「新自由主義」対「大きな政府」 | One of 泡沫書評ブログ

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最近、民主党の政治のやり方がだんだんとわかってきた。政治経済リテラシの高い人たちは「そんなこと初めからわかってたよ」とニヒルに構えるだろうが、一般の認識では、まだ「結局何がしたいのかよくわからない」というものが大勢なのではないだろうか。テレビを見ていると鳩山首相は「ぶれている」ように見えるのだろうが、インターネットを見ていると、民主党は本質的にはまったくぶれずに、連合や公務員などの既得権益層の大きな支持をバックに、「大きな政府」路線を目指し、中福祉、超高負担の実現に邁進していることがわかる。このままいくと日本はゆっくりと衰退し、中国や韓国から冷笑されながら「かつては豊かだった、過去の国」としてさびしい21世紀を送ることになるのだろう。残念なことだ。


そんなわが国の代表、鳩山首相の理念は「友愛」というものらしい。かれのここ何ヶ月かの行動を見る限り、その崇高な理念はさておき、じつに「日本的」な政治のやり方をするなあ・・・という感じがする。かれは、井沢先生の言うところの「和」を何よりも重視する政治家だということであろう。あちらも立て、こちらも立てる。諍いが起これば仲裁する。それでもまとまらなければ先送りする。本質的なトレードオフは絶対に深入りしないという姿勢もある意味で徹底している。かつて鈴木善幸という首相がいたが、まるでかれをほうふつとさせるような柳ぶりである。


そういう意味では、かれのことを評して「ぶれている」というのも少々的外れなのかもしれない。かれの場合、確固たる理念がない、というのは間違った評価なのではないか。かれが何度も語っているように、大切なのは「友愛」だということなのだろう。あちらに困っている人がいれば駆けつけ、こちらから不満が出ればこちらにも配慮する。利害がぶつかれば両者にばらまく。こうしてみると、かれはまったくぶれていないともいえるのではないだろうか。そのつけは将来から前借しているだけなのだが、かれにとって10年後の国民は目の前にいないわけだから、どうでもいいことなのだろう。だからそんな将来の話は勘定に入っているわけがない(これは現在のシステムがそういうインセンティブしかないわけだから、一概にかれだけを責めるわけにもいかないだろうが・・・選んだのは国民なわけだし)。まあ、こうして自民党と民主党の両方ともあてにならないということが周知されただけでもよかったのではないだろうか。


ところでこうして改めて俯瞰してみると、かつて存在した「右翼-左翼」などのような二項対立でみれば、今の対立軸は「新自由主義」対「大きな政府」というふうに読み解けるのではないだろうか。当然、自民党(最近宗旨替えをしたようだが・・・)や民主党、国民新党、社民党は「大きな政府」だ。社会民主主義だか共産主義だかわからないが、これらの人たちはとにかく規制と統制経済が好きで、弱者を見捨てておけないのが特徴だ。この世には無謬の理想世界がどこかにあり、そこに至るまでには政府が主導して道を整備していかなくてはならないと思っている。民衆は愚かであり、国家や指導者、官僚がやさしく導いていかなくてはならないとたぶん本気で思っているのだろう。残念ながらわが国はこうした行き方のほうに心情的になびきやすい。わたし自身も、かつてそうだった。悪いことにこうしたモデルは「坂の上の雲」とか「官僚たちの夏」みたいな感じで、かつての成功体験が亡霊のようにこびりついている。ひとつのビルドゥングスロマンになっているわけだ。そりゃ、シンパシーも感じてしまうのも仕方がないだろう。「清貧」「日本の底力」「技術力」「科学力」「ものつくり」「終身雇用」「年功序列」「正社員」「社会保障」・・・まあ、こうしたキーワードを並べられると、なかなか面と向かって反論することは難しいだろう。


一方の「新自由主義」は非常に分が悪い。何しろ大マスコミのほとんどを敵に回しているのだから、印象操作だけでもう完全にアウトだ。戦わずして敗北しているという感じだ。貧しい我々から搾取する拝金主義の成金たちが、利益第一主義のもと既存の日本社会の文化を破壊している、というものだろう。しかも悪いことに、かれらの主張することは日本の文化的な倫理観に真っ向から反することばかりで、直観的に受け入れがたいことが多い。「経済合理的」「市場経済」「イノベーション」「規制緩和」「流動性」「自由競争」・・・ぱっと見でつい拒否反応を起こしてしまうのも頷ける。


とはいえ、なるべくテレビを見ないようにしてインターネットばかり見るようになったら、ノイズがなくなって、どう考えても日本が今後も世界でプレゼンスを発揮していくためには、この「新自由主義」と揶揄されるような「小さな政府」路線でやっていくしかないと確信するようになる。今でもまだ「大きな政府」に何かを期待しているという人はどうなのかなと。細かい戦術には巧拙があるだろうが、大きな戦略としては「新自由主義」で今後も成長を目指すのか、それとも「大きな政府」路線でみんなで平等に貧しく暮らすことにするのかの二者択一だろう。そういう意味では後者の生き方も一つの貴重な選択肢だから、あえてそれを目指す民主党のやり方は否定しない。ただし、後になって「こんなはずじゃなかった」とだけは言わないようにしたいものだ。