
¥700
Amazon.co.jp
前作に(1)と連番が振られているので、シリーズものだというのはわかるが、どうせ続編は出ないものかと思っていた。しかし、意表をついてちゃんと出版されていた山本先生最晩年のエッセイ。前回も書いたように、これは大正生まれの著者が、昭和初期(昭和10年前後)の世相を思い出して書き綴る随筆である。したがっていわゆる「歴史」ではないが、ある意味では非常に当時の世相がよくわかる本である。
言いたいことはだいたい前回書いたので、今回は山本先生の人となりがうかがえる一節を取り上げてご紹介したい。といってもわたしは短くまとめられないので、引用は少し長くなる。
―――大学で多少なりとも学生に接してみると、いまの学生は、さまざまな面で理解できない。まず第一に教育の水準はわれわれの時代よりはるかに高いはずなのに、国語では、かつての劣等性である私の、中学一年ごろの学力がない大学生がいる。なぜであろうか。あるとき「ははあ、これは『漢文』が実質的になくなったからだな」と気付いた―――
普通の老人なら、ここからの展開はまるで定型文のようにこう続けるだろう。「われわれの頃はこういう漢文がちゃんと読めた。それに引き換え、今の若い連中は・・・まったく、嘆かわしい」と。今の若い連中は、漢文を読めない代わりに、PCを操り、スマートフォンを操り、プログラミング言語を操り、英語を操っているわけだが、老衰したおじいちゃんにはそういうことが見えないのだ。
山本先生も同じなのだろうか。文章を読んでいくと、かれはこう続ける。
―――若い人からの投書や感想を寄せられると、つくづく、一時代前を誤解のないように伝えることはむずかしいと思う。確かに当時の中学一年生は今の大学生も読めないような漢文が読めたのである。そして少なくとも「及第圏内」にいた私にも読めた。しかしそのことは、私たちが今の大学生より知的であったわけでも早熟であったわけでもない。また漢文のおかげで、今の大学生も読みかねるような本も読んでいたであろう。しかし、おそらく、今の中学生と比べれば、はるかに子供っぽかったはずである。
もし当時テレビがあり「少年ジャンプ」があり、また世にいう低俗週刊誌があって、さらにそのほかのさまざまな娯楽があふれていたら、そして漢文がなかったら、もちろん私なども今の中学生と同じようなことをしており、また塾に行って、両親は偏差値を気にしていたかもしれない。そして私たちの時代には、そういったものは全くなかった―――
興味をもたれたら、ぜひ手に取ってみてほしい。