書こうと思ったネタがホリエモンとかぶってしまった。これホント。ホリエモンが書いたからじゃないよ!
ノーベル賞の野依氏、蓮舫氏らの「スパコン、世界一になる必要あるのか」発言に憤慨 - 痛いニュース
「痛いニュース」はやはり大変興味深い。
このニュースの骨子は、政府の予算によってスパコン事業を行っていることに対して、「仕分け人」である蓮舫議員らが「一時的にトップを目指すことに意味があるのか」と、世界一不要論を展開し、予算の削減を命じたとのこと。しかしノーベル章を受章した野依氏などは、「(スパコンなしで)科学技術創造立国はありえない」と憤慨しているということ、だそうだ。
これに対し、痛いニュースのコメント(2ちゃんねるのコメントを管理人が抜粋したもの)では、蓮舫は何もわかっていない、技術立国日本の生命線だ、などというような意見がほとんどであって、誰も国の予算でスーパーコンピュータをやるのは無駄だからやめろ、というような話が見られないのが特徴である。
たしかにスーパーコンピュータ事業などは営利目的ではなかなか難しい分野だと思われるが、はたしてシグマ計画のような「前科」がある領域で、本当に政府主導での補助金がプラスに働くのかどうかは検証されていいと思う。とにかく「補助金ありき」というのが実に微妙だと思う。こういう国威発揚型の、いわば古臭い垂直統合型補助金思想は、まったく無駄ではないと思うが、農政と同じようにこれでは技術的にダメな国産ITゼネコンが潤うだけのような気がするのだが、どうなのだろうか?
つまり蓮舫議員らによる「一位になってどうするのだ?」ということに対して、こういうのは一番を目指さないと意味がないだろうと憤慨するのは理解できるのだが、だからといって政府に金をたかることを正当化するのはちと弱いと思うのだ。スパコン事業が国益にかなうというのなら、やはりそこには短期なり長期なりで、投資の回収計画が立案されていないと税金を投入するのはためらわれるだろう。とにかくメンツだけで数百億投入するというのは、稚拙と言われても仕方がないのではないだろうか。
なんというか、基礎研究の分野はコストを度外視することが正しい、みたいな風潮で違和感を感じる。一面では真実を表しているとは思うが、だからといってそこに甘えることを正当化するのは間違っているだろう。あまりにもコスト意識が大雑把すぎると思う。
この分野はあまり良く知らないのだが、直観的に言って、本当にスパコンの高速性がさまざまな分野で役立つというのなら、それは当然事業化できるはずで、そうするとやはりホリエモンが主張するように、技術をビジネスにつなげる、もっと言うとカネにできる戦略を考えることができるようにすべきであり、そのための人材を育成するとか、規制をなくすとかの発想の方が建設的だと思われる。コスト意識のないところに「国の威信」とかいうような無駄な変数が入ってしまうと、何でもいいからとにかくつくっちまえ、ということにならないだろうか?
あとホリエモンは技術とビジネスをつなげる部分を担う人材こそが不足しているのであって、こまごまとした実際の研究をされている人にビジネスをやれ、と言っているのではないと思う。
などとつらつら思っていたのだが、単に池田先生のblogに書いてあった ことが頭に残っていただけだった。記事を読んだことをすっかり忘れて、自分で考えたような気になっているから恐ろしい。わたしはただの池田教の信者・・・orz。
2009.11.16追記 池田先生もこのニュースに反応していました。
さすがは池田先生、2年経ってもぜんぜん変わっていません。断言しています。信者は安心しますw
これに対する反論としては、やはり
「基礎研究は営利を生みにくいし、効果は必ずしも計測可能ではないのだから(過程が重要なのだから)、経済的に利益を生まないからといって研究を止めるのは技術立国日本の損失だ」
というようなところが一番多いような気がする。つまり国策上有用なのだからコストを度外視して投資をしろということであろう。(というより、計測不可能、ということで開き直っているのか?) インターネットですらもとは国策だったのだから(これはARPANET などのことを指していると思われる)、国が主導して技術のひな型を作ること、あるいは研究そのものが生みだす成果物はもとより、副次的に生みだされる「副産物」にも意味があるというような論調だろう。
補助金賛同者にはこういう発想が一番多いと思う。1960年代の発想といえばいいのか、「坂の上の雲」の時代はとうに終わったのだが、やはりこういう「国が主導して純国産のスゴイ技術が世界を制覇する!」みたいなストーリが大好きな人が多いのだろう。「努力する過程に意味がある」みたいなのも、みんな大好きなのではないか。でなければ、「コストは度外視」としか言えないような理屈を口にすまい。それなら、むしろ技術者がスキにチャレンジできて、チャレンジャーに対する投資が容易になり、失敗してもやり直しができるような構造をつくったほうがよほど意味があるだろう。なぜ国が丸抱えして巨大な大砲をつくるという発想にしかならないのか。
池田先生が危惧するのは、ある意味では「たかが数百億」の金銭的な無駄よりも、これにぶら下がる研究者や技術者の時間や能力が浪費されることだと思う。人的資本こそは何物にも代えがたいが、優秀な人材が競争力のない分野の研究に何年も関わっていると、それこそ結果的に無駄な人材がたくさん生みだされてしまう。有能な研究者や技術者がもっと自由に研究開発ができ、やり直しがきくような世界を望みたい。理研にいないと研究ができないような環境こそが問題なのではないのか。