天皇論 | One of 泡沫書評ブログ

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ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論/小林 よしのり
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かつて小林よしのりといえばそれだけで紛糾のネタであった。わたし自身もそうだったから人のことは言えないが、高校生や大学生など、自意識ばかり発達して、自由に思考できる時間だけがたっぷりあると、思想にカブレやすくなる。小林氏の場合、それまでの日本で是とされてきた価値観をことごとく破壊しようとしていたのだから、旧体制側(?)から猛烈なバッシングを受けるのも致し方ないというものだ。またマスコミによる間接的な洗脳を専売特許にしてきた学者・インテリにとって、漫画というメディアで(これまで本を読まない層に対して)直接思想を注入しようとする小林氏の存在は脅威であったろう。例にもれず、わたしも見事に感染してしまった。


そんなかんじで、一時期思想にかぶれたこともあって、かつての論争(「従軍慰安婦」、「新しい歴史教科書」など)には活発に目を通していたことがある。オピニオン誌も定期購読したり、いろんな本を読んでみた結果、わたしは「右翼」に共感した。といっても、かぎかっこ付きなのは、あのホンモノのひとたちとは違うもう少しライトな存在である。最近は「嫌韓流」とかいうような本が流行ったりで、右翼的な発想というのはどうしても国粋主義的な一面があるため、右傾化と言われても仕方ない面もあるが、そういう極端なのはやはり本職にお任せしたい。わたしが目指したのは、日本古来の歴史に根差した自然なかたちでの愛郷心とでもいうのだろうか。英語ではこれをパトリオティズム(Patriotism)というらしい。自分ではべつに右翼だと感じないし、歴史的にもこれをもって「右翼」とは呼ばないだろうと思うが、今のマスコミ学的分類で行くと間違いなくわたしの思想は「右翼」である。


だがあれから十数年、今やウヨク-サヨクという構図も成り立たなくなり、現在はさまざまな価値観が混とんとする、思想的にはなんとも難しい時代になってしまった。今の言論界は何を争点にしているのだろうか? 派遣切りの問題や格差などを扱っているのとは思うが・・・。


本書はそんな議論を呼び起こすことにかけては天才的な小林氏の「ゴーマニズム宣言」である。相変わらず字が多くて大変読むのが疲れる漫画である。「天皇とは何か?」「皇室とは何か?」という難題に真っ向から取り組んだ、相変わらずの精力で恐れ入る。わたしなどはすでに、こういう問題に真っ向から取り組むことは、はじめからあきらめている。それにしても、小林氏はセンシティブな、ある意味ではタブーばかり扱っているが、疲れないのだろうか? 軋轢やバッシングの量も半端ではないだろう。モリタクみたいな適当な生き方をすれば楽して稼げるのになぁと、人ごとながら感じてしまうくらいだ。連載を載せるサピオも大したものである。正直、内容が濃すぎて、半分くらい斜め読みしてしまったのはここだけの話である。


ところで、天皇を解体することは物理的には可能だ。立憲君主制を廃して、大統領制に移行することも原理的には可能である。我が国は法治国家であり、なにしろ国民主権である。国会で憲法を改正して、「共和制(もしくは大統領制)にする」と決定すればよいのだ。


こうした一種のアノミー的な考えは非常に戦後の価値観にマッチする。(アメリカ的な)合理主義判断ですべてを決定するということで、過去の慣習や因習はなんでもかんでも斬って捨てるというスタンスである。天皇家は不合理な存在であり、いらないというのだ。千代田の一等地に無駄な土地を確保し、宮内庁にかかる経費も莫迦にならない。廃止してしまえばよいというわけである。果たしてそうだろうか? その回答が、小林氏の「天皇論」であると言えよう。


わたし自身は皇室に対して非常に敬意を持っている。神聖なものはあまり俗に触れないでほしいという願いもある。だからよく被災地などに両陛下や皇太子殿下が御幸なされていらっしゃるが、「開かれた皇室」などより、威厳を損ねないようにふるまってほしいと願っている。大衆は天皇陛下や皇太子妃殿下などタレントかなにかと思っているのだから、対等の目線で語りかけても理解するわけがない。したがって、陛下は神聖にして侵すべからず、日本国の権威の象徴としてこれからも高貴にあり続けてほしい。そして、国民の側からはせめて「女性自身」的な発想で天皇を見ず、皇室に対して敬意をもって報道してほしい。たとえそれが下世話な国民の要請であったとしても、そんな国民すら陛下はやさしく見守ってくださっているのだ。大衆は権威を貶めるような行為だけはやめてもらいたい。また、男系の権威を損ねないように、宮家を復活させるなりしてほしいし、場合によっては多妻制の復活もありだと思っている。だが陛下も殿下もおそらく国民の理解を第一に優先させるであろうから、これはわたしの妄言だ。


神聖なるものは、秘すことで権威が生まれるのである。そして、人間が敬意を払うのは権威なのだ。権力に対しては人は従うのみで、服従しているわけではない。我が国は権力と権威を巧みに分離して国体を維持してきた。そのバランスをわざわざ積極的に崩すことはないと信じている。威厳とか権威とかいう感覚は「厳かな」ものだが、この感覚は意識して作り上げようとしてもそんなに簡単に作れるものではない。だが崩壊するのは一瞬だ。皇室はその権威が崩壊したときが終わりである。皇居が残っていたり、天皇が生きているとかは関係なく、権威が失墜した日が終わりの日である。そして、崩壊し始めたら終わりまで一瞬だと思う。


仮に天皇を廃し、単なる「国民」として共和制に移行したらどうなるだろうか。藤原氏ですら、いやGHQですら止めたことを我が国が主体的に行ったらどうなるだろうか。個人的にはぜひともやめてもらいたいが、ある種の思考実験としては非常に興味があるのも事実だ。それに、主権をもった国民が国家としてそれを選択したなら別に受け入れるしかないかなと思っている。果たしてあの皇居が廃され、堀が埋められ、千代田にインテリジェンスビルが立ち並ぶ時、はたして誰が国家元首として我が国の国体を維持するのだろうか。そのときに、本当にアノミーにならないのだろうか。わたしは自信を持てない。だからできれば、左翼陣営は皇室についてこれ以上妙なことを働きかけるのはやめてほしいと思うのである。


・・・こんなことを言っているわたし自身がもっとも反権威・反体制なのだから、いったいおまえは右翼なのか左翼なのかはっきりしろと言われそうだ。職業評論家なら相当強力にバッシングを受ける予感が・・・。難しい問題にはわざわざ自分からタッチするものではないなぁ・・・と消化不良のまま、本稿はこれで終了。