており、とくにハロプロ勢とAKB勢の売り方が正反対であるためか、お互い口汚く罵り合っている様は本当に興味深い。こうした議論を眺めるのもまた一興であろう。このように、同じアイドル市場と一言で言っても色々あるものだ。

話が逸れた。「モーニング娘。の楽しみ方」の話であった。

モーニング娘。の楽しみ方とは何か? 引っ張るほどでもないので結論を言おう。それは「成長物語」これに尽きるのではなかろうか。モーニング娘。が頻繁にメンバを入れ替え、素人同然の子供がイチからやり始めるのはいったいなぜなのか? もちろん新鮮さを維持するとか色々な理由もあるだろうが、最大の理由は「最初は素人だった子供がだんだん大人になり、歌や踊りがうまくなっていく」経緯こそがドラマだからだと、わたしはそう考えるものである。

成長物語というのは小説や漫画ではお定まりのジャンルで、主人公たちが敵に破れ、自らの未熟さに苦しみ、修行して力を身につけ、新たな敵を倒していったり、仲間との絆を深めたりする、まあそんな感じの定義でよいと思う。『少年ジャンプ』的な展開だといったほうがいいかもしれない。できなかったことができるようになる。へたくそだった子が努力でうたえるようになる。子供だった子がいつの間にか成長している。ダンスがだんだん上手になっていく。もちろんハロプロにおいては松浦亜弥のように初めから完成されていたという「例外」はあるものの、モー娘。は原則としてポテンシャル採用が多い。こういうバリバリの体育会系の話が魅力なのではないだろうか。

ときには外の敵だけでなく、仲間の才能に嫉妬し、メンバ内での争いも起きたりすることもドラマといえるかもしれない。たとえば飯田、なっちの諍いや、後藤真希が鳴り物入りで入ってきたときの、後藤となっちの「センタ争い」は、われわれ世代にとっては懐かしい話だ。最近では新垣と田中の仲違いからの関係修復や、9期鞘師に公然と挑戦する10期石田の存在などは久しぶりのモーニング娘。っぽい話であり、微笑ましい。

かつてアイドル界で頂点に立ちながらもいまや二流に落ちぶれてしまったという評価も、こう考えるとむしろこれこそがモーニング娘。の原点なのかもしれない。AKB48勢の後塵を拝す状況が長く続いた今こそが一番面白い時期なのではないか。

(気が向けば、つづく)