「羽部清(はべきよし)」さん・・・、愛知県出身で、僕より4歳年上でした・・・。
まず最初に、羽部さんってどういう人だったのかを知ってもらうために、とりあえず
写真を載せておきます・・・。

このブログで初公開の写真です・・・。
左が僕で、右の薄めのスーツが羽部さん・・・。婦人部総会のお手伝い・・・。
僕が、26歳位で、羽部さんが30歳位の時の写真です・・・。
羽部さんって、僕がお手本にしている「おもしろ真面目」な人なんです・・・。
通常は面白くて楽しい人なんだけれど、信仰に対してはとても真面目です・・・。
最近の幹部にありがちな「笑いがなければ良い指導ではない・・・」みたいな、
聞く人に媚(こ)びる様なことはせず、真剣に真実を伝えることに終始・・・。
玄人好みの幹部???でした・・・(笑)
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僕が退転状態で、外資系カミソリメーカーに勤務していた時に、
それまでは、訪ねて来てくれる男子部の幹部はほとんどいませんでした・・・。
それは、おふくろへの遠慮があったのではないでしょうか・・・?
「支部指導長の息子」という見えない障害があったのかもしれないですね・・・。
横から口を出すまでもなく、親から言われているだろうとの気遣いも・・・?
そんな中、羽部さんは何回も訪ねて来てくれました・・・。
今の秋田での僕は、退転しているわけでもないのに、新聞配達以外には・・・、
本部長・支部長・地区部長さえも訪ねて来ません・・・、それだけ嫌われてます・・・(笑)
羽部さんは妻と会っているにもかかわらず、僕がいないとメモを残して帰ります・・・。
それが何回か続いた時に、僕と会うことが出来て、こんな提案を・・・。
「奥さんと一緒に、僕が『四信五品抄』を講義するので聞いてほしい」と言われて、
ほぼ半強制的に講義を聞かされました・・・(笑)
僕は中学生の時に「任用試験」に合格し、その後順調に、講師、助教授補と
合格して、中学卒業時には「助教授補」でした・・・。
さらに、高校時代にも試験を受けて合格、「助教授」になっていました・・・。
註:当時教学試験は中学生から受験可能で、毎年のように実施されていました・・・。
部員カードでそれを知り、教学が好きな人なのだろうと思って、退転状態からの脱出には
教学から入るのが一番だと考えたのでしょう・・・。
確かに僕は、国語の中でも漢文と古文が好きで、成績も良い方だったのですが、
そんなことは羽部さんが知る由もないのに、色々と考えた末の最善の方法が、
教学・・・、それもちょっと難しく、あまり聞かない御書で、研究対象の御書か・・・?
とても難しく、いまだにその時のことは良く覚えていないし、今も頭にありません・・・(笑)
ですがその講義のおかげで、男子部の会合に出るきっかけが出来て、すんなりと
退転状態を脱出することが出来ました・・・。
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最初の写真の婦人部総会は、こんな感じだったみたいです・・・。

前列中央が中楯支部婦人部長、前列右から3人目が僕のおふくろ(支部指導長)、
最後列右から2人目が当時の嫁の美喜子(ブロック担当員)・・・。
「婦人部総会」と打ち込もうとすると・・・、「婦人武装会」となってしまう・・・。
確かに、婦人部にとっては「化粧」が「武装」なのかも・・・(大笑)
そして当時の男女青年部は、和気藹々(わきあいあい)・・・\(^-^)/

ある時の登山会の、「大化城」前での記念撮影・・・。
羽部さんは一番後ろで右手を上げ、僕はその右側二人目。
こんな感じで男女青年部が仲良かったのも、羽部さんの実直さがみんなを
明るくさせていたのかもしれないです・・・。
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羽部さんは男子部員の家庭訪問にも、僕を一緒に連れて行ってくれて、
基本を1から教えてくれました・・・。
特に大事なことだと思ったのは、訪問して留守だった場合に、ただ帰るのではなく
面倒くさくても、必ず何時頃に誰が誰と来たのかを、メモで残すことを厳しく言われました・・・。
何度も来たんだよって言っても、証拠がなければ相手に対する影響力が弱い・・・。
でもメモを書けば、無駄な動きにはならないことを叩き込まれました・・・。
こんな地道な行動があったから、皆が信頼するんだろうなぁと痛感しました・・・。
さらに信心の基本も叩き込まれました・・・、思いやりと共に・・・。
良く一緒に、行き付けのあかちょうちんに飲みにも行きました・・・。
強制的ではなく、よく飲みに行きましたねぇ~~・・・。ワリカンで・・・(笑)
これは、戸田先生譲りの「一升ビンの団結」だったのでしょうか・・・(笑)
こちら秋田に来てからは、記憶を無くすぐらい酔うこともありますが、
羽部さんと飲んだ時にはそういう記憶はなく、気持ち良いほろよい気分でした・・・。
羽部さんの趣味は、僕が全く興味のないオペラ・・・(笑)
いまだに、「オペラ」と「オペレッタ」と「ミュージカル」の違いもわかりません・・・。
それなのに、熱く「ラマンチャの男」や「屋根の上のバイオリン弾き」を語り、
民音でその類の公演があると、強力に推進する人だったのです・・・。
当時の男子部員には、その手の芸術に興味のある人は皆無だったみたいです・・・。
そんな時に、桜台支部だったか桜台本部だったか主催で、僕の出身校の開進第三小学校で
運動会が行われました・・・。
そこで羽部さんは、フォークダンスをやっていた僕たち夫婦を主役にすることを
画策したのです・・・。
すなわち、当時は昼休みの恒例行事のフォークダンスを朝礼台の上で教えて、
皆が踊りやすいように企画したのです・・・。
現在は、フォークダンスを学校で踊らなくなったために、「オクラホマミキサー」「マイムマイム」
「コロブチカ」の三大フォークダンスさえ知らない人が多いってこと知ってましたか・・・?
20代の女の子に「『オクラホマミキサー』って知ってる・・・?」って聞いたら、
「それなんですか・・・?」だって・・・、世の中変わったよね・・・。
運動会・体育祭の時に、男子が心を躍らせたフォークダンスが今はないなんて、
欲求不満の男子も増えるんじゃないのかな・・・?
そんなフォークダンス全盛の頃だったので(今から約35年前)・・・、
大成功の昼休みになったみたいで、退転復帰のお披露目になりました・・・。

そんな時に撮ったのがこの写真・・・。
上の写真は、左から羽部さん、分部(わけべ)練馬区男子部長、僕、嫁・美喜子、菊地副部長。
下の写真は、左から羽部さん、分部練馬区男子部長、僕、藤原君、菊地副部長。
分部練馬区男子部長は、練馬区長・埼玉県長を経て現在は副会長で関東長・・・。
この頃分部さんは、35~40歳ぐらいだと思いますが、すっかり「ハゲ部」さんでした・・・。
辛うじて分け目の出来る分部さんでした・・・(笑)
註:御本人もこの頃自虐ネタで、「ハゲ部」を連発してました・・・。素敵な大先輩です・・・。
この写真で、替わって写っているのが、嫁の美喜子と藤原君・・・。
この藤原君は、桜台部(男子部は、桜台支部じゃなくて桜台部と言います)の
若手のエースだった・・・。そんなに若くはないけれど・・・(笑)

若い嫁さん明美ちゃん(写真右)と息子・広宣君のいる、頑張り屋・・・。
中卒で学力はあまりないけれど、教学の暗唱運動等では、人一倍努力して覚えていた・・・。
羽部さんも、相当期待していた男子部員だったのは、間違いないことでした・・・。
嫁の明美ちゃんは、天然なヤンキーで、ホットパンツ姿での座談会参加は当たり前、
授乳なんかも人目をはばからず、自分は20歳なのに高校生に対しても「今の若い子は」
なんて言っちゃう子なんだよね・・・、嫁・美喜子とは仲良し・・・、写真を見ると懐かしい・・・。
でもやっぱり悩みもあったんだろうね・・・、僕達が秋田に来てから、アルコール依存症になって
ご主人の実家の高知で暮らしていると聞いたけど、今はどうしているのだろうか・・・?
皆色々とありますよね・・・、ご本尊様を抱きしめてさえいれば、大丈夫だと思いますが・・・。
今回は、懐かしい写真をたくさん入れてみました・・・。
『僕の・忘れ得ぬ同志』は、次回が最終回になると思いますのでお楽しみに・・・。
今日は、この辺で・・・、出羽股之介・・・。