キリストの贖いは死んだ者への適応で聖霊の冒涜に関しては不可能 | ものみの塔で聖書を学んだ元エホバの証人8ネコのブログ

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ものみの塔アンチにもエホバの証人の有様双方に忖度なく思ったことを書き綴る。別途ブログあり。アメブロは適当。

前回に知りながら罪を犯しつつ尚且つ聖書の信ぴょう性を敢えて貶める発言をするなら聖霊の冒涜に該当する可能性があることを書きました。今回はさらに詳しく考えます。

 

昔聖霊の冒涜を犯した人たちは完成した聖書を手に取って現代のようにいつでも調査できる環境にありませんでした。ですから、今の便利な時代において聖書全巻を読んだ後に善悪を弁えた状態で罪を犯し、その後敢えて周囲を煽動し自分に同調させる目的で色々な悪口や誹謗中傷を広めるなら聖霊の冒涜に該当する可能性があることになります。昔よりかなり有利な状況下で聖書にいつでもアクセス出来て調査も十分した後に敢えてその正当性を歪曲する確信犯になるからです。

 

そしてキリストの贖いは知りながら罪を犯しつつ誹謗中傷する者たちのための死ではありません。そして人は死ぬことで罪が相殺されるケースがあるとエノク書も述べています。しかし、死ぬことで許されないケースもあるのです。それが聖霊の冒涜でありこれは万人がこの罪を犯すわけではないと思います。残念ながら敢えて反聖書主義の道を選ぶ宗教二世に散見される罪である可能性があります。

 

罪悪感を不快に感じ攻撃的になるのかもしれませんが、あまり無関係な人たちまでをも誹謗中傷しつつ自分自身が罪を慣わしにしている状態だとかなり聖霊の冒涜に近くなり死んでも赦されないつまり死んで安らぎに入ることが赦されないまれなケースになる可能性があります。そのため永遠と訳されるアイオーンの期間悪魔と堕天使と悪霊が最も恐れてイエスに「責め苦に合わせないでくれ」と懇願した程の恐ろしい火の池でそれらと同じレベルの意識を伴った懲罰を食らうことになります。

 

エホバの証人は死ねば無になるだけとか言ってますが、どこをどう読んでも「責め苦」や「恥を伴う有罪宣告を受けるための復活」などの表現が散見される以上、それを象徴的に受け取るより現実的に悪を行った者らに対して相応しい裁きが待ち受けていると考える方が理に適っています。当然悪を行ったものの栄光を受けることは無いが憐れみの復活をする者らも居ると外典エノク書に書かれてありますし、エゼキエル書にもソドムの住民のある人々がそうなると預言されています。

 

ネロは使徒たちを迫害し残虐で言葉にできない程の悪事を行いましたが、それが第一の死を迎えただけで無になるわけではなく第二の死に至るための再興の機会が与えられない裁きを受けるための復活をするのでしょう。それで聖書の神の愛とはエホバの証人が言うような悪を行った者に対して無関心ではなく怒り不快感憎悪を伴った類の正真正銘偽善の無いものである故聖徒たちが復讐を願う際にそれに応え応じると言われています。やはりネロのような人間は中世暗黒時代にも存在していますし、聖書を知っても改心せず人を傷つけることを生きがいにしてきた魂は義人たちの記憶からは消されるものの、ゲヘナで悪魔とその使い達と同等レベルの裁きを受けることになり、死んで眠ることが赦されない可能性があります。

 

そのため黙示録は昼も夜も休みがないと表現しておりイエスは右手や目を切り離し抉ってでもそこに行くべきではないと表現しウジも死なないと述べる程です。復活とは「元に戻る」の意味合いが原語に含まれるために、魂(思い)の入った人間がもう一度神の子としてアダムとエバのように自由に活動できる状態になることを示唆しています。悪い魂(思い)を抱く人は生きてはいても命の書に書き記されていないために死人ですから、聖霊の冒涜をした場合やはり死の眠りに入ることが赦されないため懲罰を受けるためだけの復活をしてしまう運命に定められてしまいます。

 

これは軽く受け止めるものではありません。普通の人は死んで眠りに入り栄光を受けることはないが憐れみを受ける復活を成し遂げるとエノク書に書かれています。しかし聖霊の冒涜を犯した場合「懲罰」を受けるためだけの復活でありそれは永遠の恥と呪いと責め苦を伴う可能性があります。エホバの証人に死ぬと無になるだけと教えられた人たちは、「滅んでも別にいいんだよ」とか言って常々人を傷つけたり嘘や悪口大言壮語、不道徳泥酔浮かれ騒ぎ等を正当化する傾向があります。しかし皆さんがご存じのように「死ねば無」になり得ないケースがあるのです。それが聖霊の冒涜の罪であり、ユダヤ教の律法を知りながら罪を犯し続けた金持ちラザロの話に登場する金持ちもこの罪を犯した可能性があるのです。

 

ヤコブ書では舌は全身を焼き尽くすと表現されており、金持ちがアブラハムに水一滴でもいいから舌を冷やしてほしいと懇願したこの有様は単純にこの金持ちが資産家だったわけではなく舌つまり言葉でかなりの不義の罪を犯した故に聖霊の冒涜を犯し死の眠りに入って許されることがないような状態に陥っている可能性があります。死の眠りに至る霊魂は許しを得ています。そしてキリストの贖いはそのような霊魂に適応されます。

 

しかし決して贖いが適応されないケースもあるわけです。アンチものみの塔エホバの証人の反聖書主義者の方々はこの舌で罪を犯しよく聖書を知りながら罪を犯し正当化して周囲にその不義を慣わしにするよう誘導している存在となるケースがあり、この場合もしかすると死の眠りに入ることが赦されなくなる可能性があります。かなり気を付けて悪に負けないようご自身の語る言葉に気を付けた方が良いと言えます。

 

基本的に人は宗教的背景に関わらずある程度善良に生きると死の眠りに入ることが赦されます。そして将来栄光を受けることは無いとはいえ憐れみの復活をするケースがあります。しかし死の眠りに入ることが赦されない、イエスが述べた「この先も一生許されない聖霊の冒涜の罪」を犯した人はアイオーン(未定、かなり長期間何兆年もあり得る)の期間火の池の裁き、懲罰を受ける可能性があります。それは一生許されない罪人として神の前に死んだ魂であり滅びを被った原語的に言えば神の祝福から切り離された状態故に死の眠りに入らないかもしれないのです。

 

この聖霊の冒涜の罪は特殊な罪であり一世紀当時聖書を良く知るパリサイ人が犯した類でした。現代はパリサイ人より聖書によく精通している人たちがいます。エホバの証人とアンチものみの塔の双方です。これらは聖書を容易に大量に調査して善悪の判断を下すことができる状態で一世紀より有利と言えますし、両者とも自分たちの間違いを正当化するために確信犯的にその偽りに安住し悪口を言い広めるかもしれません。

 

例えば組織が間違いだと誠実に穏やかに述べる人を追い出して無視したり、アンチjwの場合は聖書の音信を敢えて歪曲して言い広めて自分の淫らな生活を正当化する等です。それで、この聖書は良くも悪くも人々を極端に分類するベストセラーとなり神秘的な存在となりました。聖書を容易に手に取り学び原語を調べることができる現代はとても便利な反面聖霊の冒涜の罪を誘引することにもなりました。それは光と闇を分かつための必要な作用と言えるのでしょう。洗脳されたエホバの証人にもアンチものみの塔にも染まらず自分自身で思考する必要があります。聖霊の冒涜はエホバの証人にもアンチものみの塔の双方に起こり得る可能性があり、聖書に関わる全ての人に生じ得るものです。ですから、柔軟に臨機応変に心を広くして自分を偽ることなく幼子のように素直に自分の間違いを認める人間性が求められるのです。

 

今回は多くのアンチものみの塔がエホバの証人に洗脳されて「滅べば無になるだけだから上等だこら」と思い込んでいるが実際は死後に懲罰を受けかつ死の眠りに入ることが赦されない可能性のある罪、聖霊の冒涜についてでした。