この先も赦されることがない聖霊の冒涜について | ものみの塔で聖書を学んだ元エホバの証人8ネコのブログ

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ものみの塔アンチにもエホバの証人の有様双方に忖度なく思ったことを書き綴る。別途ブログあり。アメブロは適当。

マタイ12:31-32 だから、あなたがたに言っておきます。どんなにわたしを悪く言おうと、またどんな罪を犯そうと、神は赦してくださいます。ただ一つ、聖霊を汚すことだけは例外です。この罪ばかりは、いつの世でも絶対に赦されることはありません。

ヘブライ6:4-6 あなたがたが、いったん福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)の光に浴し、天からの恵みを味わい、聖霊をいただく特権を与えられ、また、神のすばらしいことばと来るべき世界の力を知った上で、なお神に背を向けるとしたら、もう主に立ち返ることはできません。それは、神のひとり子をもう一度十字架につけ、人前でさらしものにすることだからです。そんな人は、もはや悔い改めようがありません。

聖霊の冒涜とはイエスによると聖霊による業の悪口を言い広めること、またパウロ書簡によると一度音信を聞いて十分善悪を判断できる状態で故意に罪を犯し続けること等が該当すると考えられます。これは、アンチエホバの証人のかなりの人に当てはまる可能性のある事例と言えます。

 

それらは聖書を学んだ後ものみの塔の間違いを聖書から指摘することができます。その状態は真理の核をある意味ものみの塔より理解している有様ですから、反聖書主義になりその基準を否定するような言い分を広めたり自分自身が罪を犯し続けても正当化するなら聖霊の冒涜にかなり近くなると言えます。そしてパウロ書簡にあるように、いつかのタイミングで「プッツン」それ以降生存中に謝っても赦されない可能性があると考えられます。

 

ただ単純に罪を辞められないだけではなく、周りを悪へ引きずり込もうと悪口を言い広めて聖書の信ぴょう性を落とそうとするならやはり聖霊の冒涜に近い有様になると思います。個人間で聖書や神に疑問に思うことや不満を口に出すことはそうではありませんし、ものみの塔を批判することがそれに該当するわけではありません。聖書の音信を知った後に聖書の基準に逆らいそれだけではなく、正しいことを悪いことであるかのように事実を意図的に捻じ曲げ悪評を吹聴するならそれが確信犯的な罪に該当し聖霊の冒涜に該当するかもしれないのです。

 

エホバの証人アンチの方々が聖書嫌いになって内心聖書が普通の書物ではないことや神の掟の正しさを理解していながら周りを自分の悪のレベルへ引きずり込み同調させる意図があり、色々と言い分を通そうとするならそれは中々まずい罪と言えるかもしれません。ものみの塔は近年「大患難で寝返れば救済される」と言ってるようですが、それらの言い分が支離滅裂なのは今に限ったことではなく寧ろ昔からほぼ全てそうでしたので、そんな嘘真に受ける必要はないでしょう。そもそもエホバの証人教理の間違いを指摘する人たちがなぜその変なものみの塔の歪曲された新説を都合よく信頼するのか。

 

大患難時には聖書に触れる機会の無かったキリストをよく知らない未信者達がキリストの音信を聞いて改心する機会を得るのでしょう。ですから聖書の内容を把握したうえで敢えて周りを低俗な不義へ誘い込む目的で悪口を言い広める人たちにその改心の機会が与えられるわけではありません。それらの人たちは既に聖霊の冒涜の罪を犯し子羊の命の書から永遠に名前を消し去られて死後に地獄の裁きを食らうことが法的に決定している可能性があります。サタンや堕天使悪霊たちは法的に地獄の懲罰の裁きが決定していますが、人類にはそうではなく赦しの恵みの機会が設けられました。しかしその恵みを侮り敢えて逆らい続け尚且つ周囲を悪へ誘導し煽動するなら、悪魔とその使いたちのために用意された火の池で「無、消滅」ではなく「それ相応の状態に維持され自由を奪われ責め苦に合う」可能性が非常に高いでしょう。

 

色々な解釈がありネットでは聖霊は終末にしか作用しないため聖霊の冒涜など現段階でないと言い切る教派もありますが、聖霊の働きは必ずしも奇跡の超常現象だけとは言い切れないことはパウロ書簡の聖句からも明らかとなっています。それはやはり故意に犯し続ける罪でありいつか「プッツン」一生謝っても赦されない程の大罪となり得る可能性があります。なぜならサタンや堕天使や悪霊と異なり恵みを示されたのにも関わらず侮り踏みにじった大罪に該当するゆえんと述べられています。

 

アンチjwの大半が何故かものみの塔に洗脳されているようで、死後に裁きがないと思い込んでいるようですが、悪意を持って他人を誹謗中傷したり聖書を知ったうえで不義を犯しそこに同調させる目的で色々な偽証を言い広めるのであれば、それ相応の審判が待ち受けていることは覚悟しなければなりません。その刑罰は裁きの責め苦でありアイオーンの期間意識を伴うものです。

 

ですから、明らかに洗脳されたエホバの証人より聖書にある程度詳しくなっているアンチものみの塔が聖書の高等批評を試みて罵倒悪口誹謗中傷していくなら死後にただ無になって消滅するだけではなく裁きの復活の際にそれ相応の審判を食らうことになります。もし、罪を犯してしまえどその都度悔いて悲しみに暮れているだけなら救いようはあるでしょうが、攻撃的に誹謗中傷していくとある時プッツンして赦しが一切なくなり裁きの責め苦を受けることが決定する可能性があります。そしてものみの塔が大患難時に寝返るだけで救済されるとか言い出してもそれは信頼に値しない出まかせであり、心の底から今の段階で改心することが求められていると考えられます。一方で今までキリストを知らずまた他人を誹謗中傷しない人々が大患難時に救済されることにはなるのでしょう。全く知らない温厚な人々と知りながら罪を犯し誹謗中傷や他者攻撃ばかりする人たちは天と地の差があります。