正妻スセリヒメ、因幡のヤガミヒメ、越のヌナカワヒメ、宗像のタギリヒメ、カムヤタテヒメ、トリミミノカミ、アヤトヒメ、マダマツクタマノムラヒメ、ヤノノワカヒメ。
これらは、大国主命が娶ったり、妻問いしたとされる各地のヒメたちの名前です。
古代世界きってのイケメンで艶福家とされる大国主命には、このように多くの妻と180人もの子供がいたそうです。
大国主命を祀る出雲大社が縁結びで有名なのもこういった背景があるのかもしれませんね。
前回は、このように大国主命が各地を訪れて、その国の姫と結ばれ、それらの国々を結ぶネットワークが築かれていたのではないかと書きましたが、今回はそれについて少し考えてみたいと思います。
1.大国主命の5つの名
多くの妻子を持った大国主命は、またいくつもの「亦の名(またのな)」=異名を持っていました。
大国主命が、袋を背負って因幡の国にやってきたときの名前は、「オオナムヂ」といいました。
オオナムヂは、因幡の白兎を助け、ヤガミヒメと結ばれますが、それを妬んだ八十神たちに命をねらわれます。
2度も死にかけたオオナムヂは母神から助けをうけながら、根の国のスサノオのもとへと逃れてきます。
そのオオナムヂをみて、スサノオはこう言いました。
「此は葦原色許男(アシハラシコオ)と謂ふぞ。」
(これは葦原中津国(=日本)の頑強な男であるぞ。)
そして、オオナムヂに数々の試練を科すのです。
オオナムヂに一目ぼれしたスセリヒメの助力により、オオナムヂは無事に試練を乗り越え、スサノオのもとから逃げ出すのですが、そのオオナムヂに向かってスサノオは次のように呼びかけます。
「お前が持ってる生大刀・生弓矢を使って、お前の庶兄弟(八十神たち)を坂のすそに追いつめて、または川の瀬に追い払って、お前は大国主神(オオクニヌシノカミ)となり、また宇都志国玉神(ウツクシタマノカミ)となり、娘の須勢理毘売(スセリヒメ)を正妻として宇迦の山のふもとの立派な宮殿に住め。こいつめ。」
愛娘スセリヒメと生大刀や生弓矢を奪われたスサノオが、
「娘を正妻にして宮殿にすみ、大国主神を名乗れ」
というのですから、これはオオナムヂを正式に婿として認めて、国の継承を許したということになるでしょう。
オオナムヂは、スサノオ家の婿養子となってスサノオの国つまり出雲国を治める「オオクニヌシ」になったわけです。
そして、オオクニヌシとなったのちは、越(新潟県付近)の国を服属させて、ヌナカワヒメを娶りますが、その時は、八千矛神(ヤチホコノカミ)と名乗っています。
「オオナムヂ」が、八十神の迫害を逃れて「アシハラシコオ」となり、さらにスサノオの試練を乗り越えて「オオクニヌシ」「ウツクシクニタマ」となり、さらには「ヤチホコノカミ」となったわけです。
このように、出世魚のごとく様々な名前で呼ばれる大国主命ですが、日本の神話の中で、この大国主命ほど多くの「亦の名」、異名を持つ神は、ほかに見当たりません。
この名前の多さは、一体なんなのでしょうか?
小学館「因幡の白うさぎ」より
八十神たちが、焼けた大岩を赤いイノシシと偽って、オオナムヂにつかまえさせ、殺そうとします。
2.大国主命の分身たち
神名とは、まさにその神の働きを表すものですから、大国主命の名前の多様さとは、大国主命の多様な働きや役割を表しています。
では、一つ一つについて見てみましょう。
「オオナムヂ」は、漢字では、「大己貴」「大穴牟遅」「大穴持」などいろいろに表記されますが、これは、もともと個人名として呼びならわされた「オオナムヂ」または「オオアナムチ」という名前があって、それに表音文字として様々な漢字が充てられた結果なのではないでしょうか。
「出雲風土記」では、「大穴持命」となっていますので、地元では「オオアナムチ」または「オオアナモチ」と呼ばれていたかもしれません。(ちなみに、「出雲風土記」には、「大国主命」という神名は1度も出てきません。)
「アシハラシコオ」とは、「葦原醜男」で、葦原中津国のまるで鬼のような頑強な男という意味です。
オオクニヌシが八十神に何度も殺されかけて生き返った様を称した名前でしょう。
5つの名前のうち、「大国主」、「宇都志国玉神(ウツシクニタマ神)」と「八千矛神(ヤチホコノカミ)」の3つは、国を治めるにあたっての一つ一つの機能を表す神名と考えられます。
「オオクニヌシ(大国主)」は、読んで字のごとくに「大きな国を治める主」の意味で、いくつかの小国を束ねたより大きな国を治めている首長を表しています。
「ウツクシタマノカミ(宇都志国玉神)」は、日本書紀では「顕国玉神」と表記されていて、「顕(うつ)し身の国魂の神」ということで、国魂の化身として祭祀を司る役割でしょう。
「ヤチホコノカミ(八千矛神)」は、「八千=多くの、矛=武器」を扱う神として、国の軍事面を掌握する神を表します。
これら3つの神名は、個人を表す名前というより、どちらかといえば称号や職責名といえるのではないでしょうか。
そこで、当然一つの疑問が湧いてきます。
「オオクニヌシ」が称号であるなら、これは、代々にわたって受け継がれる神名であろうから、オオクニヌシ2世やオオクニヌシ3世がいたのではないか?
また、「ウツクシタマ神」や「ヤチホコ神」とは、祭祀や軍事を専門に務める他の神のことで、大国主命がそれらの神たちを代表していたのではないか?
大国主命とは、「オオナムヂ」一人の呼び名ではなく、代々の「オオクニヌシ1世」や「オオクニヌシ2世」の総称であり、また、祭祀を専らにする「ウツクシタマノカミ」や軍事に精通した「ヤチホコノカミ」の働きを総称した神名ではないか?
つまり、「大国主命」は、何人もいた⁉
突拍子もないことのようですが、そう考えたほうが、つじつまが合うことが多いのです。
大国主命が、何人もいたとすれば、ケタ違いに多い妻子の数なども納得がいきます。
なによりも、古事記や日本書記の記す大国主命の出自や系譜が、一定していないことの説明がつくのです。
古事記の「因幡の白兎」の話では、大国主命はスサノオの娘婿でありますが、系図では、スサノオの六世の孫となっています。
また、日本書記の本文では、スサノオの直系の息子となっていますが、日本書紀の一書(あるふみ)では、七世の孫となっているのです。
「大国主命」とは、一柱ではなく、実は、複数の様々な神々を統合した神名ではないのでしょうか
古事記は、スサノオから大国主命に至る系譜を六代にわたって述べ、その後、大国主命には、5つの名があったと説きます。
「此の神、刺国大神の女、名は刺国若比売を娶して生める子は、大国主神。
亦の名は大穴牟遅神と謂ひ、
亦の名は葦原色許男神と謂ひ、
亦の名は八千矛神と謂ひ、
亦の名は宇都志国玉神と謂ひ、并せて五つの名有り。」
これを読む限りでは、まず「大国主命」というスサノオの直系の神が生まれて、その神がオオナムヂをはじめ5つの異名で呼ばれる活躍をしたと読み取れます。
しかし、はじめにオオナムヂがいて、婿入りして、オオクニヌシとなったのではなかったのでしょうか。
日本書紀では、さらに、二柱の神名が加わって七柱の神が、「大国主命」とされています。
とにかく「記紀」は、出雲国で活躍した様々な神々を、「大国主命」一柱に集約したかったものと思われます。
3.国譲りの正当化
「記紀」と同時代に出雲国の国造が記した「出雲国風土記」には、「大国主命」という神名は全くあらわれません。
「大国主命」とは、あるいは「記紀」が、出雲国やその力が及んでいたと思われる北九州から北陸に至る「大国」の「主」として、そこで活躍した様々な神たちを集約して作った新たな神格なのかもしれません。
では、なぜ、「記紀」は、「大国主命」という一柱のスーパーヒーローを描く必要があったのか?
古事記の「上つ巻」は、大国主命が、タケミカヅチ神などの天つ津神に強要されて、自らが隠棲する大きな神殿をつくることを条件に、葦原中津国の国譲りをするところで終わります。
そしてその国譲りをうけて、初代神武天皇からの歴史が始まるのです。
「記紀」では、スサノオは天つ津神アマテラスの弟となっています。
そうすると次のような論理が成立します。
天つ津神アマテラスの親族たるスサノオの直系の子孫で、葦原中津国の国づくりをした「大国主命」という唯一の神が、天つ津神への国譲りを同意をした。
よって、天つ津神による葦原中津国の支配は正当である。
これが、古事記の編纂者が、「古事記 上つ巻」で主張したかった「建国神話」のテーマなのではないでしょうか。
このテーマが、「上つ巻」で完結し、その正当性を受けて、次の神武天皇から続く「古事記 人代」の歴史がスタートするのです。
しかし、その「建国神話」の成立の陰で、隠され消えていった別の神話があったのです。
4.神在月の大国主会議
冒頭で、大国主命を祀る出雲大社の縁結びのご利益のことに触れました。
多くの姫と結ばれたとされる大国主にあやかって、ご縁に恵まれたいと善男善女の皆さんが参拝されるようです。
また、この縁結びのご利益については、次のような説もあります。
旧暦10月神無月は、全国の神様が出雲に集り、神議り(かむはかり)が開催されたそうです。そこでは、人生諸般のこと、特に男女の縁談について話し合われたそうです。
ですから、神様が不在となる10月には、婚姻を避ける風習をもつ地方もあったとか。
古へのむかし、全国から出雲に集まった神様とは、地方地方の国主たちだったのではないでしょうか。
国主たちは、盟主である出雲の大国主命のもとに集まって、先の1年の様々なこと協議しました。また、そこでは、国どおしの関係を深めるための縁談も重要な議題の一つだったのでしょう。
10月に神々が協議のために集結したとされる出雲の地。それは、「大国主連合」とも呼ぶべき古代の国の中心地だったかもしれません。